第4話 接近

旭が丘の駅から家までの道のり。木野は亞矢と話しながら帰るのが日課になっていた。

「日が暮れて、少し涼しくなったな」

出だしはいつも天気の話。それからどうでもいい雑談を挟み、本題にはいる。

「今週、空いてる日はあるか?」

「今週ですか?」

「俺は逢えない奴隷に時間を割くつもりはない」

「ごめんなさい。突然で、びっくりしました」

「突然じゃないだろ」

「そうですね」

「俺の写真を送るよ。逢う前に知っておいた方が安心だろ?亞矢も送れよ。昔のでいい。俺も昔の写真だしな」

亞矢からの反応がない。

躊躇するのは当たり前だ。誰だって逢ったことのない人間に自分の顔を晒すのは嫌だろう。

「じゃぁ、切るぞ」

「あっ…はい」

こうゆうときに送る画像は決まっている。30半ば。社員寮で撮った写真。缶ビールを持ちながら木野・速水・久保田は肩を組み笑っている。木野は自分の顔を切り取った画像を亞矢に送った。

―すごい笑ってますね―

画像を送った直後から音信不通になったこともある。返事が来ただけマシだろう。

―じゃぁ、私のも送りますね―

すぐに画像が届いた。

上目遣いの大きすぎる目。頬は瘦け、顎は先端が極端に細い。明らかに加工している。これじゃぁ、原型が分からない。木野は電話をかけた。

「まったく、わからない」

「ごめんなさい。普通のがなくて」

加工前の写真は絶対にあるはずだが。と喉まででかかったが「わかった」と受け入れた。

「今週の土曜は空いているか?」

苛立つ気持ちから先を急ぐ。

「えっと…大丈夫です」

「了解。じゃぁ、空けておくな」

「はい」



――――――――――――

木野は髪に櫛を通した後、鏡に向かって口をニッと開いた。顔を左右に振り、食べカスがないか確認する。

スーツに袖を通し階段を下りた。若菜はコーヒーを口に運んでいるところだった。

「あれ?今日、仕事だっけ?」

「何度も伝えたぞ」

「そうだっけ?帰りは遅いの?」

「飲んでくるかもしれない」

若菜は伸びをしながら、大きなあくびと共に「りょうかい」と返事をした。

「コーヒー飲んでく?淹れたてだよ」

「いや、もう出かけるよ。ありがとう」

「そう。行ってらっしゃい」

若菜はソファに転がり、軽く手を振った。


初めて逢う俺の奴隷。どんな女だろうか。話している感じ頭は良くなさそうだが、そんなのはどうでもいい。馬鹿だろうがブスだろうが、俺に忠実なのが絶対だ。

木野は二回の乗り継ぎを経て、待ち合わせ場所のカフェについた。時刻は8時40分。約束の時間は9時だ。まだ余裕はある。

朝から逢いたいと言ったのは亞矢だった。亞矢にも何かあるのかもしれない。早く家を出なければいけない事情が。

木野はブラックコーヒーを頼み、一番奥の席に座った。ここなら入ってくる客が自然と目に入る。

―着いたぞ―と亞矢にスウィーツを送った。

学生、サラリーマン、カップル。昨晩から飲んでいたであろう若者達。様々な客層が途絶えずカフェに入ってくる。

一人の若い女が入ってきた。Tシャツにジーンズという出で立ち。これから主に逢おうとするM女の格好ではない。こいつではないだろう。

9時20分。

木野は携帯をひらいた。

―何かあったか?―

打って、すぐに消した。

9時30分。

亞矢からの連絡はない。

木野は3階の窓際に移動し、外を眺めた。

往生際が悪いな俺は。

もう亞矢は来ないだろう。

独身が嘘だとばれたか?嘘をついた腹いせに、こんな嫌がらせを?

それとも、待ち合わせ場所が悪かったか。近くにはSMホテルやSMバーが数件ある。この界隈では有名な場所だ。それとも、違う男と天秤にかけられていたのかもしれない。M女は男と違って、引く手あまただ。俺は上手くやられたのだろう。

ばからしい。帰ろう。

席を立ったとき、細い路地裏からカップルが出てきたのが見えた。あの路地の先にはホテルしかない。女は似合わないミニスカートを履いていた。遠くからでもわかる。まったく着こなしていない。きっと、男に強制されたものだろう。

