十二、達郎でオギャる(1)

 三日もすると、一樹の気力・体力、ともに回復してきたが、まだ本調子とはいえなかった。そこで桃香は、自分が一足先に行って町の様子を見てくると言い、その日の朝、ベヘモスのペペに乗って出かけていった。

 次の町であるシンフォニアまでは、ここからほんの数キロほどだった。彼女はしっかりしているし、まあ何事もないだろう、と心配はほとんどしていなかったが、数時間後に帰ってきたその顔色を見た一樹は驚いた。「ただいま」も何もなく、不意にドアがイーッとひらき、彼女が目を丸くして、菊人形のように突っ立っていたのだ。

「ど、どうした?」

 一樹が聞くと、桃香は丸い目のまま繰り返した。

「や、や、や……」

「や……?」

 一樹の問いに、桃香はぽつりと言った。

「山下達郎……」

 これには一樹も目を丸くした。

「山下達郎がいたのか?!」


 確かに、日本では名を知らぬ者のない超有名人であっても、彼らと同じように、たまたまこことつながったどこかに入りこんで、この世界へ来てしまうことは、充分ありうる。だが話を聞くと、べつに桃香が彼の姿を見たとか、まして本人に会ったとかいうわけではなかった。二人の行く次の町であるシンフォニアでは、山下達郎の曲が町中でかかりまくっていた、というのである。

「すごいんだよ、往来のスピーカーから、ライド・オン・タイムとか、ネオ東京ラプソディとかが、ガンガンかかってて!」

 桃香が興奮気味に両腕を広げて話すので、くせでうっかり飛びこみそうになり、あわてて自分をおさえた。

「町中がもう、真夏みたいにさわやかになってて! まあ、じっさい空は青くて気持ちよかったけど」

 まくしたてると、うれしそうにニコニコするので、一樹は不思議になって聞いた。

「桃香、山下達郎、好きなのか?」

「お父さんがアルバムぜんぶ持っててね。それでファンになったんだけど。ライブまだ一度も行った事なくて。競争率、激しいんだよね」

「へえー……」

 一樹はどこか暗く無表情に言ったが、桃香は気にしていない様子だった。


 桃香とは同い歳だから、桃香の父親も、おそらく一樹の父と同じくらいの世代だろう。今も現役バリバリだが、八十年代にはとんでもなく大人気だったようだから、父は青春まっただなかの頃にハマっていたのだろうが、一樹は彼が家で聴いていたような記憶はない。さすがに超有名アーチストだから名前だけは知っていたが、山下達郎の顔も知らないし、曲もほとんど聴いたことがない。CMに使われた曲で、それを見たことがあれば、聞いて思い出す、くらいはあるだろうが。


 山下達郎のジャンルはシティポップといわれ、明るく都会的な曲調で、声はパワフルな美声、歌詞も都会の孤独がテーマでありながら、前向きで元気づけるようなものが多い。しかし一樹はシティポップというとユーミンのイメージになってしまい、どうせ歌謡曲の一種みたいなものだろう、とかんちがいして敬遠していた。ユーミンは別に暗くはないが、そのあまりに大衆受けする歌メロが、歌謡的にしか聞こえなかった。

 彼は歌謡曲の暗く、マイナー調でくさいメロディをダサいと嫌っていた。アニソンも、戦闘ものなどで情熱的な暗い曲調は、歌謡っぽくてダメだった。実はシティポップのほとんどが洋楽的で、彼の嫌う日本的くさみがない、という事実を知る機会がなく、先入観だけで遠ざけてしまっていた。

 もちろん、演歌はもっと嫌いだった。明るいのはまだしも、暗い失恋歌のみじめったらしい雰囲気に耐えられなかった。自覚はなかったが、そのダサさは、もろに彼の雰囲気やたたずまいをほうふつとさせた。そういう意味では、歌謡曲と演歌は、まさに彼自身であった。


 かつてユーチューブで、山下達郎のスタンダードであり、透明感と希望にあふれた名曲、ライド・オン・タイムを耳にしたことがあるが、たんに「ふーん、さわやかだな」ぐらいにしか思わなかった。いつも暗く沈んでいたので、明るいとか前向きな歌が流れるとムカついたりしたものだが、達郎の曲には嫌悪も何もまるで感じなかった。空気のように完全に素通りだった。接点が皆無だったのだろう。

 けっきょく一樹は、高校時代までは、反社会的で悪意丸出しの屈折したパンクロックとか、死にたくなるような暗く陰鬱なプログレッシブロックやゴス、殺意をたぎらせるノイズなどを聴いて自分を慰めていた。とくに八十年代のアングラには、そういう悪い意味で刺激的なアーティストが多く、鬱状態になると、ネットでそれらの暗黒音楽を聴いて、おのれの不幸とみじめさに重ねあわせてひとり号泣していた。

