十三、達郎でオギャる(2)

 ここファンタジアは、彼らが通った町では珍しく、不器用な住民が見当たらないところだった。しかし、やはり謎なのは、なぜ日本のビッグ・アーチストの歌がここで流れているのか、ということだ。

 二人はビルの全階を占める町一番の大きさのCDショップを訪ねた。日本の店と同じくジャンルは細分化されており、達郎のCDは、なんと「ワールド・ミュージック」の棚に並んでいた。

 ジャケ写真で初めて彼の顔をはっきり見た一樹は、抱いていたイメージとかなりちがうので、多少面食らった。もっと海の男くさいような、いかつい顔を想像していたが、そこにいたのは、とにかく全てにおいてなごんだような、仏のような笑みをにっこりとたたえるチャーミングなオジサンだった。だが往来で桃香に惚れ直してから、彼女をさらに魅力的にしてくれた恩人のような気持ちが生まれていたので、そのイメージの違いもむしろ気に入った。

 そこの売り場の、多忙そうでもなさそうな店員に聞いてみたところ、最初は商業スマイルで対応してきたが、二人が「向こうの世界」から来たと知るや、いきなり大喜びして手まで握ってきたので、また面食らった。

「そうですか、達郎さんの住む世界から! いや、たまにこちらへ迷ってこられる方がいるんですがね、彼のCDも、その方が置いていってくれたんですよ! あまりにも素晴らしいので、無許可で心苦しいのですが、コピーいたしまして、最初は店内でかけさせていただいていたんですがね。あれよあれよと大人気になってしまい、ラジオでかかり、気がついたら、町中でかかるようになっていたんですよ!

 ……いえ、あれは売り物ではなく、無償のレンタル用CDです。ええ、タダで貸し出してるんです。さすがに、ご本人の許可なしで勝手に売るなんて、できませんから。本当は貸すのも、電波で流すのもまずいとは思いますが、こればかりはご要望が多くて。本当なら、ちゃんとご本人と連絡を取って契約して、CD販売のみならず、ライブにも来ていただくのが最高なんですが、今はそちらの世界とこちらとでは、好きなように行き来できる状態ではありませんので。やむなく、こんな体たらくになっているわけです。本当に申し訳ないし、残念に思います」

 最後に彼は、そちらの世界に戻っても、どうかこのことは達郎さんには内緒にしておいて欲しい、とお願いして仕事に戻った。

 二人は何か重くなった。店員の話の切なさもあったが、さっきまでの楽しいひと時ですっかり忘れていた、「元の世界に帰る」という目的を、思い出してしまったからである。


「CDを置いてったのって、親父だったのかな」

 ビルから出ると、一樹は足を止めて言った。

「いや、達郎ファンだった記憶はないし、だいいちあいつはこの世界に介入しない主義だから、違うな。

 ……どうした、桃香?」

「……なんでもない」

 桃香は足元を見ながら、ぽつりと答えた。

 ふと、溜め息が出た。


 帰りたくないのではない。むろん帰りたい。だが戻ったあとでも、変わらずこんなふうに一樹と付きあえるだろうか。なにをバカな、できるに決まってるじゃん、と桃香は顔を振ったが、不安は隠せなかった。

 あっちは、ここよりはるかに厳しくて残酷だ。こんなに温かい一樹を、あんなに冷えきった鉄のロボットみたいにしてしまった世界だ。戻ったら、またいろいろな試練を与えて、私たちを引き裂こうとするんじゃなかろうか……。

 そんな心配をするのがバカげているのは分かる。だいいち、自分らしくない。彼の被害妄想が移ったのかな。

 彼をちら見して、またぽつりと言った。

「ねえ一樹。この旅、やめない?」

「ええっ、なに言ってるんだ?」

 これには彼も目を丸くした。落ち着いてきていた心が、とたんに不安になって足もとを探り始めた。そんな反応だったが、桃香はかまわず続けた。

「別に、あっちに戻らなくてもいいでしょ。というか、ここにいたほうが、一樹は才能を発揮できるじゃん」

「そりゃ、向こうじゃ全然ダメだろうけどさ……」

 言いつつ足もとを見つめ、心が崩れそうなほどに暗くなっているのが分かる。桃香は胸が突き刺されるようだった。が、やらねばならない。この子のお母さんになると決めたのは自分じゃないか。心を鬼にして、この子に一番いい道を歩ませないと……。

 さあ来て、一樹。

「桃香は、あっちに戻りたくないのか?」

 このまま落ち込んでハグになると思いきや、いきなりこっちの心配をされて驚いた。

(カズ……)

(もしかして、成長してる……?)

