七、無存在の町

「……そうです、我々は車のタイヤやお皿が丸くカーブし、その形が『曲がって』いることをとうに知っていたにもかかわらず、我々自身がその形を模ほうして動こう、などとは、長い年月のあいだ、夢にも思わなかったのです」

 桃香と一階ホールに降りてきた一樹は、あわてて壁の方へくるりと向きを変え、壁際のトイレに逃げた。中央にすえつけてある大型テレビの画面に大きく映る、蝶ネクタイで頭が禿げかかったアナウンサーが、マイクを握って得意げに話しているのを見たときだった。逃げたのは、もちろん彼がその話題の主だったからである。

「しかし先日、よその世界から来られた稀代の天才が、ある素晴らしい知識を我々にもたらしました。私たち人間も、タイヤやお皿と同じように、『曲がれる』のです!

 街のみなさん、もうどこかへ行くとき、いちいち目的地を確定して直線移動する必要はありません。途中でどこかへ寄りたくなったら、ただ、そっちへ『曲がれば』いいのです!

 全ては英雄、アシザワ・カズキさまの発明によるものです。さあ皆さん、このヒーローをたたえましょう! アシザワ・カズキさま、ばんざーい! ばんざーい!」


 個室にも聞こえてくるのでまいったが、そこでふと、頭の中で桃香の柔らかい声がした。

(なにも、まいったりすることなんか、ないよ)(みんながほめてくれるんだから、仕方ないじゃん)(素直に喜びなよ)(だって君は)(なにも悪いわけじゃないんだから……)

 そうだ、俺はなにも悪くない。

 一樹の心から次第に気恥ずかしさが消え、胸が熱くなり、気分が高揚してきた。生まれて初めてだと思った。こんなにも心が安らいで、ぽかぽかと春の陽だまりの中にいるような温かさに包まれたのは。

 俺は、悪くない。

 みんながほめるんだから、仕方がない。

 この二つの言葉を呪文のように繰り返すと、一気に呼吸が楽になった。なにかいいことがあって、幸せな気分を味わおうとしたとたん、深い穴に落とされるように自分を責めだして落ち込んでいた日々が、遠い過去のものになったような気がした。

 彼はトイレから出ると、認めて寄ってきた人々をさわやかな笑みでむかえ、握手をかわした。もう恥ずかしくも、後ろめたくもなかった。待っていた桃香と目が合うと、彼女は花のように笑った。そうだ、彼女のおかげで、俺はこうして笑えるんだ。そう思った。




 ゲルトベエル町長の調べでは、一週間ほど前に、この街に別の世界からの訪問者だという男性が来て、安宿に数日泊まったあと、また立ち去ったという。町はずれのその宿のおかみの話では、その男性は長身で黒いカバンを下げ、宿賃の払いには、ちゃんとここの通貨を使っていたという。彼はここの住人に合わせたのか、彼らと同じようにまっすぐにしか移動せず、一樹のように新たな「思想」を啓蒙するようなことはなかった。

 彼はその後、北西(本当はこの世界での方角を示す単位は東西南北ではないが、日の出、日の入りの方角との関連からして、向きとしては変わらないようなので、そう記す。というか、単位の名称を二人が覚えなかった)に向かうと言って宿を出た。ここには街の外へ行くための交通手段はなく、バスやタクシーは市内をぐるぐる回るだけである。何かの車に乗ったのを見たという証言もないため、徒歩で行った可能性が高い。


 このストレート・タウンから北西に数キロ(これも本当はキロという単位ではないが、距離としては変わらないようなので、そう記す。というか単位の名称を二人が覚えなかった)行ったところに、クリーヤなる街があるというので、とりあえずそこに行ってみることにした。たかが数キロしか離れていないのに、ここの誰もその街に行ったことがなく、名前しか知らないという。そこへなんの用事もない人に車の運転を頼むのはどうかと思い、徒歩で行くことにしたが、やはり運転手の候補者がやたら名乗り出て困った。

