第4話

 一日経ち、今は夜。夕ご飯の準備をしながら、三浦さんからの電話を待っていた。

 煮魚に味がしみたのを見計らって盛り付け。丁度その時ご飯が炊けた。五分くらいは蒸らしておこう。あとは切り干し大根が出来上がれば完成だ。


「ミャー」


 足元に擦り寄ってきたキジトラ猫、ミィちゃん。どうやらオヤツが欲しいらしい。「さっきカリカリあげたでしょ」と言いつつ、猫用の煮干しを一つ、ミィちゃんにあげた。

 ミィちゃんは煮干しをくわえてソファに飛び乗る。そこで食べたらソファが汚れるんだけど……まぁいいか。


 その時、和樹さんのスマホが、軽快な着信音を立てた。和樹さんはサッとスマホを持ち上げて、耳にあてると話し始める。


「はい、黒岩です。

 あ、はい。お世話になっております」


 和樹さんは私を見て、口の動きだけで、三浦さんからの着信だと教えてくれた。


「はい、ええ……え? はあ……

 それはどういう……」


 どうも簡単な話では無いらしい。

 赤坂さんには、娘さんがいるのだ。その確認の電話のはずだ。三浦さんからの電話は簡単に済むはずなのだ。

 私は、完成した切り干し大根の盛りつけをしながら耳を澄ませる。三浦さんの声は流石に聞こえないが、和樹さんの反応から何となく話の内容はわかる。

 でも……


「はい、もう少し考えます。その話を聞いて、買いますと即決はできないですから……すみません。

 では、失礼します」


 ようやく電話が終わった。

 私は夜ご飯をダイニングテーブルに運びながら、和樹さんに尋ねる。


「普通にいたでしょ? 娘さん」


 期待を込めて尋ねる。そうであってくれないと、私が見たものの説明がつかない。

 でも、和樹さんの話は、予想外の内容だった。


「いないよ。娘さんも、息子さんも」


「そう……」


 和樹さんの電話の受け答えを聞いて、何となくそんな気はしていた。多分、私が見たのは、アイちゃんの幽霊だ。そして、亡くなった後も赤坂さん達から離れられなくて、あそこにいたんだろう。


「ただ、あそこは事故物件でもなんでもないし、死人も出てないらしいんだ」


「……え?」


 それは、どういうこと?


「赤坂さん、元々子供はいなかったらしいんだが、三年前くらいから、奥さんの様子が段々おかしくなっていったらしい。ある日突然、娘がいるかのように振る舞い始めたんだと」


「……え、ちょっと」


 冗談はよしてよ。そう言おうとしたけど、和樹さんは首を振る。


「赤坂さんが家を売る理由は教えてもらえなかったが、多分奥さんの療養か何かだろう。

 こういうことだから、あのマンションはやめとこう。いいな」


 和樹さんはそう言って話を終えた。

 そういうことなら、マンション自体が原因ではなかったにしても、あの部屋を買う気にはとてもなれない。だから和樹さんの判断には文句ないんだけど……

 でも、それなら、アイちゃんって一体誰なの?


「マーーーォ……」


 ミィちゃんが太い声を上げる。その声につられて、私は視線を廊下に向けた。

 廊下に向かって鳴くミィちゃん。その奥に、ちらりと見えた赤い何かが、寝室に入って行くのが見えた。


 赤い……ワンピース……?


「食べよう」


 和樹さんの声で、私はハッとした。


「今日は鯖の味噌煮かぁ。麗華れいかの味噌煮、美味いから好きだよ」


 和樹さんはそう言って、鯖を解し始めた。私も箸を手に取り、鯖に先端を沈めるものの、食欲は失せてしまっていた。

 私の意識は、廊下のに、すっかり持っていかれていたのだ。


 さっき見えたのは、アイちゃんに間違いない。


 ――――――


 夕飯が終わり、和樹さんはお風呂に向かった。

 私は皿洗いをしようと立ち上がる。

 二人分のお皿を重ねてシンクへと運んでいく。でも、さっきの赤いワンピースを思い出すと、気になって仕方なくて、作業に手をつけることさえできなかった。


 確認だけしておこう。きっと私の見間違いだろうから。


 リビングを出て、廊下を歩く。

 そういえば、ミィちゃんの姿がない。いつもなら、リビングでうたた寝しながら、私と一緒にテレビを眺めている時間だ。なのに今日は、リビングにも廊下にも、ミィちゃんがいない。

 2LKの狭い家だ。すぐに見つかるだろうとふんで、私は辺りを見回した。


「アーーーォ」


 ミィちゃんの声が、寝室から聞こえる。

 いつもの愛らしい甘え声ではない。ゾッとするような威嚇の声だ。ミィちゃんのこんな声、今まで聞いたことがない。

 私は、寝室の中を覗き込んだ。


 ミィちゃんが、全身の毛を逆立てて威嚇している。尻尾を巻いて背中を丸めているから、酷く怯えていることはわかった。


 誰がいるかは、もう検討がついていたのだけど、それでも寝室を見るのは怖かった。


 おそるおそる、視線を奥に向ける。


「あ、お姉ちゃんだ」


 アイちゃんが、寝室の奥にいた。


 赤坂さんのお宅から持って帰ってしまった、あの人形。あんまり不気味だったから、トートバッグに入れたまま、押し入れの奥に押し込んでいたはずだ。

 アイちゃんはそれを抱きしめて、薄く笑みを浮かべている。

 でも、アイちゃんの顔は作り物のように白くて、とても血が通っているようには見えなかった。


「アイちゃん、どうしてここに?」


 震える声で、私は尋ねる。

 アイちゃんは笑みを崩さず、こう言った。


「お姉ちゃんが優しそうだったから、ついてきたの」


 ついてきた、だって?

 いつ? どうやって?

 いや、そんなことはどうだっていい。


「ダメだよ。お母さんが心配するよ。帰らないと」


 アイちゃんへ恐怖心を抱いていた私は、とにかく家から出て行ってほしくて、そう言ってみた。しかし、アイちゃんは全然聞いてない。楽しそうな顔で、寝室をきょろきょろと見回している。


「私、こういうおうちも好き」


「え?」


「でも、猫はきらーい。だって、なついてくれないんだもん」


 私の足元で、ミィちゃんが威嚇する。

 何かわからないけど、ヤバい。そう思った私は、ミィちゃんを慌てて抱き上げた。


 すると突然、ミィちゃんが激しく暴れ始めた。目を見開いて、ギャーッと声をあげて、口から泡を吹いている。

 どういうこと? 何で急に?


「ミィちゃん! 大丈夫? ミィちゃん!」


 どうしよう。ミィちゃんがおかしい。ガクガク痙攣してる。まるで、の発作を起こしたかのように。


「あなたが何かやったの? 何をしたの!」


 アイちゃんを問い詰める。ミィちゃんが苦しんでいる原因は、アイちゃん以外に考えられない。私は恐怖も忘れて、アイちゃんの肩を掴んで揺さぶった。


「いたっ! やめてよ!」


「やめなさい、今すぐに!」


 怒りのまま、アイちゃんの両肩に両手を掴んで揺さぶる。アイちゃんは「やめて」と言う割に、その顔には笑顔を浮かべていた。

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