第50話 三年後 2



 絢子が戻らないまま三年が過ぎた部屋に、ピロンと着信音が響き渡った。

 哲也はスマホに目を向け、送信者の名前を確認する。池澤大地。その名前にちょっと顔を顰めて、スマホを取り上げた。

 送られてきた内容は、直樹からの連絡の有無を問うもの。弥生の再婚を聞きつけて、復縁のための話し合いをしようとしているらしい。大地は他に直樹が誰にどんな連絡をしているか、調査するつもりのようだ。


「点数稼ぎか……」

 

 それなら自分も便乗しようと、哲也は大地からのメールの返事を絢子へと送信した。


『大地から直樹さんのことで連絡がきた。俺にも直樹さんから連絡がきている。少し不穏な内容だったよ』


 送信を終えて、じっと画面を見つめ連絡を待つ。

 減額なしの慰謝料分割は、絢子には受け入れてもらえなかった。その代わり絢子の判断でいつでも拒否できることを条件に、連絡手段を残すことをなんとか了承してもらった。月に一度だけの連絡に留めているおかげか、今のところ連絡手段を断たれてはいない。


『どんな内容?』


 しばらくして届いた絢子からの返信に、思わず哲也は笑みを浮かべた。今なら電話も取ってもらえるはずだ。小さく深呼吸をしてから電話をかけると、三コール目に絢子と電話がつながった。


『今井さんが送ってきた、少し不穏な内容ってなんて言ってきてるの?』


 前置きが一切無いない絢子の第一声は、目前に結婚を控えた友人への心配しかない。哲也は苦笑しながら壁に背中を預け、久しぶりの絢子の声にゆっくりと目を閉じる。声が聞ける喜びを感じているのは哲也だけらしい。


「……久しぶり、絢子。元気か?」

『ええ。それより今井さんからのメールはいつ来たの?』

「二日前に。ちょうど出先で受け取った。返信はしてないんだけどな」


 哲也の問いよりも直樹からのメールの内容ばかりを知りたがる絢子に、哲也は少しでも長く話せるように情報を小出しにした。高過ぎず低過ぎない、知性の滲む心地いい絢子の声。

 細切れの情報に少しイラつきながらも、的確に把握しようとしてくる絢子との会話に耳を傾ける。月一度の連絡は遮断されないように、短いメールの一言だけ。いつも返事はもらえない。声を聞ける機会は貴重だ。


『知ってるのはそれだけ?』

「……メールはそれだけだった。でも直樹さんに再婚の情報を伝えた奴は、わかるかもしれない」

『誰なの?』

「分かったら連絡するよ」

『分かった』


 用は済んだとばかりに、電話はあっさりと切られてしまった。小さくため息をついて、哲也はスマホの画面を見つめる。


「……絢子だってメリットがないと、あっさり切り捨てるじゃないか」


 ポツリと恨み言を吐き出しても、一方的に切られたスマホからはもう返事は返ってこない。

 自分にとって側にあることが最も有益なのは絢子。それは今も変わっていない。結婚だって絢子でなければ考えなかった。哲也にとって絢子が理想的であったように、絢子にとっても哲也は何らかのメリットがあったはずだ。でもたった一度の不倫で、絢子は無価値だと切り捨てた。


「なんでだよ……」


 絢子の気配がすっかり消えた、一人には広すぎる部屋を見渡す。


「他に相手もいないんだろ……?」


 いつも心にあったのは絢子だけで、生涯を共にする決断も絢子だからできたこと。

 T商事の花形部署社員というメリットは失っても、小規模会社ではあっても「次期社長」という肩書きは用意してある。今も黙っていても女が擦り寄ってくる。その程度に哲也の容姿は価値を保っている。それなのに絢子は帰ってこない。たかが不倫を理由にして。


「何が足りないんだよ」


 心が絢子にあっても他の女と寝る程度のことが、こうまで許せないというのなら、もう二度と。何度そう伝えても絢子は返事さえ返してくれない。いつも完璧だった哲也の唯一の安息の空間に、絢子という存在は絶対に必要なのに。

 哲也のしでかした大きなミスを、事もなげに処理して見せた能力の高さ。何気ない会話に混ざる有益な情報に、築き上げている太い人脈。シンプルでうるさくない容姿とは裏腹に、情に厚くてお人よしな性格。何もかもが哲也の好みで、必死に口説いても簡単には靡いてはくれなかった。その全てが哲也の理想だった。

 

「……絢子以上に完璧な女なんかどこにもいない」


 絢子しかいない。同じ空間で喋っても、笑っても、呼吸をしていても腹が立たない。自分だけの究極のプライベート空間である自宅に、存在していても許せるのは絢子だけだ。

 それなのに絢子は未練を見せない。不倫の償いを終えても、絢子が戻る気配はない。それどころかますます離れていっている気さえする。自分は未だこれほど心を残しているのに。

 微塵の未練もないかのような絢子こそ、それこそ結婚まで誓った愛への裏切り者に感じる。その程度の思いだったのかと。でも帰ってきてくれるなら、その裏切りも許して無かったことにしてもいい。戻ってきたなら今度こそ、完璧に自分のものにしてみせるから。