「自分で運転できればいいんだが、免許がなくて」

「それじゃ、こうしましょう。ベヘモスを差し上げますから、乗っていってください」

「べ、ベヘモス?」

 困惑する一樹の前に町長が連れてきたのは、ラクダに黒いコウモリの翼と、トカゲのイボイボの尻尾をつけたような変わった生き物だった。二つのこぶの間に椅子と屋根がすえつけてあり、砂漠を旅するにはちょうどいい感じである。

「おとなしくて人によく慣れてますから、車より心地いいくらいです。動かし方も簡単です」

 などと得意げに言われ、腹を二回蹴ると動き、一回だと止まる、一日二回水と餌をやる、などの扱い方を教えてもらった。二人は、数日ぶんの水と食料に、着がえ、野宿用のテントなどをもらい、それらをいくつかの袋に詰めて、こぶの間にさげた。


 立ち並ぶ全住民による例の派手な万歳に見送られ、必ずまたここへ寄ると約束し、二人は出発した。思ったよりゆれないし、椅子のシートはやわらかく、乗りごこちは確かにいい。とくに桃香は、この従順な羽根つきラクダがすっかり気に入ったようだった。

「ねえ、この子たちに名前つけたほうがよくない? ベヘモスじゃ、なんか悪魔っぽくて」

 隣を行く一樹に聞くと同意したので、「じゃあ……」と、ちょい考えてから、思い切って言った。

「ルルとペペ!」

「童話っぽいな」

「いいの。これがルルで、そっちがペペね!」

 問答無用で指さすので、一樹は困惑した。

「ええっ、こっちがルルのほうがいいなぁ」

「だって、そっちのがペペって感じするわよ」

「ペペって感じって、なんだよ」

 苦笑し、結局それで決まった。東の太陽がやさしく二人を照らしている。


 予想に反し、午後には黒字で大きく「クリーヤ」と書かれた看板が見えてきた。丘の上に立つその大きな木製の板の向こうに、広々とした街が碁盤のように横たわっていた。ビルが並び、結構近代的な西洋の街的だったストレート・タウンと違い、そこは上から見ると雰囲気がアラブの古い街っぽく、家屋の屋根が低く、さしあたって高い建物が見当たらない。


 ところが、おりてみて驚いた。誰もいないのだ。

「ゴーストタウンて感じだな」

 一樹はまわりを見ながらそう言い、桃香とレンガ造りのしゃれた歩道をベヘ……いや、ルルとペペに乗って行くと、道の両側にずらりと露店が並んでいるところへ出た。ある棚には赤、紫、黄色と、色とりどりの果物がひしめき、隣のは人の腕ほどもあるぶっとい骨付き肉が下がり、ほとんどペルシャの市場のおもむきである。桃香が棚の脇にあるものを指さしてはしゃいだ。

「見て、ほら、しょうゆがあるわよ! 小麦粉なんかもあれば、天ぷらとか作れそう」

「こんなとこに来てまで、なんで天ぷら……」

 言いかけて急に押し黙ったが、桃香は彼の変化に気づかずに口をとがらせた。

「むう、私だって料理のひとつは出来ますよーだ。お子様ランチみたいのじゃなくて、ちゃんと大人の食べる奴をね」

「お子様ランチは、子供が作るわけじゃないだろ!」くらいの突っ込みは返ってくると思ったが、彼はうつむいたまま、ペペに揺られている。そして、急に止まった。


「……お袋、俺を大学に入れると、すぐ死んだんだ」

「えっ、そうだったの?」

「学費を全部振り込んですぐ、肝臓がんでさ。けっこう家が近い母方の叔父さんが葬式の手伝いしてくれて、そのあとも仕送りまでしてくれて。だから、生活は今のところ大丈夫なんだけど。

 母親がいなくなって、急にプレッシャーがなくなって気が抜けたんだけど、なによりうれしかったのはさ――」

 口を切り、恐ろしいほど寂しい笑いを向けて続ける。

「毎日、コンビニ弁当ばっか食えたことだ。もう手料理を食わなくて済むんだ。こんなにありがたいことはないよ。毎晩、弁当食いながら、泣いたもんだよ」

「手料理、嫌いなの?」

「だって、タダじゃないんだぜ。食い物だけじゃない。あいつが俺にしてくれることには、ぜんぶ理由があった。俺が将来立派になって、あいつを助ける。あいつの失くしたプライドやら自尊心やらを、俺が代わって補充してやるってこと。そのために俺がいた。俺は、ただのあいつの人生のダシだ。そんなダシを作るための料理なんか、もう二度と食いたくな――」


