第7話

速水啓輔はベルトにのった腹を両手で触った。何かをする前、速水は自分の腹をさすり、落ち着きを取り戻す。ちょっとした癖。良くいえば一種の儀式・ルーティーンみたいなものだ。以前は、胸に手をあて鼓動を感じていたが太ってからは出来なくなった。鼓動が聞こえなくなったのだ。身長159センチに80キロの重荷は耐えがたく、先日膝を痛めた。ゆえに、走ることができず、速水は早歩きで卯木真理子の楽屋へ向かった。ノックをし、返事を待つ。

「はいはーい」

よく通る声が扉を隔てて聞こえてくる。

速水は語尾の伸びる返事を聞き終えから、扉を開けた。

真理子は本日の目玉商品を着て、全身鏡に向かい立っている。

速水は背中越しに真理子を見た。

まるびをおびてきたといっても、長身で、手足が長い骨格はスタイルの良さを隠せない。

裾の長いシャツと伸縮性の高いパンツ。真理子は屈伸をして、着心地を確認していた。「動きやすいわね。これ」

真理子は振り返り、速水の方を向いた。歳をとったとはいえ芸能人だ。それなりに老いてはいるが、まだまだ魅力があり若い。

「ありがとうございます」

速水は一礼した。いつもの会話だった。真理子が小声で話し出すまでは。

「速水ちゃん、今度うちに来てくれない?」

唐突な誘いに速水は驚いた。

「ご自宅ですか?」

速水と真理子は付き合いが長い。だが、プライベートな付き合いは一切なかった。

「そんな鳩が豆鉄砲くらったような顔しないでよ」

真理子は声をあげて笑った。「おっかしい」と目尻を指でこする。普段、そんなに笑う人ではない。真理子の笑い声は速水の警戒心をあおいだ。

「冗談ですか?」

真理子の心情を伺う。

「ここでは言えない相談。日時はあなたに合わせるから」

急な小声に事の重大さを感じた。

「わっ…かりました」

速水は返答に戸惑いのニュアンスを含ませた。


駅が直結する大型商業施設サンシティブは、飲食店、アパレル、オフィス、ホールや劇場まで入っている40階の高層ビルだ。

多くの人が行き交う金曜の夜。サンシティブの地下にある〝酒肴(しゅこう)〟の前で久保田祐介は周囲を見渡した。片方の足に必ず重心がおいてあるたたずまい。身長は平均だが長い手足のおかげで、実際よりも高くみられる。くぼんだ目の下には消えないくまがあり、重い瞼と相まって陰な印象をもたれがちだった。

久保田は向かってくる木野を見つけると、目の前にあるトイレの廊下に隠れた。木野の様子を影から見る。

木野は〝酒肴〟の前で立ち止まった。内ポケットから携帯を取りだす。

久保田は、静かに近づき木野の肩に手を置いた。振り返った木野の頬に久保田の人差し指が突き刺さる。

「やめろ」

木野の冷たい言い方に久保田はイヒヒと肩で笑った。

「久しぶりやな」

「二週間ぶりだろ」

ストレートな木野のつっこみに久保田は、はにかむ。

「先、入るか」

「そやな」

通されたのは四人席の個室だった。飲み物の注文だけを済まし、掘りごたつに足を入れる。久保田のつま先が木野に触れた。

「やん…」

「気持ち悪いことをするな」

久保田の肩がイヒヒと揺れる。

「今日って速水やろ?」

おしぼりで顔を拭きながら聞いた。

「速水の誘いで、〝酒向〟ってやばない?」

「俺も思ってた」

速水のプロポーズの後押しを木野と久保田が酒向でして以来、何かあれば験担ぎとして、ここに呼び出されるようになっている。

「まぁ、本人が話すだろ」

「そやな」

「失礼いたします」

仲居が襖を開け、久保田にハイボール、木野にビールを置いた。

「じゃぁ、先に乾杯しましょか」

久保田は冷えたハイボールを持ち、ごくりと唾を飲み込んだ。グラスが重なり冷涼な音がなる。聴覚が刺激された久保田はゴクゴクと半分以上を一気に飲み干した。

「ぷはぁ!うっまいなぁ。夏はこれやな」

「本当に上手そうに飲むよな」

「それ、誰かにも言われたことあるわ」

「前の奥さんだろ」

「それや!」

ひと笑い起きたところで、襖が開いた。

「悪い、遅れた」

速水は木野の隣に腰を下ろした。

「で、何があったん?」

開口一番、久保田が聞いた。

「ちょっと待つとかしろよ」

「ごめん。待てへんかったわ」

久保田は両手を合わせ、大きく謝った。

「別になんもない。2人と飲みたかっただけだよ」

「嘘は辞めようや。嘘は。俺等、同期じゃないか。水くさい。ってか、この流れがめんどいわ。プロポーズんときも、お母さんの大病のときも、昇進試験のときも一回、なんもないって言ってたやないか」