男は金髪でやぼったい服装だった。歩き煙草をしている時点で知能がうかがえる。

どうして、あんな男が。

すっぽかされた苛立ちを見知らぬ男にぶつけている自分に嫌気がさす。

ほんとに帰ろう。

席を立った木野の足がとまる。

何かが引っかかった。

もう一度、あのカップルに目を向ける。

何だ。

どこかで見たことのあるぞ。あの女。

記憶を遡っていく。

あれは…

木野は目を見張った。

あれは派遣の…

駄目だ。名前は出てこない。



――――――――――――

目の前に好物の甘いドーナツがあるというのに、手も足もでない犬。不本意だが、木野は空腹の犬だった。

編集長である木野のデスクは、部屋全体が見渡せるよう窓を背に内側を向いている。正社員のデスクが目の前に並び、その奥に派遣社員が座っている。

木野は宮内舞衣を見た。真面目にパソコンを打っている地味な女。正直、男が気になるのは隣に座る中野知美だろう。きつい顔立ちだが美人で華がある。悪いが宮内はいい引き立て役だ。おかっぱみたいな短い髪。いつもTシャツにジーンズで同じような服装。

土曜日までは気にもとめなかった女。


「宮内さん、ちょと待って」

舞衣はエレベーターのボタンを押したところだった。

「どうしたんですか?」

自分を呼び止めた人が木野だと知って、舞衣は驚いた。入社して以来、話したことはほとんどない。

「ごめん、残業してもらえないかな?派遣さんにこんなこと頼むなんて本当は駄目なんだけど。ちょっと事情があって」

「事情ですか?」

舞衣は少し考えてから「わかりました」と承諾した。

化粧室に寄っていた知美は、木野を見て立ち止まった。

〝どうしたの?〟と舞衣に目で合図する。

「残業することになったの。先に帰ってて。ごめん」

知美は気の毒そうに頷き、舞衣が押したエレベーターに乗った。

 

舞衣は一番隅にある部屋に通された。窓のない5畳ほどの空間には、正方形の机と椅子が2脚、対面に置かれている。机の上には段ボールの箱が3箱積まれていた。舞衣が椅子に座ると、木野は扉を閉めた。

