第2話

―亞矢さん。連絡ありがごうございます。こんなに早くメールが来ると思っていなかったので嬉しいです。

改めて自己紹介をしますね。私は都内に住む四十五のSです。身なりは仕事柄、気を遣っています。不潔な印象はもたれないと思います。SM歴は20年ほど。バイブ・猿ぐつわ・手枷足枷・アナル開発・複数・貸し出しなどの調教を行ってきました。いきなり全てを求めることはありません。不安にならないでください―


―時雨さん。連絡ありがとうございます。調教内容を見て、びっくりしました。知識だけはあるので理解はできますが、実際にされたことがあるんですよね。すごいな。私も自己紹介をしますね。都内在住24歳です。私も仕事柄、身なりには気を遣っています。経験はありません。よろしくお願いします―


―亞矢さんも都内ですか。住んでいる場所、近いといいですね。一つ、気になることが。かなり年上ですが、大丈夫ですか?―


日はとうに暮れ、帰宅する人が多くいる時間帯。木野は駅の雑踏を通り抜け、電車に乗り込んだ。目の前の乗客が立ち、偶然空いた席に座る。

携帯を開き亞矢からのメールを確認した。


―私、年上の方が好きなので問題ないですよ。むしろ、こんなに下で時雨さんが嫌じゃないか心配です―

―問題ないですよ。よければ、スイーツでやりとりしませんか?―

すぐに、亞矢から返信が届いた。

―大丈夫です―


木野はスイーツのIDを送った。すぐに新規の友達〝亞矢〟からのメッセージが届く。ぺこりと頭を下げた猫のスタンプが送られてきた。

―これでスムーズに話ができますね―

―そうですね(踊っている猫のスタンプ)―

―いきなりですが電話で話しませんか?―

―えっ―

―今、電車なんです。最寄りの駅についてから歩くんですが、その間だけでもと思って―

亞矢からの返信が途絶えた。急過ぎたか。まぁ、いい。電話で話せないなら逢うこともないだろう。駄目なら早いほうがいい。

木野は携帯をバッグに入れた。目を瞑り、最寄り駅までの時間を休息に費やす。

乗車時間は約40分。着く寸前で目を覚ました。間隔は身体に染みついている。

ホームに降り、携帯を開いた。

―電話、待ってます―

足早に改札を出た。少し歩いてから電話をかける。

プルル プルル…

「はい」

「もしもし、亞矢さん?」

「はい、そうです」

女らしい、しおらしい声だ。

「緊張してる?」

「少し…」

「俺もだよ」

「はい」

「亞矢さんは家?」

「そうです」

「俺みたいな奴と話したことはあるの?」

「ないです」

「ほんと?」

「電話を掛けたことはあるんですけど、声を聞くと、こわくなって切っちゃうんです。だから、こうやって会話するのは初めてです」

「俺は大丈夫なの?」

「うん。どうしてか、わからないけど」

「悪い気はしないな」

受話器の向こうでフフッと笑う声が聞こえた。このまま、ただの雑談で終わるか?俺が欲しいのは彼女じゃない。

「でも、〝うん〟はやめようか。俺たちは対等じゃないんだよ」

空気がピンと張り詰めたのがわかる。

「わかった?」

少し声のトーンを抑えた。叱るように、宥めるように。

「気をつけます」

「そうだな」

今度は木野が笑った。

「はい」

安堵した声。ほっとした顔が目に浮かぶ。こいつはどんな顔をしているんだろう。笑った顔を殴り、怯えさせたい。泣かせたい。そして、跪かせたい。

「近いうちに逢おうか」

「えっ」

「さっきと同じ反応だな。電話のときと同じだよ。緊張するのは知らないから。逢ったらどうってことない」

「きっとそうですよね」

「もちろん無理にとは言わない。亞矢がこわくないように配慮する。明日、また話そう」

「はい、わかりました」

「楽しみしてる」

「私も…です」

電話を切ると、なんともいえない充実感を感じた。奴隷と話すのは気持ちがいい。加虐芯が満たされていくのがわかった。

.付箋文5

旭が丘の家に越してきて3年が経つ。都心までのアクセスは乗り換えなしで一本。緑が多く、閑静な住宅街だ。土地は広くないが、二人で暮らすには充分な二階建て。外壁は白で統一されているが、南側の一面はガラス張り。アプローチには白いタイルがひかれ、夜になると埋められたオレンジ色のライトが優しく家主の足下を照らす。一級建築士に依頼したデザイン性の高い家。木野は自分の家に満足していた。