「も、戻りたくないわけじゃないけど」と目をそらす。

「そうか、ほんとは戻りたいけど、俺に合わせてるわけだ……」

 これを怒って言っていれば、言いあいになって、女がブチ切れてどっか行く……みたいな修羅場になりそうだが、一樹の精神は怒るほど頑強ではなかった。この皮肉めいた言葉は、いつものように暗く落ちこんだ口調でつぶやかれた。彼はポケットに手を突っ込んで歩き出した。

「ちょ、ちょっと、どこ行くの」

 あわてて手を出す桃香に、彼は振り向いて言った。

「どこって……ここはうるさいから、次へ行くんだよ」

 その目には、またも涙がたまっていたので、桃香は手を出したまま止まった。一樹はビルの電光掲示板に映る達郎のカラフルな絵を見上げると、すぐにぐるんと振り子のように下を見た。

「やっぱりダメだ。あんたは明るすぎて、俺を真っ暗にしちまう……」

 鼻声で言い捨て、走り出す華奢な背を、桃香はあわてて追いかけた。


 やっぱり俺は暗黒だ。

 聴いてきた音楽だけじゃなく、母親をはじめ、俺の前に現れた人間も、みんな光や輝きとは真逆の、その身におぞましいエゴと人間への恨みと軽蔑を渦巻かせた、どす黒い闇のかたまりだった。俺が送ったのは青春ではなく、ただの地獄。「闇こそが俺の光」と歌うお調子者のゴスがいたが、そういうエンタメだの芸術だのではなく、ただ単純に、俺は闇でしかないだけだ。ただの悪い意味でまっ暗。それだけだ。

(だが、関わってきた人間がみんな最悪なら……桃香は?)

 そうか、きっと何かのまちがいなんだ、と思った。あんな天使のような美しい子、母の愛に満ちた女神様が、こんなクソみたいなゴミの俺と関係なんてあるわけがない。すべては何かのまちがい。俺の一時のかんちがい。





 だがこんな彼も、高校時代に一度、女に憧れたことがある。街の小さなつぶれかけた古本屋の店員で、短髪の少年ぽいさわやかな二十歳くらいの女だった。本についての質問ついでに必死に話しかけ、彼の暗くまがまがしい雰囲気を嫌がりもせず、誠意を持って答えてくれた。それ以後は、店はおろか、その近所にも近づけなかった。自分みたいなものがそこまでするほどに理性をなくしたという、その図々しさに落ちこみ、すぐにあきらめたのである。こんな自分が恋をするなど、ちゃんちゃらおかしい、ありえない。全てはかんちがいだ。

 その後、すぐに店はなくなり、その女のことも忘れた。桃香に出会い、恋人のような関係になっても、そのことは思い出さなかった。今さっき彼女と別れ、「かんちがい」という単語が浮かび、それに続いて、つい、その記憶が頭によぎっただけだ。





 ホテルからベヘモスのペペを連れて出たが、乗る気にはならず、綱をひいて歩いた。背後、数十メートルほどの距離を置いて、カポカポとひづめの足音が聞こえていたが、ふりかえらなかった。町から出て、高原を蛇行してつづく道を歩くと、ほんの数分で懐かしい嫌な旋律が頭によみがえった。かつて、みじめさに酔って聴いていた数々の鬱な歌、後ろ向きの夢も希望もない歌詞、きつく胸糞悪い内容、不快な叫び声と、どれも彼を座りこんで泣かすのに充分な、悲しすぎる記憶たちだった。

 ベヘモスは鳴かないので、ただ主人の妙な様子に、戸惑いの意味か、その長いラクダの顔を何度か彼の方へ向けた。ここへ来て多くの人たちに貢献し、嵐のようにほめられ続け、さんざんいい気になっても、結局自分はなにも変わっていない。

 ふと、自分への失望は幼少からの得意技だったと気づき、口もとが勝手に吊りあがった。だが皮肉な笑みはすぐに終わり、どす黒い負の感情が彼の中に、嵐でも来たようにどっと押し寄せた。

 一樹はその場に体育座りになり、組んだ両腕の中に顔をうずめ、雨のようにめそめそ泣いた。気づけば、隣に誰かいて、同じように座っているが、それが誰かは考えなくてもわかった。なお情けなくなった。いちばん、これを見られたくない人だった。

 涙は、なかなかとまらなかった。やっと静まり、シャツの前をたくしあげて顔をぬぐっても、気持ちはまるですっきりしていない。以前なら、これだけ泣けば多少は気がすんで楽になったものだが、きっと隣の桃香に気を使っているせいだ。

(畜生、よけいなことしやがって)

 心で八つ当たりした。こういうときに放っておかずにいられないのが、女のいちばん悪いところだ。こっちが「大丈夫」といくら言おうが、てんで信用せず、どこまでもくっついてまわり、それはただ自分が心配に思うからで、それは結局、自分のためでしか――。

(心配……?)