「急がないとな……」


 未練がないのは、また仕事を始めたせいかも知れない。これ以上離れていたら永遠に取り戻せなくなるかも知れない。哲也は握りしめていた拳を解き、スマホを取り上げた。


「どうせ未だに直樹さんと連絡取り合って、余計なことをべらべらしゃべるようなのは上田さんくらいだろ」


 過去の不倫仲間がバカのおかげで、転がり込んできた思わぬチャンスをものにすべく、哲也は早速行動を開始した。


※※※※※


 哲也との電話を終え顔を顰めていた絢子は、急いでみのりと弥生にメールを送信する。

 ランチ終了までまだ二十分あることを、時計で確かめると営業部へと足を早めた。途中でつい最近、健人は営業部での修行を終え人事部に移動になったことを思い出し、慌てて方向転換する。


「……あれ? 絢子さん? どうかしましたか?」


 急足の絢子を人事部の隣の給湯室から、弁当箱を洗っていた健人が呼び止めた。


「ちょうどよかった健人さんに会いに行くところで……」

「あ、そうなんすね! ちょっと待っててください。お弁当洗っちゃうんで!」


 にっこにっこと満面の笑みでせっせとお弁当を洗う健人に、絢子は苦笑しながら頷いた。


「……弥生さんが作ってくれたの?」

「そうなんですよ! 俺の好きなハンバーグも入ってて、わざわざ手作りしてくれたんすかね? 愛を感じるっすよね! もう愛でしかないっすよね!」

「そうね……」


 完全に浮かれきっている健人に、絢子は愛想笑いを浮かべた。そのハンバーグは多分、みのりの息子である「ひばり君」の、イチオシ冷凍食品だ。手作りではない。でも愛には違いないだろう。

 弥生は入社したアパレル系のアルバイトから、正社員になり今もバリバリ仕事をしている。忙しいのに合間にお弁当を作るのは、愛以外の何物でもないだろうから。


(まあ、健人さんは弥生さんが持たせてくれるなら、コンビニ弁当でも泣いて喜ぶだろうけど……)


 鼻歌まじりに手慣れた仕草で弁当を洗う健人に、絢子は笑みを浮かべた。

 運命の飼い主を見つけたドーベルマン君は、直樹との違いを見せつけるように弥生に尽くしまくった。冷たくあしらわれてもなんのその。元々よかったらしい毛並みを弥生のために日々整えまくり、憎めない懐っこい笑顔で元気に付き纏い続けた。毛並みが整うごとに寄ってくる女には吠えまくり、弥生にしか腹を見せない。そしてとうとう白旗を勝ち取った。そんな二人の結婚式はもうすぐだ。


(告白が最初っからプロポーズじゃなければ、もう少し早く受け入れてもらえてたかもね)


 やっと直樹と離婚が成立した後、健人は「好きです」「愛してます」の告白から一転。「結婚してください」の一点張りで、指輪を片手に弥生にゴリゴリ迫りまくった。

 お付き合いをすっ飛ばした求婚は半年間突っぱねられ、弥生の仕事を続けることなど、あれこれ条件付きでやっと受け入れられた。


「お待たせしました、絢子さん。俺に用事があるんですよね?」


 人生薔薇色を体現するような笑みを浮かべている健人に、絢子はこの時になってやっと気がついた。直樹が復縁を画策していることを話すのはまずいのではないかと。

 

(話して大丈夫かしら……?)


 日々忠犬化を加速させている健人は、弥生に何かあるとあっという間に猛犬注意となる。忠告しようとやってきたが、弥生の判断を待った方がいいかも知れない。


「あ、えーっと……」

「絢子さん?」


 口ごもるっていると健人に首を傾げられ、どう誤魔化そうか焦っていると背後に人の気配がした。


「健人君、いるか? あ! すまない、話し中だったようだな……」

「上条課長? なんか急ぎっすか?」


 健人の声に振り返ると人事部の課長である上条が、絢子に驚いて目を丸めていた。そのタイミングでスマホが震え、


「あ、私はこれで失礼します」


 絢子はこれ幸いと上条に頭を下げ給湯室を後にする。スマホを確認すると弥生からいつものカフェに集まろうと連絡が来ていた。


(やっぱり弥生さんに相談してからよね……)


 ホッとして急足で歩いていく絢子を、怪訝そうに健人が見送る。同じくじっと絢子の背中を見送っている上条を見つめ、健人は肩を竦めた。


「……声かけるなら急いだほうがいいっすよ。親父がウキウキしながら絢子さんのお見合い相手を見繕ってるんで」

「なっ! 別に俺は……!」

「そうすっか? 絢子さん、超有能ですからねー。親父が気に入っちゃって、俺の従兄弟におすすめしたいみたいなんすよねー」

「…………」


 無言で俯いた父親がつけた教育係である上条の脇を、洗った弁当箱を抱えて健人がすり抜ける。


「従兄弟も割と乗り気らしいから、急がないとやばそうだけどなー」

「……健人君、ちょっと……!」


 呑気に上条を焚き付けて戻ろうとする健人を、上条は決意を固めた顔で引き留めた。

 


 

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