 それらは、いっけん歌謡曲と同じように暗くても、あくまで洋楽的あるいは洋楽であり、たたずまいが「クール」で「知的」、そして「進歩的」であったため、それを取り入れることは、自分の美化にもなっていた。死の願望など、いっけん後ろ向きなことをわざと表現することは、彼にとってはつらく苦しい現状を打破しようと「抵抗」し「あがく」行為であり、イコール前向きで未来があると思えた。が、そのようなつらい現実に目を向けない歌謡ものは、ただの逃避にしか思えず、なんの希望も持てなかったのである。この言いわけにより、それらの「いっけん」後ろ向きな過激な世界に、どっぷりつかることになってしまった。

 それは表面的にはマゾヒスティックな快感を与え、自尊心を保たせてくれたが、根本では彼をゆっくりとむしばむことになった。いかに根っこは前向きといっても、放たれてくる言葉じたいは皮肉だったり、厳しく、冷酷非情できついものなので、聞き手を傷つけ落ちこませるに充分である。だから普通の人は、そのようなマイナス志向の作品は嫌がって近寄らないが、まれに彼のように個人的事情で、あたかも修行で滝に打たれるかのごとく、わざと暴力的表現に鞭打たれたがる者がいる。自分を極度に過小評価し、コンプレックスが異常にでかく、「そんな自分をきたえて強くなって、それを乗り越えるため」という理由があるからだ。

 この場合の「強い」とは、他人から暴力や中傷など、なんらかの攻撃を受けた際に、「ダメージを受けずに平気になる、受け流せる」という意味だが、このような試みは、じつは単に暴力への慣れと服従しか生み出さず、気づかぬうちに、そこから抜け出せない悪循環におちいっていることが多い。結果、ダメージへの隷属という病的な状態になり、得られるのは、もとの期待と真逆の「弱さ」でしかない。まるで、音楽という崇高な「芸術」を、自分を強くするという身勝手なエゴのために「悪用」しようとした「報い」でも受けるかのように。


 だが大学に入ると「そんなことではいかん」と気づき、スムーズジャズなど、ある程度はいやし系の音楽も聴くようになった。しかしやはり、そのジャンルでもついつい暗く陰気な曲にハマりがちだった。そこで、たまに明るいアニソンなんかを耳に入れ、それで精神のバランスを取っているつもりになっていた。

 しかし、毎日聴くものは、洗脳のように心身に多大な影響をおよぼす。無数の音楽好きのように、明るく前向きなものが生活の基盤で、暗いパンクやゴスのような病的なほうはたまに聞く、というくらいなら、なんでもなかったろう。だが、彼は知らず知らずのうちに、死にたくなるような暗い歌、皮肉で悪意に満ちたマイナスの音楽を自分の根っこにすえてしまっていた。ついには、よそからどんなに素晴らしくポジティブなサウンドが聞こえてきても、冷たい鉄の壁に当たってはね返るように、彼の耳には入らないようになった。「俺は人生が暗いんだから、聴くものも暗くて当然だ」という認識は、鋼鉄の壁になって彼の周りを取り巻いた。身のまわりに壁になって張り付き、彼の外界との交渉をしゃ断し続けている母親と同じだった。その中に入れる者はいなかった。

 たった一人を除いては。




 だが、そのたった一人がいま、山下達郎という人の音楽のことを、顔を上気させてうれしそうに話している。やはり一樹も男だから、それについていい気持ちはしなかったが、といって才能や経済面、地位など、あらゆる面で勝てるはずもないから、そう思うと、さらにムカつきが止まらなくなるので、ここは音楽性のみに神経を集中させ、そういう不都合な事実はひたすら無視に徹することにした。

 それで、「彼のどういう歌がオススメか」とかの無難な話題を振ろうとした瞬間、桃香が目を輝かせて言った。

「ねえ、今すぐ行こうよ!」

「えっ、どこに?」

「ファンタジア!」

 ええっ?! 今すぐかよ!


 といって「桃香が好きな奴の歌がかかってる町なんか行きたくない」などとガキのようにすねるわけにもいかず、また額に手をあて、「ううっ、急に鬱病が重くなった」などと仮病を使うほどの機転もなかったため、しぶしぶ準備して、ホテルをチェックアウトした。町が近づくと、達郎の透き通るように気持ちよく、それでいて男らしくパワフルな声が早くも響いてきて、げんなりした。だが、その声の素晴らしさは彼も認めざるを得なかった。どうやったら、こういう声が出るのかと思った。