 急に、あることを思い出した。高校時代、母親の男に進路についてあーだこーだ嫌味を言われるのがいやで、書きおきを残して家出したことがある。もちろん行くあてもなく、都心をただあちこちうろついて、その日の夜中に帰ってきただけだが、母親はつかれきった彼の顔を見るや、嫌そうに引っこんだ。

 こんなもんだと思ったが、次の日から一週間ほど、学校でもどこへでも、彼が行くところには必ずついてくるので、閉口した。どうせ思惑どおりいい大学に進んでもらわなきゃ困るから、また逃げないように見張ってるんだろう、とさめた気持ちで思い、あとで家出の日に彼女が彼を一日中あちこち探し回り、行きそうなところをすべて調べて電話していた、ということを知っても、なんとも思わなかった。

 今の今まで、あの行動は、どうせ俺をとことん利用するための鬼畜の所業だろうと決めつけていた。だが、すぐ隣に座っている桃香を感じたとき、ふと、まるでちがう考えが起きた。

 あいつは、もしかしたら俺を心配していたんじゃなかろうか。さいごまで泣き顔も見せなかったし、俺を気づかうようなそぶりはまったくなく、ただ暴力や罵倒の印象ばかりがのこっているので、それしかないと思いこんでいたが、本当は俺に対して、愛情のカケラくらいは持っていたのかもしれない。それで奴の顔を思い出すと、鉄のように無表情だと思っていたのが、たちまちやわらかい苦悩の顔になって浮かんできた。

 高校の校舎の中にまで入ってきてうろうろする恥も何もないあの姿は、確かに迷惑でいやだったが、まてよ、本当にいやだったのか、俺。もしも、あいつが本当に俺のイメージどおりの冷酷な鬼畜で、俺が家出しようが気にもせずほったらかしで何もしなかったら、今ごろ俺は、桃香とこんなに上手くやれていただろうか?

(あんときの奴が、いまの俺の中に残っているのか……?)

 それは、すさまじい屈辱だった。鬼の母親に手ひどい仕打ちをうけた、という経験が自分のかんちがいで、じつはたいしたことがなかった――なんてことになったら、それじゃあ、今まで俺が長いこといじけて苦しんできたすべては、いったいなんなのだ。バカそのものじゃねえか。

(いいや、暴力はうけていた! それはたしかだ!)(だから、苦しんだ俺は、まちがっちゃいない!)

 彼は自分にそう言い聞かせると、肩で息をし、頭を整理しようとした。


 ぜんぶじゃない、ほんのすこし修正が入るだけだ。俺の母親だって、べつに鬼でも化け物でもない、戸籍のある人間だった。俺を心のどこかで可愛いと思うことぐらいはあったろう。それすらなかったなら、今ごろ俺は犯罪者として刑務所を往復していたかもしれない。そうならなくても、精神を病んで医者の世話になったりはしたろう。以前の俺は、気分が常に暗く落ちこんでいたくらいで、通院までは行かずにすんでいた。だが、それを母親の愛情のおかげだとは思いたくなかった。

 しかし、すこし深呼吸して、腕のすきまから隣の桃香の方をチラ見すると、今度は驚くほど素直にそう思えた。

(そうだ、あいつのおかげだ)(あいつからも、ほんのちょっとは愛されたから、俺は――)(俺は、ほかの悲惨な奴らみたいに破滅しなかった。こんなに、自分を思ってくれる人とめぐり会えた……)

 桃香も同じように体育座わりをし、組んだ腕に頬をうずめて、遠くを見ていた。彼と同じ景色を見ようとするかのように、その瞳がりりしく光っていた。


「あーあ、なんか、腹へったな……」

 一樹がぽつりと言うと、桃香はそっちを見て、にっこり笑った。

「ごめん、桃香」

 目をふせて言い、また見ると、彼女は笑ったままだった。見ただけで、限りない安堵の広がる笑みだった。彼は、ありがとう、ありがとう、と心でくりかえした。きみのおかげで俺、こうしていられるんだ。