「ただいま」

リビングで寛ぐ若菜に声をかけた。

「おかえりなさい」と言い、若菜は木野の方へ寄ってきた。そして、両手を前に出す。

「ん?」と木野が聞いた。

「忘れたの?」

「何を?」

「明日の食パン。帰りに買ってきてってラインしたのに」

「あぁ、ごめん。すっかり忘れてた」

若菜はわざとらしく、大きな溜め息をついた。

「もう、いいわ。自分で買ってくるから」

「俺も行くよ」

木野は鞄をソファに投げ、若菜を追いかけた。駅とは逆の方へ進む。上り坂だが、少し行けばコンビニがある。夏の夜。冷たい風が吹き、若菜の長い髪が揺れた。

「たまにはいいね。こうゆうのも」

若菜の表情が和らぐ。機嫌がなおってきたようだ。

「そうだな」

飾りっ気のない若菜の顔が月明かりに照らされた。同じ年齢の女よりも綺麗なのは、仕事という生きがいがあるからだろう。


恋愛よりも仕事を優先してきた若菜は気づいたら40目前になっていた。誕生日まで一ヶ月を切った晩、父親が倒れたと連絡が来た。若菜はすぐに病院へ向かった。ベッドの上に横たわる父は、家にいるときよりも弱って見えた。

「大丈夫なの?」と声をかけたが、意図する返事は返ってこなかった。

「孫はいい」

父の台詞に意表を突かれる。

「孫は諦めた。せめて、結婚して安心させてくれ」

父の横で何も言わずに涙を拭う母。私が来る前に何を話していたんだろう。結婚なんて無理してするものじゃない。そう言っていたのに。若菜はこのとき、初めて両親の本懐を知った。

姉は結婚して子供もいる。だから、満足しているものだと思っていた。でも、それとこれとは違うらしい。

独身女で集まる飲み会では、必ず両親への愚痴がでる。「結婚しろって、本当にうるさい」飲み終えたグラスが強い音を立て、テーブルに置かれた。そして「若菜の親御さんは良いよね。何も言わないんでしょ?」と続く。言えなかっただけだった。素直に申し訳ないと思った。自分の病気に後押しされやっと言えた本望。若菜は両親の願いを叶えるべく、結婚相談所に入会した。

会員登録10万人。その中からたった1人の結婚相手を探すと思うと気分が萎えた。顔・身長・学歴・年収。データばかりじゃわからない。相手の目を見て話した方が何倍も効率がいい。若菜は相談所が主催する婚活パーティーに参加することにした。

20人対20人。丸に並べられた椅子に男女が交互に座る。ぱっと見た感じ、男の年齢は不詳だった。でも、女はわかる。自分よりもはるかに若い子達が並んでいた。まだ30代だと自分に言い聞かせ、椅子へ座る。

自己紹介タイムが始まった。5分経ったら男は立ち、右へ回る。全員と話し終わるまで、繰り返される自己紹介。目まぐるしく駆け抜けていく男達の顔を若菜は覚えられなかった。

「では終了です。皆様、お疲れ様でした」司会の女性がよく通る声で言った。

たった今、話し終わった男は背もたれに身をあずけた。

「疲れましたね」

男は若菜に言った。

「ほんとに」

さっきまで話していたのに。ここに来て、初めて出た素の自分。若菜は肩の荷をおろした。ずっと、張っていた気が抜けていく。

男の靴が若菜の視界に入った。綺麗に手入れされた革靴。古いが艶がある。値の張る物だろうか。長年愛用しているのがわかる。

若菜は男の顔を見た。自己紹介の5分では気づかなかったが、そんなに悪くない。

「男の人は大変ですね。立ったり、座ったり」

愛想笑いを含ませた。

「本当ですよ。男女平等が聞いて呆れます」

「これから恋人を見つけようと思っている人達ですから」

男は若菜の方を向いた。

「まるで、観客のような台詞ですね」

図星だった。

もう、いいやと投げやりになる。

「実は結婚しろと急かされてて。でも、やっぱり本人が乗り気じゃないと駄目ですね」

自嘲気味に笑った。

「ご両親の気持ちにこたえるために結婚相手を探しているなんて、偉いですよ」

若菜は、笑って返事を濁した。

偉くなんかない。

目の前で繰り広げられている男女の争奪戦。誰もが椅子から離れ、意中の人と話すのに忙しない。気づけば、座っているのは私と隣の男だけだった。自分は、あんなに必死になれない。〝観客〟と言われた言葉が腑に落ちた。本当にそうだ。