まくし立てる久保田を見て、速水は笑った。

「久保田のつっこみまでだよな。この流れも」

「この会があるごとに、一文増えていくんだよ。お前のせいで」

「あっ、怒ってる」

「こんなんで怒るか!」

「じゃぁ、言うけどさ。実は」

速水の小声に木野と久保田は前のめりになった。

「ちょ、ちょっと。心の準備させてって。何系?何系なん?離婚か?」

速水は首を振った。

「妻とはいたって、仲良いよ」

「じゃぁ、仕事か?」

木野が聞く。

「まぁ、仕事だな。でも、社内の女に手だした。とかじゃない」

「それ、俺やないかい」

「女がらみといえばそうなんだけど」

「まじ?」

木野と久保田の声が重なる。

「卯木真理子。トレンドファッションの卯木真理子ね。真理子さんに相談があるって言われたんだ」

「相談て?」

「詳細は家で教えるって言われた」

速水は自分で言いながら、肩を落とした。

「降板か?」

木野が聞く。

「やっぱり、そう思う?」

速水は二人の顔を見て、続けた。

「降板て言っても、そんな急な話ではないと思うんだけどさ。あの人は、あの人なりにうちの番組に恩義を感じているからね」

「あぁ、あのときか」

と言い、久保田がハイボールを飲み干した。

「芸能界から干された真理子さんに、最初に声をかけたのがSTV。STVがなかったら真理子さんの芸能界復帰はなかっただろうって、自負してる」

「すごい自信やなぁ」

久保田はドリンクの書いてるメニュー表を一瞥し、速水に渡した。

「今日はちょっと」

速水が首を振る。

「なんでや?珍しいな」

「飲みたいんだけど、これからなんだ」

「これから?」

木野が繰り返す。

「うん。これから真理子さんち」

「速水よ。俺たちをいいように使うなよ」

「すまん。売れるまで時間が掛かった人だから常識人ではあるんだよ。だから、変にこじれることはないと思うんだけどね。なんとなく。験担ぎ」

「何時から?」

木野が聞いた。

「9時」

三人は同時に腕の時計を確認した。針は8時30分を指している。

「9時ってもうすぐだけど、大丈夫か?」

木野の問いに速水は人差し指を上げた。

「この上に住んでるんだ」


速水は〝酒肴〟を出ると地下街を走った。奥まで行くと、全面ガラスの自動扉に突き当たる。速水は壁と同化しているインターフォンに向かった。真理子に教えられた部屋番号を押す。

「はいはーい」

楽屋の時と同じ真理子の声。いつもと変わらない感じが逆にこわい。

「速水です」

「今、開けるわね」

両開きのガラスが動いた。

外の音は遮断され、静寂な空間。床は鏡のように磨かれ、歩く度に革靴の音が響く。

真理子は通販番組以外にも活動の場を広げている。地上波はもちろん、ユーチューブやSNSにも積極的に取り組み若い世代の人気も高い。

あの人は何をしても成功する人なんだろう。

速水は足音を響かせながら、エレベーターに乗りこんだ。

サンシティブに居住地があることは公にされていない。普通の人では、まずこの物件は紹介されないだろう。

エレベーターが開いた。美術館のようだった。正面に真っ直ぐと伸びた廊下は、淡い照明に照らされている。壁には額縁に入った絵が飾られていた。青と黄色を太い筆につけ、右から左へ線を引いただけの絵。抽象画というのだろうか。芸術に興味の無い速水は首を捻るが、高いということはわかる。ここに飾られているのが何よりの証拠だ。

真理子の住んでいる部屋まで3個の扉を通り過ぎた。当たり前だが、真理子の他にも誰か住んでいる。どんな人が住んでいるのだろう。よっぼどの金持ちなのは間違いない。

速水は真理子の部屋のインターホンを押した。

「はいはーい」

「速水です」

「今、開けるわね」

エントランスとまったく同じ会話が繰り返された。

「いらっしゃい」

真理子はすっぴんだった。普段、化粧で隠しているそばかすやシミが露わになっている。速水は目を合わせてよいのか戸惑った。

「失礼します」と言い、靴を脱ぐ。用意されていた仕立ての良いスリッパに履き替え、真理子の後ろをついていく。上下揃いの白いスウェットで髪は一つにまとめられていた。

リビングに入ると、夜景が広がっていた。角部屋である真理子の部屋は、景色が抜群に良い。

「すごい」

速水は景色に見入った。

「速水ちゃんなら気に入ると思った。前に、奥様の誕生日は必ず夜景の綺麗なレストランで食事をするって言ってたでしょ」

「すいません」

速水は気恥ずかしくなった。

「いいのよ。それより、座って座って」

速水は中央にあるソファに腰を下ろした。ローテーブルに置いてある小さな花瓶。ピンクの花が生けてある。ウッド調の家具で揃えられたリビングは、ところどころに観葉植物や花が置かれていた。