 ダシだ料理だと、せっかくしゃれがきいていたのに不意に黙り、周りに目を走らせたので、桃香も顔をめぐらせた。立ち並ぶ店舗。誰もいないレンガの歩道。だが、何かおかしい。さっきまでは感じなかった人の気配が、ざわざわと二人を取りかこんでいる。一人や二人ではない。山のような人だかりが道を満たし、群集の帯になって、自分らの前後に延々と伸びている。が、姿はない。まるで市場の中を、見えない人間が埋めつくしているかのよう。

 まわりの話し声はどんどん大きくなり、聞いていると、それはどうも店頭でものを売る店員と、買い物客の間の会話のようだ。ここは確かに市場だった。それも多くの客と売り手と、そして多様で新鮮な商品にあふれた、活気あふれる商店街だったのである。

 ただし、二人のいた世界のそれとは明らかに違う点があった。ここにいる人間の姿が、全て透明だったのである。


(「クリーヤ」なんて名前の街だから、てっきり物がぜんぶ透明で、住民がまた苦労してそれを使って生活でもしてるのかと思ったら……人が透明なのかよ!)

 一樹があきれたそのとき、袖を引っ張られたので見ると、桃香が不安そうに彼を見上げていた。彼はふと脈絡もなく、子供みたいで可愛いと思った。

 が、目じりを下げている場合ではない。彼らの周りにいつしかガヤガヤと騒ぐ声が集中し、うるさいくらいになっている。目に見えないが、人だかりが出来ていることは確かだった。体は透明でも視力があって、そうでない人間の姿が見えるのかもしれない。実際、聞こえてくるのは「おい、なんだこいつら」「おかしい、普通じゃない」「こんなの見たことないわよ」「宇宙人だろうか」などと、明らかに彼ら二人に対してあげている不審や驚きの声なのだった。


 そのうち、目の前に誰かが立っている気配がして、そこから男の声がした。

「失礼、よそから来られた方でしょうか?」

 そこそこ年齢が行っている貫ろくがあり、ややかすれた声から、体型はやせていそうに思えた。一樹はその声を聞き、ふと記憶の彼方にある自分の父を思い出した。そういうとき、いつもなら胸に無意味な不快がむくむくと起きる感覚と戦わねばならないのだが、この場合は、それをするひまもなかったので、助かった。

「よそから来られたのですか?」

 透明の男が格式ばって喋りだすと、周りは潮が引くように静まった。注目されているのは確かなので、緊張する。

「はい、ストレート・タウンから来ました。人を探してまして」

 一樹の答えに、相手の声は安堵したように落ち着いた。

「そうですか、あそこは普通の人が住むところらしいですからね。いや驚いたでしょう、ここの市民は、みんな体が透明なのです。たまによそから人が来ても、誰もいないと思って通り過ぎるだけなんで、ここの誰も、外部の方とほとんど接触したことがないのです。ご無礼をお許しください。

 あ、私はここの市長をしている、アンニョンといいます」

 一樹はアンニョン市長に頭を下げたが、相手も下げたのかと思うと妙な気分だった。目の前には空気しかないのだ。それでいて、人の気配だけはある。

「透明だと、いろいろ大変なんじゃないですか?」

「それはもう。料理など、火を使う仕事をすれば、ヤケドやケガはあたりまえ。急ぐとぶつかって危険なので、ここでは走ることは禁止です。また、必ず人身事故が起きますから、車などの機械類の乗り物も、いっさいありません」

 聞いていて、一樹はまたモヤモヤしてきた。ストレート・タウンのときと同じだ。お互いの姿が見えない。そして、それは不便だ。それなら、たがいの姿が分かるような工夫を、普通ならすると思うのだが……。

