六、ホテルでオギャりかける

 ホテルに行きたかったのは、たんに泊まりたいからというだけではなく、別の目的があった。人探しである。スレインから、前にも一樹たちのように別の世界からこの世界に来た人間がいたらしい、という話を聞き、それもこの街に降ろしたということだから、とりあえずその人がホテルに宿泊したことがないかを、聞いてみることにしたのだ。スレインによると、彼を乗せたのはだいぶ前のことだというが、もしかしたら今も泊まっている可能性だってある。


 この世界の通貨はトトルという妙な名前が付いている。たとえばパン一きんは二トトル、宿泊費は普通の旅館ならだいたい五十トトルから六十トトルで、札と硬貨を見せてもらったが、ただの紙へいと、銀や銅の色をしたコインに数字が書いてあるだけで、表面に人の顔などはなかった。ただ、それを除けば、見た目も大きさも日本円とそう変わりなかった。

 ここに着く前にスレインが車内で、相当の額の紙へいを「どうか、この先の足しになさってください。いえいえ、マフィアにいたころのかせぎが余ってますんで、お気づかいなく」などと半ば強引に握らせたので、ホテル代はあった。だが、自腹で泊まるのをホテル側が許さなかった。「稀代の英雄に、お金などを出させては、末代までの恥」と支配人が宿泊も食事もすべてタダにしてくれたので、金の心配はなかったが、後ろめたさは山のようにあった。

 ホテルを調べたが、ここ一年ほどは、よその街からの宿泊客は数えるほどしかおらず、それも全てが支配人の知人だった。一樹が困った顔になると、彼の困るところ町長ありとばかりに、ゲルトベエルが「警察に頼んで、その方を必ず見つけ出します」と、ドンと胸を叩いた。あるいはたずね人が、ここに泊まらずにすぐ出て行った可能性もなきにしもあらずだが、それは調べないと分からないことである。




「お風呂にも入れるわ、お酒まで飲めるわ、ほんと最高ね」

 髪を白いバスタオルでふきながら、湯あがりの体からほかほかと湯気をたてて、桃香がうれしそうに言った。わきのガラスのテーブルには、氷いっぱいのワインクーラーに突っ込まれた赤ワインのビンがかたむき、そばに二つのしゃれたグラスが置いてある。

「まるで観光だな」

 先にシャワーを済ませている一樹が、彼女を見て苦笑した。

「バスローブで安楽椅子にもたれて言っても、説得力ないわよ」

「確かに……」と座ったまま、自分が着ている紺のローブを眺める。「あまりぜいたくしてると、あとで幻滅されたときが怖いよ」

「またあ。幻滅なんて、永遠にしないわよ」

 笑って頭の両側の髪にピンクの髪どめをつけ、ツインテを完成させる。

「君は英雄なんだからさ。ここのみんなが、そう信じてるのよ。人間は一度信じたら、なかなか動かないものよ」

 そして、自分の部屋に行って、桃いろのローブを着て戻り、向かいの安楽椅子でゆったりする。その気楽な顔を見て、一樹はぽつりと言った。

「どうやったら、そんなに人を信じられるんだ。俺なんか……」

 言いかけてやめたので、桃香は微笑してせがんだ。

「なあに? 言ってよ、聞きたいから」

「いいよ」

 言葉を切り、しばらく上を眺めた。白い大理石の天井に、高そうなシャンデリアがオレンジ色にきらめいている。

「どうしたの?」

「いや、なんかさ」と前を向く。「考えたら、この世界へ来てから俺の話ばっかりして、桃香のこと全然聞いてないな、って」

「私は、話すようなことなんか……」

 考えて目をふせ、ふっと笑う。


「私の悲しみは、このお子ちゃまな体型だけよ。まあ、それが決定的ではあるんだけど。これを取ったら、ただの普通のハッピーな女ですよ」

「やっぱり、そんなに嫌か、その格好?」

「嫌いじゃないわよ、自分じゃ」と首を振る。「周りがそういう目で見るってだけ。自分は可愛くて好きよ、これ。お父さんもお母さんも、このことを嫌がったり、悪く言ったりはいっさいしなかったし。いつも『可愛い』って喜んでくれてね。そのことには本当に感謝してる」