 唇がふるえたが、言葉は出なかった。すると桃香は、知っているようにうなずいた。南からあたたかい風が吹き、二人の髪をなでた。


 桃香は立ちあがり、ルルの首筋をなで、ふと言った。

「そうだ。ねえカズ、まえから思ってたんだけど」

「ん? なに?」

「ベヘモスってさぁ」

 またルルのベージュ色の肌をてのひらでさわりながら、意味深な笑いをむけた。

「羽根があるから、飛べるんじゃないの?」


 そういえば、このストレートシティからもらったラクダそっくりの乗りものには、両脇からコウモリのような一対の黒い羽根が生えている。いつも、やや畳まれていて目立たないので、今の今まで二人とも単なる飾りのように思い、その役割を真剣に考えたことは一度もなかった。

 しかし、またこの突拍子もない提案に、一樹はどぎまぎした。確かに翼があるんだから、それで飛ぼうとすれば飛べるかもしれないが――。

(だからって、今するのか?!)

 桃香は、人前ではいつも彼の隣で一歩ひいて立ち、なんでもまかせているように見えるが、忘れたころに、いきなりまるで予想外の、爆弾を落とすようなことをする。だが、この場合の爆弾は、一樹にはそういやな爆弾ではなかった。

 二人は、ためしに自分のベヘモスにまたがり、いつものようにわき腹をかるく蹴ってみた。馬と同じ要領で進みだすペペのゴツい後ろ頭に、一樹は「よし、飛んでみろ!」と言ってみたが、日本語が分からないので無理だった。

 だが、そのときだった。

 ふいに桃香が「あ、そうだ!」と言って顔が輝いた。一樹は悪い予感がして「あ、バカ、やめろ!」と叫んだが、おそかった。近くにあった低い崖に走り、ぱっと飛び出す桃香。当然、落ちた。低いといっても、底まで数メートルはある。サーカスの馬じゃあるまいし、無事に着地できるとは思えない。きっと大けがだ。

 大慌てでそっちへ走った彼の前に、いきなり下から暴風のように黒いものがさっと飛び出した。コウモリの羽根を左右に大きくひろげたルルが、桃香を乗せたまま、青空へさっそうと飛びあがったのである。ルルは崖の上を鳥のように何度もせん回し、桃香が下で肝を冷やす彼に呼びかけた。

「早く来なよー! いがいと操縦、簡単だよー!」

 一樹はほっとして、やれやれと思い、すぐに自分も崖からジャンプした。ペペもいったんは落ちそうになったが、地面から一メートルほどで、沼底の鯉がいきなり上を向いて水面に向かうかのごとく、ぱっと身をひるがえして翼を大きく広げ、空高く浮きあがった。見た目はラクダなので、それが飛んでいる光景は、傍から見たらかなり異様なものだったろう。


 最初は首にしがみついてあわてていた一樹も、すぐに、そのうなじに生える毛をつかんで押したり引いたりすれば、相手がわりと意思どおりに動いてくれると知った。二人はそのままぐんぐん上昇し、高原の向こうに続く山並みを、はるか下に見おろす位置まで飛んだ。

 さすがの一樹も、これには興奮して叫んだ。

「うわあ、すごいな、これ! 山も、谷も、あんなに小さいぞ!」

「ほら、あそこにファンタジアがあるよ!」

 桃香の指す方角に、あのキラキラしたガラスの町が、横たわる焦げ茶の荒野のまんなかに、ぽつんと一個の宝石のように光っていた。

 それに見とれていたときだった。とつじょ、どこからか風のような歌が近づいてきたのだ。

「こ、これは――」

 桃香は気づくや、目を見開いた。

「た、達郎の――BLOW!」

 えんえん続くベースラインに乗って、あの力強い声が、大気をふるわすように響いてくる。それは空をかきわけてやってくる一台の車のようだった。

 しかし、曲を流す何かが近づいていたのではなかった。ファンタジアの入り口のビルの壁にすえてある一台のスピーカーから、彼らのいる虚空へ向かって流れていたのだ。

 だが一樹にも桃香にも、その雄大なメロディとサウンドが、この大空すべてに流れ、隅々まで広がっていくように聞こえた。またあるいは、その歌がいま、二人の隣で、ともにこの空を駆けているように思えた。