「初めて参加したんですが、途中から…」

若菜は声を小さくして続けた。

「全て上の空でした」

男は笑うことも、共感することもなかった。

「あなたは、どんな方を探しに?」

ふいの質問に言葉を詰まらせた。意図がわからない。頭の中で整理をしながらゆっくりと言葉にしていく。

「結婚するためには、恋人からですよね。だから、恋人になりますよね。普通は…」

この人が求めているのは、わかりきった答えではないんだろう。ひっかけのような問題に頭を捻らせる。

「恋人か…」男はそう呟くと黙った。腕を組みながら、右手は口元を触っている。

「俺は恋人というより、人生のパートナーを求めに来ました」

妻や夫ではなく、わざわざ別の呼び名で言う意味。一生を共に生きる人が必ずしも最愛の人でなくていい。そう言われているような気がした。

若菜の中の迷いは、霧が晴れていくように消えていった。求めていたのは、恋人でも結婚相手でもない。私は、人生を共に生きるパートナーが欲しいのだ。気づけなかった理想の相手を具現化した隣の男。若菜は財布から名刺を出した。

「これ、よかったら」

男は受け取ると名刺を一瞥した。

男は、姿勢を正しジャケットの胸ポケットに手を入れた。名刺入れを取り、一枚抜き取る。その姿が様になっていて、社会人としての品位を感じた。

出された名刺に目を向ける。

「STVって、あのSTVですか?すごいですね」

若菜は言った途端に、口を閉ざした。

「どうしたんですか?」

「何か現金だなぁって思って。会社見て、すごいとかって」

男がふっと笑う。

「それなら僕も一緒かな。あなたの名刺に書いてある社名を見て、すごいなって思いました。男の俺でも知っている大手化粧品会社だ」

謙遜する若菜に男は改めて言った。

「木野秋吉です。よろしく」

差し出された手。若い人が見たら笑われそうだ。若菜は木野の手を握った。

「工藤若菜です」


そこからは早かった。求める物が同じなら話は早い。若菜は仕事を尊重してくれる男を。木野は自立した女を求めていた。互いに貯金は十分にあり、収入も安定している。話していて楽しいし、嫌悪感を抱くこともない。

幾度となくデートを重ね、互いに人生のパートナーにふさわしい相手かどうかを見極めた。知り合って半年後。木野は若菜を呼び出した。都内の夜景が一望できるレストラン。若菜は先に席についていた木野を見つけると、急いで駆け寄った。

「どうしたの?こんなところ」

「たまにはいいだろ」

若菜は困惑しながらも、向かいに座った。

いつもはリードしてくれる木野が珍しく、口数が少ない。

「やっぱり何かあった?変だよ。今日」

木野は小さな深紅の箱をテーブルに置いた。

突然のことに、若菜は言葉を詰まらせた。両手で口を覆い、感動を抑え込む。木野は箱を開けた。指輪が2つ並んでいる。

木野は小さい方の指輪を取った。若菜は木野の指先が震えていることに気づいた。早く来いと木野の空いた手が催促する。若菜は木野の掌に自分の手を重ねた。ぎゅっと握られ、左手の薬指に指輪がはめられる。シルバーリングに控えめなダイヤがついていた。シンプルだけど上品で、まるで木野のようだと思った。指輪をつけただけで、一気に手が華やかになる。

「どうして?ぴったりだよ」

輝く左手を眺めながら、若菜が聞いた。

「女性の平均サイズ。若菜は細いから、入らないなんて最悪な事態にはならないだろうと思って」

「ありがとう。嬉しい」

木野は自分の指輪を箱からだし、はめようとした。

「やらせて」

「いいよ。なんか恥ずい」

「ううん。やりたいの」

木野は若菜に押され、指輪を渡した。見た目よりも太めの指に指輪が入っていく。

「よろしくな」

「うん」

大丈夫。私はこの人とやっていける。

この人は私を大切にしてくれる。

私もこの人を大切にする。

これから共に生きる人生のパートナーを。


風呂を終えた若菜はタオルで髪を拭きながら、リビングへ戻った。木野はスポーツ番組を肴に、ビールを味わっている。

「好きだね。スポーツ」

若菜は木野の隣に座った。

「一緒に見る?」

「興味ないの知ってるでしょ」

「知ってる」と言い、木野は苦笑した。

「じゃぁ、寝ようかな」

「あぁ、おやすみ」

寝室は別だった。一人の方がよく眠れる。木野の提案だった。木野は二階へ上がる若菜の足音を聞きながら携帯を開いた。

―おやすみ 亞矢―

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