「一緒に暮らしてるの?」

「ううん、今は○○大学の寮に入ってるから。入った最初は、二人に交代でいちいち来られて困ったわ。ますますお子ちゃまに見られるからやめて、って追い返したな」

「まあ、心配するよな」

 立ってテーブルの二つのグラスにワインをつぎ、桃香に一つを渡して、自分も立ったままなめた。やりながら、映画のワンシーンみたいだな、と我ながら思った。

「桃香のお母さんって、どんな人?」とグラスを置いて椅子に戻る。

「過保護よ、お父さんもだけど。そうね、もし私が学校でいじめにあったりしたら、ただちにすっ飛んできて、犯人探して、ぶん殴ると思うわ」

「やっぱ、それが普通なんだな……」

 急に暗くなったので、よけいなことを思い出させたと、多少あわてた。

「いや、普通はそこまでしないよ。うちは過剰なの」

「でも、その両親の過剰な愛情のおかげで、桃香はそこまでやさしくなったんだよな」

「私、そんなにやさしくなんか……」

「自覚がないのが、すごいよ」

 さりげなく言われ、桃香は体温が上がってきた。ワインやめときゃよかった。照れ隠しに、話題を変える。

「一樹くんって、○×大学なんでしょ。就職率、最強らしいじゃない」

「まあ中堅以下の学校だからね。そのぐらいしか取り得がないんだ。俺が入れたぐらいだし。高校の成績なんてひどかったぜ。ずっとバカのふりしてたら、ほんとにそうなっちまったわけさ」と苦笑する。

「じゃあ、逆に天才のふりしてれば、ほんとにそうなるかもね」

「ああ、ここで、あんなに誉められてれば、もしかしたら、そのうち……。まあ、どうせすぐけなされて、元どおりだろうけど」

「ここでは、一度もけなされてない?」

「うん。元の世界とは大違いさ。あそこじゃ、けなされたことしかなかったからな」


 空気が重くなり、真顔になる桃香。

「……顔をほめられたことは、十回はあったんでしょ?」

「ほめられたうちに入らない。そうじゃない人には悪いけど」と目を閉じる。「生まれつきのもんを、どうこう言われても意味がない。今さら容姿をほめられても、信じられない。けなされたら信じるだろうけど」

「けなす人なんているの?」

「ああ。『気持ち悪い』特に、『目が普通じゃない』」

 桃香は彼の目を見つめたが、少々大きくて眼力があるくらいで、おかしいとは思わなかった。ただ、瞳にわずかなおびえが走っているようには見えた。

「ほめられても信じないけど、けなされたらそう思うなんて、自分を責めるようになっちゃってるんだ」と桃香。「前に、自分の雰囲気が変だ、って言ったよね。でも、向こうの君のことは知らないけど、ここで見る君のことは、ぜんぜん変に見えない。ということは、ここでほめられまくってることが、少しは作用してるんじゃないかな」

「こんなんじゃダメだよ、全然。足りないよ」

 次第に押し殺すような声になる。

「生まれたときから、やられてきたんだ。あのおん――母親の役に立たない俺なんかに、意味はないんだ。そこまで洗脳されたのが、そう簡単に解けるかよ」

「『あの女』って言っていいわよ。私、気にしないから」

「あんまり激こうすると、桃香にひどいこと言いそうで怖いんだ」

 うつむいて身を震わせたので、思わず後ろから寄って、また前みたいに背を抱こうと腕を差しだしたが――相手が前に身を引いたので、やめた。

 すると、やや安堵したように続けた。

「……ここの人たちは、確かに俺をほめたたえて、認めてくれた。でも、あんなの誰でも出来ることだ。俺じゃなくたって、誰でもよかったんだ。だから意味ないんだよ」

「君が、ここに来たのよ。君以外は、誰もここへ来なかった。ここの人たちを幸せに出来たのは、ここに来た君の力なんだよ」

「気休めがうまいな」

 一瞬横目で見て、また目をそらす。桃香はそれを見て、脈絡なく、何か妖艶な目だと思い、急に彼がいとおしくなった。といって、強引に抱きつくことは出来ず、突っ立っていた。