 一樹は初めて聴く曲だったが、それはミドルテンポの続くまっすぐな曲調で、歌詞も、乗り物で風の中を自由に進む喜びを歌ったものだった。それはまさに、今の二人のことを歌っていた。


 二人がふと背後の色に気づき、ベヘモスごと振りむくと、そこには、たなびく無数の雲が、向かいから来る夕日に、幻のようにぼうっとオレンジに染まっていた。流れるBLOWの心地よいサウンドとあいまって、雲から放たれる崇高な輝きが、周りの空へ飛び散っているように見えた。

 その光景のあまりの美しさに、二人はしばし言葉をうしなった。しかし一樹は、そのうち胸が激しく締めつけられるような感覚がして、気づけば顔が熱くなり、目から大つぶの涙があふれていた。

 だが、それはいやな胸の痛みではなかった。彼はサウンドに飲まれながら、すうっと自分の気持ちが楽になっていくのを感じた。解放されるとは、まさにこういうものなのか。そう思った。

 なぜなら、音が心地いいというだけでなく、その歌は、まさに今ここにいる彼を、その苦しみから解き放つことを歌っていたからだ。

 隣を見れば、なんと桃香も泣いていた。もちろん、抜けるような幸福な笑みを浮かべて。


 一樹は、生まれてはじめて音楽に感動したと思った。ずっと長いあいだ、自分の敵だと信じてきた「よろこび」「しあわせ」などのあらゆる明るくポジティブ感情が、彼のささくれた空洞の心へ怒とうのようになだれ込み、わくわくするような熱で満たした。それは希望だった。全身に力がみなぎり、勇気というものさえ感じた。高揚し、もういても立ってもいられなくなった。

「桃香! 愛してる!」

 一樹が突然さけんだので、さすがに桃香もまっかになったが、すぐに彼女もさけんだ。

「私もカズのこと、愛してる!」

 こちらを向いた一樹の顔は、今までに見たこともない、春風のような満面の笑みだった。それは彼女に、いともたやすく移った。

(ああ、これだよ……!)

 桃香はうれしさに小おどりしそうになり、しあわせで気も狂わんばかりになった。

(これが見たかったんだよ!)

 同時に、彼へのあふれんばかりの愛が、胸にこみあげてくるのを感じた。

 理性がぶち飛んだ二人は、雲に向かってめいっぱい叫びまくった。

「愛してるぞー! 愛してるんだああー!」

「愛してるううー! 愛してるよおおー!」

 そして、空中でたがいをひき寄せ、ラクダの上から身を乗り出して抱きあった。そして深いキスをした。夕日に染まる二人の顔は、見つめあうお互いがぞくぞくするほどきれいだった。

 ラクダたちも互いの身をくっつけて羽ばたくハメになったが、主人たちのよろこびを感じてか、笑うような視線を交わすと、うれしそうに鼻を鳴らしあった。



 二人は大地に下り、赤い夕日が消えて夜のとばりが降りるまで、寄りそって雲を見つめていた。歌はバラードになっていた。

 その美しい声が夜の闇に溶けていくのを感じて、ふと桃香が言った。

「カズ、完全に達郎のファンになったでしょ」

「うーん、ファンどころじゃないな。命の恩人かも」

 彼は苦笑すると、最愛の人の肩に手を回して抱き寄せ、首をそっちへかたむけた。桃香も彼の方へかたむけ、たがいに寄りかかって空を見あげた。いつのまにか、星がまたたいている。

「暗闇の中におぼれてた俺を救ってくれたんだから」

 夜空を見つめて続ける一樹。

「もちろん彼だけじゃない、空へつれていってくれた桃香にも。いいやもう、この世のすべてに感謝したい気持ちだよ。あとね……」

 一樹はそこで離れると、立てた両膝の上にひじを置いて座り、すっきりした顔で目の前の土手を見つめ、ぽつりと言った。

「その……母親にも、ちょっとは……」

 それを聞いて、桃香はあたたかく微笑し、うっとりした甘い視線を送った。一樹はそれを見て、世界中のすべてのものから自分が守られているような、深い安堵につつまれた。母を感じた。そのやさしい目は、まさに彼をあやしていた。一樹という赤子を抱く母だった。そのとろけるような聖母の顔を見て、これは俺を妊娠している、と思った。一気に恥ずかしくなった。


「あらカズちゃん、耳までまっかじゃない」

「か、カズちゃんて……あ、そういえば」

 照れかくしに、あわてたように言いだす。

「俺のこと、いつからカズって呼んでたっけ?」

「なあに今さら」と笑う。

「だって、前は一樹って呼んでたはずだろ。それが急に……」

「だってカズの方が、かわいいもん」と頬に指を当てて考える。「そうねえ、これが小説だったら、前のページをさかのぼって調べれば、いつからそうなったかわかるけど……これは無理だよね」