 いや待て、ここもあの街と同じ、たんに「気がつかなかった」というだけの、うっかりさんの街だとは限らない。わかってはいても、そうできない事情でもあるのかもしれない。

 そこで、探りを入れるように聞いてみた。

「ケガが多いなんて大変ですね。バンソウコウを貼ったり、包帯を巻いたり」

「そうなんですよ。おかげでこの街の一番の産業は医療です。お恥ずかしい限りです」

 そう言って、本当に困っているふうなので、一樹は確信した。やはり、ここも「うっかりさんの街」だ。体に何かを付けたり貼ったりすれば、相手の居場所くらいは分かるはずだが、たんにそれを思いつかないのだ。バンソウコウを貼った時点で、それが相手の目印になることぐらい、ふつうなら気がつきそうなものだが……。

 あれ、待てよ。「体に付ける」? と、いうことは……。

「失礼ですが、皆さん、服は着てらっしゃらないのですか?」

「はい、ここに限らず、チルアウト・ゾーンはどこも気候が温暖で過ごしやすいので、いらないのです。朝、昼、晩を通して、気温はほぼ二十度で一定です。気を悪くなさったら恐縮ですが、ここでは、みんな裸です。

 この街にはファッション関係の店がありませんから、今着てらっしゃる服がもし汚れたり破れても、新しいのは手に入りません。衣服は、あらかじめ持参していただくほかないんです」

 みんな裸だったのか。服を着ていれば、肉体が透明でも相当相手の姿を把握できるだろうに。

 そこで、またあることに気づいた。

「また変なことを聞きますが、ここの人たちは、食事はするんですか?」

「ええ、普通に。ここの市場では、ごらんのように野菜や果物、肉に調味料も売っています」

「食べた物が体内に入ったら、それが見えないんですか?」

「口に入ってしまうと、食べ物も消えます。そしゃくして飲み込んで消化する過程は見えませんので、そこはあなたがたと同じです。そういう体内で消化中の食べ物だけならまだしも、おなかに溜まっている排泄物まで見えたら、さすがに気持ち悪くて鬱になりますよね。いや、そこは助かりました」

 そう言って笑い声を立てるので、一樹はなんだかイライラしてきた。とても用事を済ませて、さっさと行く気にはなれない。

 ストレート・タウンのバカ騒ぎが、ここでも再現されるんだろうな、と疲労感を覚えたが、それでもやるしかあるまい。それにこれは、別に悪いことどころか、人助けだ。たんに、「皆さん、体に何か付けたり、塗ったりすれば、お互いの居場所が分かって便利ですよ」と教えるだけでいいのだ。それだけだ。

 もっとも、ここもあそこと同じとは限らない。「よけいなことを教えやがって」と嫌われる可能性だってなくはない。だが、そうなったら、それはそれで割り切って、さっさと移動すればよい。たずね人の件は、あとでなんとかすればいい。


 そこで、この市長だというアンニョン氏に、一樹がここへ来てすっかりお馴染みになった「革命的アドバイス」をしてあげようと口をあけかけたとき、不意に相手がため息をついた。一樹が黙ると、市長は力ない、空しいような、わびしいような口調で、ぽつぽつ言いだした。

「……いや本当に。よその方が来られるたびに、私たちは打ちのめされるのです。皆さんはちゃんと目に見える体をお持ちで、お互いを認めながら、不自由なく生活してらっしゃる。なのに、私たちクリーヤの住人は、愛する人の顔も姿も分からない。それどころか、好きな相手でさえ、いつ間違って傷つけるか分からないのです……。

 なんの因果で、こんな仕打ちをうけて生きているのか。我々はいつも悩み、考えています。たいして人口がないのに、この街には宗教が百個以上あって、大学は四つ、特に人文・哲学が異常に発達しています。住民すべてが、宗教家か哲学者といってよいでしょう。