「俺の母親は父親なしで育った、って前に言ったろ。長女だから、幼い頃から母親に父代わりとしてこき使われて、ひどい目にあったらしくて、それ以来、そういう災いにあって耐えるような人生になっちまった。結婚しても、いつもしゅうとめにいじめられて、じっと耐えていた。その背中を見て、長男の俺は何も出来ない自分に絶望したんだ」

「……お母さんのこと嫌い?」

 即座に大嫌いだと吐き出してほしかったが、そうはいかなかった。

「……あれが母親だったっていう実感がない」

「えっ」


「あれが赤子の俺を抱いてる姿を、まるで想像できない。実際はそうしてたはずなのに、『お前が、そんなことするタマかよ』って思っちまう。

 むしろ、しゅうとめだったおばあちゃんのほうが、まだ母親って感じしたな。母親はいつも怒ってたけど、おばあちゃんは、何しても優しくて怒らなかったし。でも、それは俺が孫だったからでさ。嫁である俺の母親をいじめてたわけだし、基本的には意地悪で、いい人間でもなんでもなかった。だって陰で、俺に俺の母親の悪口を言わせて、喜んでたからね」

 顔をしかめる桃香。その老人に対して、一瞬、殺意を感じた。それに気づかず、続ける一樹。

「俺、あいつに『おばあちゃんがお母さんだったらいいのに』って、いつも言ってたな。そういわなきゃ、ここでは生きていけないって、子供心に知ってたんだろうね。幼児の頃から、大人の顔色をうかがって、おべっか使うような嫌なガキだったわけさ。

 おかげで、小学校じゃ気持ち悪がられて、いじめられて。ほら子供って、偽善者が一番、むしずが走るくらい嫌いじゃない。まあ、いま思えば、あんなこびた笑いをするようないけすかないガキは、やられて当然だったと思う。


 父親が酒で暴れて、母親が俺と弟を連れてうちを出た、って話はしたよね。そのあとが、また大変でさ。なんせ俺はずっと婆ちゃんべったりで、母親とろくに接してなかったから、慣れてなくて。あいつはとにかく怒りっぽくて、何かというとすぐキレるもんだから、俺はいつも怖くて、びくびくしてて。また、あいつはあいつで、子供が自分になつかないのが許せないみたいで、俺がおびえればおびえるほど、怒り狂ってぶっ叩いてくるし。だいたい叩きゃ叩くほど、俺の方はますます縮みあがって何も出来ないのに、それでも叩くんだから、わざとやってんじゃないか、とさえ思ったよ。

 でも、たぶんそうじゃない。それしか出来なかったんだ。あれで精一杯だったんだよ。自分が親にされたことを、子供にただ自動的に繰り返しただけだ。ほんと人間なんて、たいしたもんじゃない。機械と同じだ。ガキのころに情報をインプットすりゃ、あとは死ぬまでそれの繰り返しで終わりなんだよ。

 本当に、あいつに対しては恐怖以外に何もなかったな。母親なんて、ただの鬼……あ、ご、ごめん」


 桃香の目から大粒の涙があふれて、頬を流れ落ちているのに気づき、あわててふくものを探そうとした。が、座ったまま指の一本も動かせなかった。自分の目頭も見る見る熱くなり、どうしようもなくなった。猫背でうつむいたまま、自分もひざに涙を落として、ぼろぼろ泣いていた。

 ふと左から細い腕を回され、左腕に密着する人間の温かい胸と、左肩に埋まるやわらかい頬に気づき、恐怖を感じた。そして胸がずきずきと痛んだ。

(な、なんで、これを恐れることがある。気づかわれてるのに、それも、こんなに自分を思ってくれる相手に、ここまでしてもらってるのに……!)

