第2章
第6話
タクシーが停まると、舞衣は木野からもらった1万円で支払いをすませた。2階建ての木造アパート。セキュリティも何もない。躊躇無くタクシーに乗った木野さんは一体、どんなところに住んでいるんだろう。ただ関係を持っただけ。それ以上でも以下でもない。比べて、卑下する必要なんてない。
アパートの隅に立てかけてある紺色の自転車を見つけた。
拓也が来ている。
舞衣は外階段を登り、静かにドアを開けた。身震いするほどの寒い風が舞衣を出迎える。暑がりの拓也の仕業だ。
「ただいま」
中の気配を探りながら小声で言った。
常夜灯の中、拓也はベッドで寝息を立てている。舞衣はローテーブルにあるリモコンを取り、温度を上げた。バッグを置き、風呂場へ向かう。服を脱ぎ露わになる痣。赤、青、紫、黒の濃淡が綺麗だった。明日には変化する色彩。舞衣は時期に消えてしまう痣に触れた。感じる鈍痛がさっきまでの記憶を蘇らせる。
何日もつだろう。
痛みは相当だったから、2週間は消えないかもしれない。
でも、拓也にばれることはない。誘われても、断れば絶対に手をだしてこない。もし、流されても暗くしてと言えばいい。たとえそれが何も見えない暗闇でも拓也は受け入れてくれる。拓也は優しい。
舞衣は余韻を洗い流し、パジャマに着替えた。
拓也の眠るベッドに横になる。さっきまでは違う男が隣で寝ていたのに。
「遅かったね」
「ごめん、起こした?」
「いい匂い」
拓也は舞衣を後ろから抱きしめた。拓也の手が舞衣の胸に触れる。
「もう、遅いよ。今日、月曜だし」
「だよね」
手は下がり、腰に落ち着いた。
拓也の携帯が落ちて、舞衣は目を覚ました。
「わるい。起こした」
時計は6時をさしている。寝癖のついた頭を掻きながら拓也は欠伸をした。割れた腹筋がTシャツの裾から見える。連日の夏日により、肌は焼けていた。
「むしろ助かったよ。このまま寝てたら、起きれなかったと思う」
「昨日、遅かったんだっけ?」
舞衣の返事を待たず、拓也は玄関へ向かった。信頼しきっているのがわかる。遅くても浮気の心配などはしていない。
「もうさ、同棲しちゃう?」
拓也はサンダルを履きながら言った。
「いちいち、帰るのも面倒くせえし。まぁ、考えといて」
そう言い残し、拓也は自分の家へ戻った。
「同棲か」
考えたことがないわけじゃない。
拓也は中学の時の同級生。同窓会で再会して、住んでる場所が近いことが分かって、飲みに行くようになって、自然と今の関係になった。互いに三十目前。昔から知ってて、実家も近い。将来を見据えるには良い相手だ。
舞衣は携帯を取った。
―おはよう。奴隷―
強い引力で一気に現実に戻される。
いやっ、違うか。こっちが現実。自分の部屋で彼氏を送り出す。これが現実だ。
じゃぁ、奴隷と呼ばれている私は?
現実の対義語を調べた。
〝理想〟
なんとも皮肉だ。
――――――――――――――――――――
木野は誰もいない早朝の会社で顔を緩めた。
―おはようございます―
奴隷からの連絡は気持ちがいい。顔が緩むのは心が満たされているからだろう。
―ちゃんと眠れたか?―
すぐに返事が届く。
―あんまりです。木野さんは眠れましたか?―
木野は眉根を寄せた。
―呼び方が気に入らないな―
―そうですか?―
―お前は俺の奴隷だろ?―
舞衣からの返信が途絶える。
まあいい。すぐに奴隷は会社に来る。
木野は舞衣のデスクを見て、ふと思った。
こいつは仕事ができるのだろうか?
出入口で、清掃員が一礼した。見慣れない顔。また、人が変わったようだ。初老の男は編集部の掃除に取りかかった。
「捨ててもらいたい物があるんだが」
木野が話しかけると、男は軽く頷いた。帽子を深く被っており、目は見えない。
「ちょっと来て」
男は作業を中断し、木野の後に続いた。
木野は廊下の隅を指さし「一番端にある部屋に段ボールが3つある。なるべく早く処分してくれ」
男は頷いた。
始業時間である9時5分前。木野は舞衣が席へ駆け込むのを見た。呼吸は激しく、汗が止まらない様子。顔も真っ赤だ。隣の席の中野知美がハンカチを渡そうとした。舞衣は拒んだが、鞄の中を全て出してもハンカチは見当たらず。結局、借りていた。
舞衣は汗を拭き、パソコンを立ち上げた。一息ついた舞衣と木野の目が合う。
木野は凝視したが、舞衣はすぐに目をそらした。
木野は嘆息した。
仕事は出来なそうだ。
―昼を食べたら残業を任せた部屋に来い―
木野は舞衣にスウィーツを送った後、指定した部屋へ向かった。
扉を開けると、机に置いてある段ボールが目に入った。
「まだあるのか」と舌打ちする。
舞衣の座っていた椅子に腰を下ろし、柏木利久の動画を検索した。昨夜、釈放されたらしい。女性社員がドラマのワンシーンみたいで格好良かったと阿呆なことを言っていた。
たくさんの報道陣が駆けつけている警察署前。すぐに奥から人影が表れた。背広を着た3人の男に連れられ、柏木利久が現れる。激しいフラッシュがたかれていた。カメラの前に立たされた柏木は正面を見て、報道陣を一望した。何をするにも映える顔。瘦けた頬が鋭く、虚ろな目が神妙だった。人の目を惹きつけ、脳裏に強い印象を残す。まさにドラマのワンシーンだった。
柏木は間をたっぷりと取り、頭を下げた。