 私たちは、いつも救われたくて必死なのです。しかし、この見えない体は神のご加護なのだから、いたし方ありません。

 旅の方、私たちがなんに見えますか。答えに困りますよね、だって、なんにも見えないんですから。

 この街を通る人のほとんどが、私たちの存在に気づきません。私たちは――いないのと同じなんです。

 旅の方。

 私たちは、いないんですよ。

 そしてそれは、本当のことなのです……」


 いないのと同じ。

 一樹はがく然とし、急激に首から上が熱くなってゆくのを感じた。皮膚を破り、両目を引き裂くようなすさまじい感情が、体の奥から顔面へ洪水になって押し寄せてきた。

 そうだ、俺だって、いないのと同じだ。泣いたり苦しんだりする本当の俺はガキのころに消し去られ、残ったのは、あの女のこしらえた、見てくればかりの嘘っぱちの人形だけだ。ああ、さっきは、上から目線で、なんてバカなことをしようとしたのだろう! 俺だって、ここの人たちと同じじゃないか。えらそうに何かを「教えてやる」資格なんて、なにもない。

 俺もいないのだ。ここに何十といるはずの見えない人たち、透明の人たちと、何も変わらない。そうだ。

 俺は、いない。

 いないんだ――!


 いきなりその場にしゃがみこんだと思うと、一樹は両目を両手でぐっと押さえて激しくおえつしだした。隣の桃香は驚いて見おろしたが、まさか屋外でこんな状態になるとは思わなかったので、戸惑った。だが、子供のように泣きじゃくる一樹を見て、抱きしめて慰めたいと、心から思った。ここが外だろうが、人目があろうが、かまわない。彼をこの腕で包みこんで、いやしたい。


 そうして動きかけたとき、周りの様子の変化に気づいた。自分たちを取り囲む市場全体から、すさまじい感情の波が繰り返し打ち寄せて、彼女を圧倒した。そこかしこから、大地が崩れるような、激しいおえつが聞こえてくる。

 みんなが泣いている。市場に集まった無数の見えない人々が、男も女も、老人も子供も、それぞれのやり方で、いっせいに声をあげて泣きくずれている。だが膨大に声は響けど、その姿はまったく見えず、ただ市場のかん散とした空間が広がっているばかりで、それがいっそう、むなしさと寂しさを引き立たせた。

 彼らの流す涙も透明だった。下にそれらの一滴すらも落ちることはなく、路面はいつまでも冷たく乾いていた。


 目の前のアンニョン市長も、口を押さえて、こみ上げる悲しみにもだえているようだった。彼はおえつしながら、ひりだす声を感動に震わせた。

「わ、私たちのために泣いてくれるのですか?! こんな、いもしない我々のようなもののためなどに! なんと、なんと、お慈悲深い、素晴らしいお方だ!

 お聞きください、旅の人! 私たちは皆、あなたの深く温かい心に触れて、感激の涙を流しています! あなたのやさしさが、私たちあわれな無存在を、救ってくれました! ありがとう! 本当にありがとう!」

 感きわまって叫ぶ市長に続き、一樹たちの周りから同じような「ありがとう」の連呼、感謝の叫びが次々にあがった。

 一樹は、いまや路面に両手と膝をつき、滝のような涙をボロボロ落としていた。桃香は、彼に抱きつくのはやめ、ただ立ったままもらい泣きしながら、四つんばいで泣きじゃくる彼を見つめていた。

 ここでは、彼を救うのは自分ではない。ここにいる、無数のクリーヤ市民なのだ。





 その後、クリーヤ市民の問題は、例のごとく一樹の提案によって大幅に解決された。服を着る、体に何かを身につける、化粧をする、等によって自分たちの姿をお互いに認識できる。このアイディアは、例のごとく市民全員に大歓迎され、彼は傷ついた市民の心に共感し、慰安する司祭の役割のみならず、発明家としても高く評価された。彼の世界で言えば、ダ・ビンチなみのマルチな天才扱いであった。

 だが、クリーヤ市民はあのストレート・タウンの民とはちがい、一樹という天才に救われても、いきなりラッパを吹いたりパレードして騒ぎ立てるようなことはなかった。彼らは一樹の話を聞いて、一瞬感動はしたものの、エキサイトして大喜びなどはしなかった。一樹には、一瞬「ぬか喜び」した直後、あっという間に眉が下がり、深い悲しみにしおれていく、無数のくすんだ花のような顔が目に浮かぶほどだった。