「俳優の柏木利久。うちの番組に出てもらう予定だったんだ。それが、あの事件で駄目になってさ」

そう言いながら、木野は段ボールを開けた。STVの番組表が束になって入っている。木野は一枚とり、舞衣に渡した。

「卯木真理子のトレンドファッション。ゲストが柏木利久になってるだろ。これをひたすら消して欲しいんだ」

「これ、全部ですか?」

「できるだけでかまわない」

「わかりました」

木野は修正液を舞衣に渡した。

「仕事が終わったら俺も手伝いに来るから。よろしくな」


木野はオフィスに戻り、仕事を始めた。

だが、集中できない。頭には宮内舞衣がいる。木野は授業中の学生のように、時計の秒針を眺めた。

早く時が経てと。

20時になると、木野は社員を帰らせた。残業を減らせと人事から通達が来ていたのが功を奏した。人気のなくなったオフィス。今、このフロアには宮内舞衣と俺しかいない。

木野は舞衣のいる部屋をノックした。

「はい」

中から疲れた声が聞こえた。

「入るぞ」

木野は中に入ると、舞衣の前に座った。

「お疲れ様。疲れただろ」

「正直、疲れました」

舞衣の本音が漏れる。段ボール2箱目の中盤あたりだろうか。

「こんなに進んでると思わなかったよ。ありがとう」

木野は頭を下げた。

「やめてください」

舞衣が顔をあげるよう促す。

「いや、冗談じゃなくて。あの事件が俺のところにまで影響するとは思わなかったよ」

木野は舞衣が修正したチラシを箱に戻した。

鞄からビールを二缶取り出し、机に置く。

「宮内さんは飲める人?」

水滴のついた缶を見て、舞衣は唾を飲んだ。

「よかったら、どうぞ」

「いいんでしょうか?」

戸惑いながら舞衣がこたえる。

「いいだろ、別に」

舞衣は平然とこたえる木野を見て、ビールを手に取った。プシュッと瑞々しい音が鳴る。冷えた缶を口元に運ぶと、乾いた喉にアルコールが流れた。

「いい飲みっぷりだね。宮内さんは強いの?お酒」

「あっ、すいません」と言い、舞衣は口を拭った。

「強くはないですけど、飲むのは好きです。木野さんは好きですか?」

「俺は好きだよ。毎晩飲んでるし」

「そうなんですか。でも、意外です。会社でこんなこと。ルールとか破らなそうなのに」

「たまには息抜きぐらいしないとな」

「そうですね」と舞衣が笑った。

「これ一本飲んだら帰るか」

「はい」

互いにゴクゴクと喉を鳴らした。

「宮内さんはうちに来て、どれぐらい経つんだっけ?」

「半年です」

「慣れた?」

「大分、慣れましたけど、私は仕事ができるほうではないので。って、木野さんの前で言うことじゃないですよね」

「いや、そんなことはない。本音で話してくれるのは嬉しいもんだよ。部下は俺に思うことがあっても言えないしな」

「そうゆうものですか?」

「そうゆうもんだな」

木野はビールを一口飲んだ。

「なんか、湿っぽくなったな」

舞衣は首を振った。

「宮内さんは休みの日は何してるの?あっ、これってセクハラ?」

「大丈夫です、私は。何を聞かれても」

「じゃぁ、聞いてもいい?」

舞衣は小さく頷いた。

「土曜日の朝は何をしてたの?烏丸で」

核心をついた。

舞衣は目を泳がせ、口をパクパクさせている。こいつは、自分じゃないと嘘をつく選択肢はないのだろうか。いや、機転が利かないだけか。これじゃ、何も言わなくても自分だと言っているようなものだ。

「木野さんも…いたんですか?」

表情がぎこちない。かろうじて聞いているのがわかる。

「いたよ」

舞衣の顔が青ざめていく。

作り笑顔を披露したが、すぐに目をそらされた。

舞衣は残ったビールを全て飲み干し、「そろそろ帰ります」と席を立った。木野も急いで帰り支度をし、舞衣を追いかける。

舞衣は非常階段に向かった。たしかに、エレベーターより階段の方が賢明だろう。

「ちょっと待って」

シンとした階段で声が響く。木野は声のボリュームを落とした。

「せっかくなんだし駅まで一緒に行こうよ」

舞衣は明らかに動揺している。早くこの場を去りたくてしょうがない様子だ。

「ごめん。変なこと聞いて。ただ、気になって。君の彼氏のことを悪く言うわけじゃないんだけど、風貌がなんとなく心配で」

ガラにもないことをしゃべった。そんなこと一ミリも思っていない。

「彼氏じゃないです」

「彼氏じゃないってことは…そうゆう関係ってこと?」

直接的な単語は避け、遠回しに匂わせた。烏丸に精通してれば伝わるはずだ。

舞衣は少し考えてから口を開いた。

「そうですね。たぶん、そうゆう関係です」

観念したような素振り。

疑惑は確信へ。

こいつはやはり、マゾだ。

「でも、あんまり良くはないですけど。やっぱり、都合良く使われちゃうので」

言い終わると、あははと笑った。

から笑い。面白いことは何もない。

「宮内さん」

舞衣が木野を見つめる。

「俺も同類だよ」

リアルに知り合った女にこんなことを言うのは初めてだった。派遣とはいえ、部下に当たる女。近すぎる。でも、まぁ、いいか。

所詮、派遣。抵抗されたら、切ればいい。

「木野さんもMなんですか?」

は?

「なんか意外だなぁ」宙を見ながら、のんきに感想を述べている。

「宮内さん」

振り向いた顔は嬉しそうだった。仲間ができたと思っているに違いない。

「悪いが、俺はサディストだ」

舞衣の笑みが消えた。

「だからって、相手を痛めつけるだけで興奮する訳じゃない。互いの信頼関係がある上でするのが理想。でも、こんな性癖に合う女はなかなか見つからない」

「わかります。すごく」

舞衣の共感は木野を饒舌にさせた。

「俺は関係性を重視してる。身体だけの関係はつまらないしな。もう、そんなのは終わりにしたい。俺は厳しく躾けるが、ついてくる女は大事にする」

「大事に?」

「あぁ、俺の奴隷にはな」

「奴隷…」舞衣は独り言を呟いた。

「愛しいと感じたら、泣かせたくなる。痛めつけて許しを蒙らせたくなる」

木野は舞衣の頬に触れた。

「殴られながら犯されるのは好きか?」

「されたことないけど…たぶん」

嫌がっていないのは明らかだった。

「試すか?」

舞衣の高揚した顔がすぐに曇る。

「でも…今、身体に痣があって」

舞衣は両手で身体を隠した。右手は肩に。左手は腰をなぞっている。

裸で同じ動きをさせたらどうだろう。隠しても隠しきれない生々しい痣が見え隠れするだろうか。

「金髪につけられたのか?土曜日に?」

舞衣は気まずそうに頷いた。

身体の中心がドクンと波打つのがわかった。

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