第11話
蒸し暑い日だった。ろくに動いていないのに、汗が噴き出て、Tシャツが肌に張りつく。柏木利久はキャップを取り、汗を拭った。鳴き続ける蝉の声が妙に耳にうるさいのは、暑さのせいだろうか。
サングラス越しでもわかるほどの雲一つ無い青い空。絵に描いたような、嘘みたいに綺麗な晴天だった。
遊歩道の一本道。両脇には桜の木が植えてある。春にはピンク色の桜が一面に広がるが、今は青々とした緑の葉がついていた。
柏木はキャップを被り、歩き出した。右側に小学校の校舎が見える。
人の気配はない。
まだ日中だというのに、小学生ぐらいの子と何度もすれ違った。今は夏休みのようだ。
なんの前触れもなく。訪れた欲求。
静かな湖に一片の葉が落ちた。それは波紋のように広がっていく。
柏木は学校に入った。
正門から入り、裏庭を通る。小さな池があって、メダカが泳いでいた。
鍵の掛かっていない窓を探す。
5つ目で開いた。柏木は誰もいないことを確認し、中へ入った。
ゆっくりと深呼吸をして、教室の匂いを吸い込む。小さい机と椅子が綺麗に並べられていた。柏木は子供達が登校した様子を想像した。子供の声が賑やかだ。ランドセルを置き、各自の席へついていく。
後ろの壁には生徒が書いた絵が張ってあった。稚拙で幼稚。完成されていないものは可愛い。大人には決して書くことができない絵だ。
廊下を出て右に行けば、体育館。左に行けば、理科室がある。理科室を通り過ぎると階段があり、あがってすぐに職員室がある。どこになにがあるのかは、全て把握してる。だって、ここは僕の母校。
どの学年がいいなんて、特にない。ただ、いけないことをしているというスリルがたまらない。演技なんかじゃない。このリアルがいいんだ。ほら、胸がドキドキしてきた。
柏木は床に膝をついた。小さな机に頬擦りをする。股間が熱くなるのを感じた。手でまさぐると、すぐに服がきつくなった。ズボンとパンツを膝までおろす。直で握り、上下に動かした。興奮が押し寄せる。入ってはいけない領域。非日常の空間。自然と手の動きが速くなる。
「何をしているんですか?」
柏木の動きが止まった。
血の気が引く。
ゆっくりと声の方を向いた。
白いTシャツに短パンのラフな恰好の男。
手には携帯を持っていた。
カメラは柏木に向いている。
「録っているんですか?」
柏木の問いに男は頷いた。
張り詰めた空気の中、男が口を開く。
「りっくん?」
長濱太陽。
人気者でいつもクラスの中心にいた。勉強もスポーツもそつなくこなして、器用なイメージ。悪い噂は聞いたことがない。正義感を振りかざすこともなく、いつも中立な立場だった。教師からも一目置かれていた存在。女の子に間違えられる容姿をしていたが、その面影はなくなっていた。
小学校を卒業して以来の再会。
柏木はすぐに後ろから来た教師に取り押さえられた。
あの動画がずっと気がかりだった。
マスコミに売られるか。ネットで拡散されるか。あれが世に出たら俺は本当に終わる。
柏木はベッドからおり、リビングへ向かった。玄関・廊下・リビングに風呂場。いたるところに置かれた植物。自然な物があったほうが落ち着くでしょうと真理子が置いたもの。蹴りたい衝動に駆られた。その優しさが煩わしい。それが甘えだということも充分理解している。いっそ、見離された方がよかったのにとも思う。そんな勇気もないくせに。俺は何がしたいんだろう。いや、何をするべきなんだろう。
柏木はソファに座り、ローテイブルに脚を乗せた。反省している奴の態度じゃないと、一人で笑う。
目の前のでかいテレビに反射して柏木自身がうつった。
保釈後、真理子の家に来た柏木はすぐにリモコンを手にとった。自分がどのように報道されているのか確かめたかった。テレビをつけると、すぐに―柏木利久容疑者―の文字がでてきた。
ハンマーで後頭部を殴られたような感覚。
あぁ、そうか。俺は容疑者なのか。
ドラマを見ているような気分だった。
俺はまだ、現実を受け入れられていないようだ。
どのチャンネルを見ても、トップニュースは柏木利久釈放だった。
警察署から出てきた柏木の目は窪んでいた。隈は濃く、頬は瘦け、身体は心労で一回り小さくなっていた。
良い表情だと思った。
自分の犯した犯罪によって憔悴しているが、一方で、どうしようもなかったんだ。誰か助けてくれよと縋る犯人の甘い一面も垣間見れる。
演技だったら最高だったのに。
場面はスタジオに切り替わった。司会の男が視聴者に向かって一礼する。
会ったことがあるが、良い人だった。
厳しい表情で話し始める。
「本日、10時27分。柏木利久容疑者22歳が釈放されました。小学校の校舎で、下半身を露出。自慰行為をしていたところ、現行犯逮捕されました」
司会の男は少し、俯くと再び視線をカメラに戻した。険しい顔をしている。
「私には、小学校になる娘がいます。娘は柏木さんのファンでした。だから、共演したとき、娘に会って貰ったんです。すごく、優しく接してくれて。娘はもっと好きになりました。その姿を見て、私もファンになりました。だから、今回の事件はショックでした。娘もそうゆう目で見られていたと思うと…」
男は言葉を詰まらせ、俯いた。
「今後、迷惑をかける行為は辞めて頂きたい。娘を持つ父親として、そう思います」
大衆ではなく、柏木自身に向けられた言葉。司会者が独断で個人に意見を発するなんて、異例だった。
「くそっ」
テレビを消し、リモコンを投げつけた。
「お前の娘なんかで立たねえよ」
いい人だった。初めて会ったとき、先に手をだし、握手を求めてくれた。娘がファンだと言ってくれた。穏やかで、怒りそうにない人。その人がはっきりとした口調で、俺に怒りをぶつけてきた。それがショックだった。
自業自得の何事でもない。同情の余地もない。だが、叔母の真理子は心配した。腫れ物を扱うように、死ぬほど気を遣っているのがわかる。どうにかして、今の状態から抜け出して欲しいんだろう。
俺だって、抜け出したい。
だけど、外に出れば後ろ指をさされるのは必須。日本中が俺を見張っている。
「ちょっと、こっちに来て貰えない?」
寝ていた柏木は足取り重く、真理子に着いていった。リビングに入ると、髪の薄い後頭部が見える。
誰だ?