「やっぱり、私らは、うかつだったんだ……」

 彼らは口々に重苦しく言った。

「思えば、指にバンソウコウを巻いたときに、誰かがそれに気づいてもおかしくない。『そうだ、これを目印にすれば、相手の居場所が分かるじゃないか!』ってな具合に。ところが、この街が出来て百年以上ものあいだ、我々の誰一人として、その可能性を考えようともしなかった。信じられないほどのアホウではないか。やっぱり、我々はダメだ……」

「そうだ。なんせ我々は、いもしないような連中だからね……」

 せっかく泣いてすっきりしたはずの雰囲気が、再び澱のように暗く落ち込んでくるのがありありと分かったので、一樹はあわてて言った。

「皆さん、それはちがいます! 長いこと、それが分からなかったのは――」一瞬考えて、「そ、そうです、絶望です! 絶望していたからです!」と顔を振る。

「誰でも、絶望すると頭が働かなくなります。それは当たり前のことで、ちっとも恥ずかしいことじゃありません!」

 自分の胸に手を当て、訴えるように続ける一樹。

「この姿の見える僕だって、以前は自分がどうしようもない、ダメな奴だと信じて落ち込んでいました。そして、何をしようとしても、そういう負の感情が常に邪魔をして、まともに判断できず、やることなすことすべてを失敗し、恥と苦しみの人生をこれまで生きてきました。

 でも、ここへ来て――ここ、チルアウト・ゾーンへ来てからは――本当にたくさんの、やさしくて素晴らしい方々に助けてもらい、少しずつですが、自分に自信を持てるようになってきています。今は昔よりずっと前向きになっているから、何をしても、そうそう間違うことはありません。

 皆さんも同じです。きっと大丈夫です! 皆さんの誰一人として、いない、なんてことはありません! だって、バンソウコウを貼れるじゃありませんか。喋れば、声がするじゃありませんか。ぶつかって怪我をしたりする、立派な体があるじゃないですか。そのことに、もう気づいたじゃありませんか。

 皆さん、皆さんは透明なんかじゃありません! ここに、この場所に、いるんです! 存在するんです! 僕には分かります! 皆さん自身も、気づいているはずです!」

 いつしか感きわまり、目にいっぱいの涙をためて叫んでいた。

「どうか絶望しないでください! 大丈夫です! 皆さんはもう、大丈夫なんです!!」

 言い終わるや、周りから嵐のような拍手が起こり、「そうだ、俺たちはいるんだ!」「ここにいるんだ!」と異口同音の希望に満ちた叫びがそこかしこで湧き上がり、市場は熱狂の渦に包まれた。騒ぐ声は怒とうのように四方から押し寄せ、気づけば街の住民全員が、ここに集結していると思われた。


 直ちに、ここから一番近いストレート・タウンから衣料品を仕入れるべく、数人の若者たちが旅立った。残った者たちは、使わなくなったカーテンや敷物に穴を開けて腕を通せば服の代わりになると気づき、そのように加工された大量の布が配られて身につけられた。こうして街のいたるところで、くすんで穴のあいた布や生地が、空中を浮遊してあいさつをかわす不思議な光景が見られた。これらのアイディアは一樹の提案ではなく、のちに住人たちが自分で思いついたものだった。

 街の創立百年目にして、明るさと希望を手にしたクリーヤ市民たちは、生まれ変わったように次々に新しい生活の工夫を編み出し、以前には考えられなかった快適さ、便利さを得た。



  xxxxxx



 一樹たちが去ったあとも、市民一同、彼を英雄と崇め、数年後には彼の銅像が街の中央広場に建てられた。黒シャツと黒のスラックスにスニーカーの地味な姿も、ブロンズに光沢して威厳すら感じさせ、隣には小さな桃香が忠犬のように寄り添っている。足元の石碑には、「偉大な救世主、アシザワ・カズキ」の名前が彫られ、街を救った彼の偉業は、こんにちまで市民のあいだで伝説として語り継がれている……。

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