(桃香のことが、まだ怖いのか、信じられないのか。アホかっ)

(ああ、俺はなんて情けない男なんだ……!)

 あまりのみじめさに、生まれてきたこと自体を後悔し、思わず顔をそらして、身を震わせる。

「なんで、こんな……君を泣かすことしか……! こ、こんな俺なんか……!」

「……いいんだよ、もう」

 左から彼を抱きしめ、肩に顔を押し付けて、鼻声でやさしく、なだめるように言う桃香。

「ずっとずっと、つらかったんだよね。もう我慢しなくていいから。もう一人じゃないよ。私が一緒にいるから。ずっと、一樹のそばにいるから……」

「き、君だって、どうせ俺を捨てて行っちまうんだ、どうせ……」

 まるで告白のようなことを思わず言ってしまい、絶対に嫌われると確信した。が、相手はまるで気にしなかった。

「行かないよ。行くわけない」 

 答えながら、こわばった体をぎゅっと抱きしめると、一樹は冷笑した。

「確かに、ここじゃ一緒にいるしかないもんな。こんな俺でも……」

「そんなの、どうでもいい、関係ない。私、君といたいの」

 驚いて見返す一樹の目に、涙に光る桃香の瞳があった。


「一樹と一緒にいたい。だって君が好きだから。ほかに理由なんてない。ほんとだよ。私、一樹が好き」

「そ、そんな……俺のことが好きなんて……」

 カルチャーショックにでもあったようにうなだれ、再びむせび泣く男を見て、胸がずきんと痛む桃香。ますます強く抱きしめ、一生このままでいたい、と思った。

「いっぱい、いっぱい、嫌な思いしたんだよね。一樹、かわいそう。この世で一番かわいそう」

 指先で彼の二の腕を強く握り、悲痛にむせぶ。それでますます悲しくなる一樹。

「や、やめてくれ……! こんな、かっこ悪い俺なんか……ほ、ほっといて……!」

「かっこ悪くていい。かっこ悪い一樹、好き」

 ほほえむ桃香。彼には限りない優しさをたたえる菩薩の笑みに見えた。

「ずっと、がんばってきたんでしょう? 君、すごくきれいだよ。がんばると、かっこ悪く見えるんだよ。でもそれって、すっごい輝きなんだよ。そんなかっこ悪くて、輝いてる君のこと、好き……」

 おえつする体を左から力の限り抱きしめ、自分も泣きながら続ける。彼のきれいなうなじが見えた。自然にそこに顔をうずめたが、拒否されなかった。代わりに、とぎれそうに弱々しいつぶやきが聞こえた。

「ごめん、こんなにあまえちまって……お、俺……」

「いいのよ、あまえて……。もっと、もっと、私にあまえて……」

 うなじに頬をこすりつけ、彼の切ないぬくもりに死にそうになりながら、桃香は求め続けた。

「一樹のこと、あまやかしたい。あまえていいんだよ、わたしに。もっと、もっと……」


 彼のほうから彼女に抱きつくことはなかった。二人とも、そのまま動けなかった。それでも、桃香はあたたかい涙にくれながら、しあわせだった。

 一樹は幸福とはほど遠かったが、桃香のやさしさで自分の氷のような心が徐々に溶けていくのを感じていた。

(これに、いつか……)(これに、体温が宿ることがあるのだろうか)と思った。


 彼は自分を人間だと思っていなかった。冷たい鉄の機械、スイッチを切れば止まるだけの、精神も深みも何もない空っぽの容器だと、いつも感じていた。

 そこに桃香という一人の人間が入りこもうとしている。といって、彼女でいっぱいになることはなかった。桃香は、まだ彼の中に足を踏み入れたばかりなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る