「なんだよ、それ」

「カズって呼ばれ方、きらい?」

「いや、きらいじゃないし、むしろうれしいけど……」

 困る一樹を見て、赤ちゃんをいじって遊ぶ母の顔になる桃香。

「じつは覚えてるんだ、私。条件次第では、おしえてあげる」

「じょ、条件って、なんだよ……あっ」

 一樹が気づくと、桃香はにっこり笑って両腕を大きく広げた。

「来て! カズちゃん!」


 一瞬、とまどった。落ちこんでもいないのに、赤子と化す必要があるんだろうか。今までは、俺をなぐさめるために桃香が仕方なくやっていたことのはずだが……。

 だが、すぐにわかった。ああ、そうだ。俺に調子をあわせてたんじゃない。桃香は、本当に俺の母親になりたいんだ。そして、俺のほうも……。

 彼はいったん息をすい、桃香の胸に飛びこんだ。そこには、今までのプレイであったような、暗い悲しみも、みじめさもなにもなかった。ただただ、うれしかった。しあわせだった。彼は笑いながら桃香の膝に頬をすりすりし、甘え声をだした。

「おかあさん、だーいすきー!」

「うふふふ、カズちゃんたら、しょうがないでちゅねえ」

 にこにこしながら頭をなでる桃香の顔は上気し、全身が汗ばんだ。指にからむ彼の髪や首筋の感触に、息あらく興奮した。

「な、なんてかわいいのカズちゃん、はあはあ」

「お、おかあさーん、もっとつよく、だいてえ」

 桃香のほそい腕に抱かれ、童心にかえって甘えまくる一樹。桃香の見た目は十歳の少女にしか見えないので、体の大きい男がその胸にすがり、うつぶせにのびている図は、傍から見たらかなり誤解を招きそうだったが、さいわい今までに誰かに行為中の姿を見られたことはない(おそらく)。

 桃香は明らかに性欲を感じていたが、彼の方は、性的な興奮はほとんどなく、ただ幸福感にばかりひたっていたので、彼女の胸板に頬をすりすりしたり、太腿のあいだに顔をうずめても、それ以上の行為にはおよばなかった。しかし女のほうに性欲があるといっても、そんなに激しいわけではなかったので、ただじゃれるだけで終わっても、彼女には特に不満はなかった。そういう意味では、二人はベストカップルといってよかった。



  xxxxxx



 ただ、むろん桃香のほうは、一樹も二十歳の男だから、よその女に興味を持ったり、魅力を感じないのだろうか、という疑いは、いちおう持っていた。今までにどんな町へ行っても何事もなかったのは、たんに一樹が精神的に大変でそれどころではなかったからで、それがある程度は立ちなおってしまったいま、何かが起こるのではなかろうか。そう考えるだけで、とてつもない不安が押しよせた。

 桃香は、「女の魅力」という話になると、一気に頭をかかえた。自分が肉体的な魅力で、ほかの女に勝てるわけがない。男が重度のロリコンでもない限り――。


 結局は戻ったファンタジアのホテルの部屋で、すやすや寝入っている彼の顔を見て、桃香は深刻に考えた。

(一樹、あなたはいったいロリコンなの、マザコンなの……?)

 直接聞くしかないのだろうが、それをすると、大事な何かが壊れるような気がしてこわい。


 こんな自分と付きあっているんだからロリコンにちがいない、というのは、そっけいだ。この世界に来てからは、彼のまわりには私しかいなかったのだから、彼には(って私にもだが)付きあう相手を選ぶ権利がなかったのだ。ロリコンでもなんでもないのに、付きあっているうちに好きになってくれた可能性は高い。

 だが、マザコンなのは確実だ。そうなると、懸念はただ一つ。もしも私よりもっと母性があって、安心してバブバブできる女が現れたら、そいつに彼を取られるかもしれない。しかもロリコンじゃないから、豊満な肉体でアピールされたら、イチコロでそっちへ行くんじゃ……。


 気がつくと彼のベッドにもぐりこみ、後ろから抱きついて寝ていた。

(お願いカズ、このまま私といて。ほかの誰のモノにもならないで)(このまま、ずっと私と一緒に……)

 祈るように閉じるその目に、涙のしずくが光っていた。

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