瞬間、画面の右上に数字が表れる。叩頭の時間がカウントされていた。10秒だった。
芸能人の不祥事が相次ぎ、叩頭時間が注目されるようになった背景があるのだろう。
だが、実にくだらない。
頭を下げながら数を数えているかと思うと、反省もなにもないように思えてくるのは俺だけか?しかし、世間の声に抗えない芸能界。たとえ、本人が嫌だと言ってもしょうがないこともあるのだろう。顔を上げた柏木は何も言わずにその場を去った。
この場で全て曝け出せたら楽だろうに。不服な表情の裏に、寂寥感を感じた。
女が騒ぐのも頷ける。
あの日、柏木は一夜にして地へ落とされた。もはや日本に彼の居場所はないだろう。外に出れば何をしてても晒される。好奇・軽蔑・哀れみ・同情。今、彼は様々な感情を向けられている。スマホを手にした馬鹿が隠し撮りをし、SNSに投稿。一人に見つかれば、世界中に晒されると思っても過言じゃない。
なんと恐ろしい世界だ。芸能界というところは。いや、有名になるということは。
扉を叩く音を聞いて、木野は携帯を背広の内ポケットにしまった。
「失礼します」
舞衣が部屋に入る。坊主に毛が生えたような髪。Tシャツにジーパンも相変わらずだ。本当に自分の見せ方をしらない女。裸の方が何倍もマシだ。
「あの…こうゆうのはどうかと」
「こうゆうのとは?」
木野は緩む顔を手で抑えた。
奴隷が俺に意見を言っている。実に愉快だ。
「編集長は編集長だからいいですけど。私はただの派遣なので。周りの目もあるし」
といいながら本気で嫌がってはなさそうだ。
木野は立ち上がった。奴隷の身体がびくりとこわばる。木野は舞衣との距離を縮めた。舞衣の背中が壁に当たり逃げ場がなくなる。
「一回ぐらいいいだろ。せっかく、奴隷が同じ会社にいるんだから」
舞衣の目が伏せた。
こうして、奴隷を追い詰めるのは楽しい。
木野は舞衣の耳元で囁いた。
「俺はお前と違って、会社で人に言えない行為をしたことはないよ。ましてや、トイレで自慰行為をしたこともない」
舞衣の顔が赤く染まっていく。パクパクと口は動くが言葉は出ない。
「俺は嬉しいんだよ」
「嬉しい…?」
「あぁ、調教しがいのある奴隷に逢えて」
木野は宥めるように舞衣の短い髪を撫でた。
「秋吉」
「え?」
「俺の名前」
木野は舞衣の頬に触れた。瞬間、舞衣の顔がビクリと強ばった。反射的に叩かれた恐怖を思い出したのだろう。
本能に俺の記憶が埋め込まれている。実に気持ちがいい。
「ごめんなさい」
謝る顔を見ると、つい興奮する。
「何について謝ってるんだ?」
「怒ってるかなと思って」
「理由も分からないのに謝られて、俺が喜ぶと思うか?」
舞衣は首を振った。
「そうだろ。そうだよな」
舞衣が頷く。
「俺がスウィーツで送ったこと覚えてるか?」
「呼び方が気に入らないって」
「そうだ」
「えっと…」
舞衣は足りない頭をフル回転させているが、俺が求めている呼び名は出てきそうにない。
「秋吉様」
「えっ」
「言ってみろ」
「あきよし…さま…」
言い終えた後、舞衣は自分の唇に触れた。
「誰かをそう呼ぶのは初めてか?」
舞衣は恥ずかしそうに頷いた。
「金髪は?あいつは何て呼んでいた?」
「名前を呼ぶような間柄じゃなかったので」
「そうか」
「慣れるまで…恥ずかしいですね」
無理もない。名前に〝様〟をつけて呼ぶなんて普通はない。ましてやここは会社だ。平凡な日常に、俺という主がいる。でも、それはもうしょうがない。
「早く慣れろよ。奴隷」
木野は扉をあけた。入れ替わりに清掃員の男が中に入る。
「すいません。遅くなって」
男は木野に詫びをいれ、机の上の段ボール箱を台車にのせた。
「それ、捨てるんですか?」
舞衣が聞く。
「はい。朝、頼まれまして」と清掃員は木野を見た。
全ての段ボール箱を乗せ終わり、清掃員は部屋を出た。
「嘘だったんですか?」
怒っている。
まあ、無理もない。
「やり方がこれしか思いつかなかったんだ。俺なりの事情があるって言っただろう」
「俺なりの事情って、なんですか?」
「お前を残業させる口実がこれしか思いつかなかったんだ。すまない」
木野は頭を下げた。柏木利久同様、10秒数えてみる。途中、「顔を上げてください」と肩を揺らされたが無視した。10秒が終わり、頭を上げる。
「すまなかった」
もう一度、謝った。
「そんな風に謝られたら、受け入れるしかないじゃないですか」
なるほど。10秒にはそれなりの根拠があるのかもしれない。だが、こんなパフォーマンスにひっかかるのは、〝宮内舞衣〟だからだろう。
若菜だったら、激怒どころではない。自分を抱くために無駄な内職を何時間もやらされる。謝ったところで、許さないのが普通だ。
それに比べ舞衣は許容範囲が広い。なおかつ、セックスに対してのハードルが低く、男好き。自分に好意があるとわかれば、ある程度のことは融通がきくだろう。自我がなく、流されやすい。扱いやすく、染めやすい未開発のマゾ。
知れば知るほど適してる。
早く無理をさせたい。どこまで堪えられるのか見定めたい。
「次はいつ空いてる?」
「もう、戻らなくちゃ」
舞衣は逃げるように部屋を出た。
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