仕事の関係者か?
男は額の汗を拭いていた。小太りの男で見覚えはない。目が合った。男は柏木を見つけると立ち、一礼した。
男は速水といった。
目が合ったがすぐにそらしてしまった。
事件後、真理子以外の人と会うのは初めてだった。俺は人と目を合わすこともできなくなっている。
「この子を使いたいの。私の番組で」
真理子の発言に驚いた。嘘だろ。外にも出られない俺がどうやって、カメラの前に立てばいいんだ。こいつは、何もわかっていない。
誰が俺を迎えてくれる?
無理だろ。スポンサーや客はすぐに離れていくぞ。それがわかっているのか?それとも、視聴者は商品が良ければ客は逃げないとでも思っているのか。
速水は一旦、持ち帰ると言って帰っていった。それが妥当だろう。どうせ、断られるに決まっている。
あの男が来てから何日が過ぎたのだろう。曜日や昼夜の感覚も無い。ただ、時間が過ぎるだけの毎日だった。
「これ、速水さんからよ」
帰ってきた真理子は紙袋を机に置いた。見覚えのある袋だった。光沢のある白い厚紙の袋に〝aumo〟の文字が品良く浮かぶ。
「速水?」
「この間、来た人」
ドラマの撮影中、柏木がよく差し入れにしていたカツサンド。丁寧に包装された薄葉紙を開いていく。白くて厚いパンに挟まれたカツはパンと同じぐらいに分厚い。手に取り、口へ入れた。味覚が覚えている。何度となく撮影現場で食べた味。共演者やスタッフから好評だった。テレビで紹介したこともあった。
すっかり忘れていた味。柏木は思わず部屋へ向かった。もう、現場でこれを食べることはできない。そう思うと涙が溢れた。
ここから出たい衝動に駆られた。自分は今、何をするべきなのか。謝罪会見?SNSでの発信?柏木は携帯の電源を入れ、電話をかけた。すぐに繋がる。
「もしもし」
マネージャーの根本はすぐに電話に出た。毎日聞いていた声。今にも迎えに来てくれそうだ。
「俺、利久」
「わかってるよ。何回も電話したんだぞ。元気なのか?」
「うん。あのさ、俺…」
「根本さーん」
電話の奥で呼ばれている。甲高い女の声だった。売り出し中の若手女優だろう。
向こう側に居たからわかる。今、根本は申し訳ないと片手を上げ、頭を下げている。
「忙しそうだね」
「まあな」
「俺さ…」
「実はな、事務所から解雇の話がでてる」
言葉がでなかった。
飲み込むのに数秒の時間がかかる。
「クビって事?」
「うん、ごめんな。力になれなくて」
「ううん。当然だよね。あんな事したんだもん」
「ほんとに、すまん」
「そんなことない」
十代のころから面倒を見てくれた事務所が俺を見捨てた。大きな風穴があく。一気に精神が不安定になった。
「利久」
「うん?」
「俺、個人でよければいつでも連絡くれていいからな」
「ありがとう」
「じゃぁ、切るぞ」
「うん」
切れた電話を耳に当てながら、呆然とした。
もう、戻れないんだ。あの頃には。
本当に戻れないんだ。
欲と引き替えに失ったもの。
自分の犯した罪がのしかかる。
「俺、個人でよければいつでも連絡くれていいから」
同じ台詞を言われた俳優を何人も知っている。根本が距離を置きたいときに言う台詞。
優しい言葉に隠れた本音。
そのことを俺が知っていることも根本は知っている。
それなのに。
「くそっ!くそっ!くそがっ!!」
柏木は携帯を壁に投げつけた。
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