 格別にきれいとか、天使の歌声というわけではない。一聴すると、よくありそうな普通に力強い男ボーカルである。なのに驚いたことに、何も「引っかからない」のだ。


 この「引っかかり」というのは、彼自身の抱えているのと同じようなマイナス要素、ぶっちゃけ言うと「不快さ」である。

 一樹の今まで好んできた歌声には、胸に突き刺さるような痛みや衝撃があった。よく言えばインパクトが大きく感動的だが、悪く言えば癖が強く、ずっと聴いていると疲れる声だった。聴くのにパワーのいる、付きあいづらい声であり、思想(歌詞)に共感するとか、かっこよさに対する憧れとか、何か理由がないと、普通の人なら数秒も耐えられないような濃い世界だった(デスボイスと呼ばれる、デスメタルの騒々しいガナり声などは、その最たるものである)。

 そういう「引っかかり」が、これには何もない。聴いててまったく疲れない。付きあうのに、こちらの心を傷つけそうな何かが、不意に飛んできそうな緊張感、不穏さに対する身構えとか、フンドシを締めてかかる必要が、まるでない。一緒にいて、抵抗や不快のない、気の置けない人間と初めて会ったような、新鮮な驚きがあった。

 そこで、はたと気づいた。

(俺って、ろくなもん聴いてないんだな……)




 ファンタジアの町並みは、かつて写真で見たローマやギリシャなどとそっくりの赤レンガ造りの家とマンションが並び、街路も赤やベージュのレンガという、古びていながら、どこか軽くおしゃれな場所に似ていて、女が旅行で来たがりそうだと思った。永久に縁もゆかりもなさそうなのに、すでにこの響き渡る歌の歌い手を恋敵に確定してしまっている先入観バリバリの一樹にさえ、悪くないと思わせる雰囲気だった。

 きれいだった。街角から眺めると、ちゃんと均整を考えて作られた街だった。ただ働けて住めりゃいいんだと、家とビルを区画に適当にぶっこんで詰めただけの日本から一歩出れば、誰でもそう思うことで、べつに珍しくもない反応だが、ここは特に、吸う空気すらも生きていると感じられる躍動感があった。

 カラフルな街だった。人々は往来で生き生きと話し、その表情はどれも光のような幸福がこぼれんばかりであった。そして、その豊富な生命力には、スピーカーから常時流れている山下達郎の曲が一躍買っていた。彼の心地よい歌声とバンドのサウンドが、街にいっそうの透明感と力を与え、天からの陽光のように照らしていた。ガラスで出来た街のようだった。


「ほらほらカズ、ラブランドだよ!」

 桃香がそう言って、リズミカルでトロピカルなその曲に合わせて、往来で楽しそうに腰をふりだしたので、一樹は一瞬かたまった。が、すぐに弛緩した。東京のまん中なら、恥ずかしいからとやめさせようとしたろうが、そんな気はたちまちのうちに消えうせた。そこは通行の邪魔になるような場所でもなかったし、街ゆく人もまるで気にしないどころか微笑みさえするので、(あ、許されてる……!)と直感したのである。ここは目立つ人を白い目で見たり、バカにするようなところではなかったのだ。

 それに、桃香の踊りは決して恥ずかしいものではなかった。べつに上手いとかではないが、その動きまくる小さな体は、なんの意図もない、自然で素直な楽しさに満ちていた。一樹は見るうち、最初は笑顔になったが、次第に目を見張った。流れる「ラブランド・アイランド」の歌詞もあいまって、彼女が天から舞い降りた女神にすら見えてきた。子供らしいツインのお下げと、襟にフリルのついた紺のワンピースに、でかいプリーツが何本も走るピンクのスカートという、小学生そのものの格好で踊っているのに、その姿に一樹は感動した。感動のあまり目が見ひらき、こぶしを握りしめて、身がわなないたほどだ。

(も、桃香……!)(な、なんて、かわいいんだ……!)

 一樹は頬から背中から全身を上気させ、立ったまま意識は彼女になだれ込んでいた。同時に、彼女が彼の中へ押し寄せて、そのすべてを水のように満たした。ぼうっとした目で彼女を眺めながら、彼は自分が恋に溺れていくのを感じた。頭がもう、破裂しそうなほど桃香でいっぱいだった。いつしか彼の目はうるみ、熱い涙が流れた。

 気づけば近くにいたオッサンや子供たちも彼女の周りで踊っていた。まるで女神を飾る妖精たちのように。


「ふふ、カズったら、泣くほど感動したの?」

 目の前で言われ、一樹はやっと気づいた。とうに歌は終わり、人々は散って、桃香は彼のところへ来たのだった。彼は流れる涙を隠そうともせず、にっこり笑うとしゃがんで、桃香を抱きしめた。

「桃香、好きだ。愛してる。ずっとこうしていたい……」

 耳元で震え声で言われ、桃香も満面の笑みで言った。

「私も、カズのこと好き。ずっと一緒にいようね。愛してるよ、カズ……」

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