「何、飲む?」

真理子は対面キッチンから速水と目を合わせた。

「コーヒー?紅茶?お茶?水?お酒?なんでもあるわよ」

断ろうと思ったが、断る方が失礼にあたると思った。

「では、お水を」

真理子はグラスに氷を入れ、ウォーターサーバーから水を注いだ。

「どうぞ」

テーブルに置かれた瞬間、透明なグラスの中で氷が揺れた。

真理子は速水の隣に座った。

速水の鼓動が一気に早くなる。

「どんな相談か検討がつかないって感じね」

真理子は頬杖をつき、斜に速水を見上げた。

「そうですね」

女にもてなかった速水。女遊びなんかろくにしたことがない。絶対にないとわかっていても、このシチュエーションだけで緊張してしまう。

真理子は笑みを湛えた。全て見透かしているような顔。芸能界で得たものだろうか。それとも、生まれ持った感性か。真理子はたまにこうゆう表情をする。妖艶でいたずらで、困る相手を見て楽しむ。

「ここはすぐにわかった?」

「はい、なんとか」

「すごいわね。私なんか、まだ迷うときあるのに。やっぱ、男の人の方が道とか得意なのよね。きっと」

速水はグラスを手にとり、水をゴクリと飲んだ。身体が熱い。冷たい水が食道を通り、胃まで到着するのがわかった。

「ちょっと待ってて。呼んでくるから」

真理子はリビングを出た。

呼んでくる?誰かいるのか?

一気に不安が駆け巡る。

誰だ。いったい。

「お待たせ」

速水は顔を上げた。

真理子の後ろに隠れている男。誰だと目を凝らした。真理子が退け男が姿を現す。速水は虚を突かれた。柏木利久がいる。だが、テレビで見た彼はいない。前髪は伸び、頬は瘦けている。猫背で俯く彼は外を歩いていても柏木だと気づかれないかも知れない。芸能人が纏うオーラはなかった。

速水は驚いたが、冷静を装った。立ち上がり、柏木に一礼する。保釈時のときも痩せたと言われていたが、さらに痩せたように見える。

二人はどんな関係なんだ。

「どうして、この人がうちにいるかって?」

真理子は速水の心情を読んだ。

「私の甥なのよ」

「あっ…そうだったんですか」

気の利いた言葉の一つも出なかった。たしかに似ているかもしれない。長すぎる睫毛や猫のように尖った目頭。顎にかけて細くなる輪郭。

「相談というのは、柏木利久さんのことでしょうか?」

「単刀直入に言うわ」

速水は固唾を呑んだ。

「この子を使いたいの。私の番組で」

速水の額から一粒の汗が流れた。

何を言っているんだ。

犯罪者だぞ。無理に決まっている。

常識で考えてくれ。

「すいません。いったん、持ち帰ってもいいでしょうか。私の一存ではお答えできません」

速水は汗を手で拭った。

「そうね」

速水は水の入ったグラスを一気に飲み干した。

ここで、都合の良いことを言うわけにはいかない。無駄なしゃべりは命取りだ。

「そろそろ、失礼します」

「速水ちゃん、あなただけに言った意味、わかってるわよね?」

真理子は速水の手を掴んだ。

縋るような必死な形相。

振り払いたい衝動に駆られたが、耐えるしかなかった。

他人事のように横を向いている柏木に苛立ちを覚える。

お前の話をしているんだぞ。

「この案件、少し時間を頂けませんでしょうか?」

真理子の手が離れる。

「わかったわ。速水ちゃん、ありがとう」

安堵の表情がみられる。

違う。違うぞ。

そう言わなきゃ、この場は収まらないだろう。

決して、受け入れた訳じゃない。

頭の良い人だ。自分の言ったことが滅茶苦茶なことぐらい分かっているはずだ。そんなにこの無愛想な甥が可愛いのか。

「では、失礼します」

玄関まで速水を見送りに来たのは真理子だけだった。

深々と頭を下げる真理子に目を背けながら、速水は外に出た。静かな廊下。高級マンションに怯む余裕はなくなっていた。重力が行きの倍かかっているような気がする。

速水は重い足取りで家路についた。


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