第49話 後日談 三年後1

 リクエストありがとうございました。三年後を舞台に、全8話で後日談の投稿を開始いたします。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。


※※※※※


 今日も定時まで耐えるだけの職場から、実家の自室に帰り着く。

 苛立つままに直樹は荷物を放り投げ、握りしめていたスマホを睨みつけた。


『いや、普通に無理だろ。相手はC社の御曹司の婚約者になったんだ。結婚式目前に離婚した元夫と、どんな話し合いが必要だっていうんだよ』


 何度見返しても変わらない文面に、奥歯をギリギリと軋らせスマホを壁に叩きつけた。


「くそっ!!」


 持ち込んだウイスキーを煽り、競り上がってくる敗北感に髪を掻きむしる。

 不倫旅行に乗りこまれてから三年。裁判寸前まで揉めて日和った両親の説得で、離婚届けに署名してから一年半。今日知人経由で弥生の再婚を知った。

 相手は弥生に忠実な犬のように傅いては、尻尾を振っていたあの若くてチャラいイケメンらしい。弥生よりも六歳も年下。フリーターだったはずが、実は大手企業の創立者一族の御曹司らしい。はらわたが煮えくり返る思いだった。


「……お前も所詮そういう女だってことか……!」


 女なら誰でも飛びつくだろう、絵に描いたような極上物件健人。秤にかけて影で笑い、直樹の有責にしようと画策していたのかもしれない。そんな妄想にウイスキーをガブガブと煽り、酒臭いため息をつく。


「あれだけ俺にしつこく言い寄ってきていたくせに……!」


 自分がつぶやいた独り言が、脳裏に後輩の元妻の言葉を蘇らせた。


『……弥生さんが浮気をするような人間かどうか、貴方が一番わかっているのでは?』

「……うるさい!」


 脳内の声を掻き消すように直樹は、テーブルにあった雑誌を壁に向かって投げつけた。棚に置いてあった写真立てが床に落ち、けたたましい音を立てても、蘇った言葉は脳内から離れない。

 離婚の経緯が広まってから、友人も離れて行った。誰も彼も弥生の味方をする。知人程度の距離だからこそ残った、付き合いを辿って常に弥生の動向には気を配っていた。弥生の頭が冷えた頃に手を差し伸べてやるために。それなのに、離婚成立から一年半で再婚をするという。


『元からすげぇ美人だったけど、今はもう限界値を突破してたよ。愛されて幸せだからかね? 自信に溢れててオーラがすごかった……御曹司が羨ましい』


 そんな風に言っていた知人の言葉が信じられなかった。元から美貌に欠点が見つからない美人だったが、いい歳をしたバツイチなのも事実。加えて見た目の割に経験人数も少ない気弱な性格。結婚相手なんて見つかるはずはないと思っていた。


「愛されて幸せだから? ふざけるな! 俺だって愛してやってただろうが!」


 ますます綺麗になった。何よりもその言葉が許せなかった。直樹だって口や態度で出さなくても、十分に愛してやっていた。そして弥生は自分だけを愛していた。それならば自分の側にいた時が、弥生が最も美しい時のはずだ。


「自信に溢れて? 弥生だぞ? いつもおどおどしてた、顔だけが取り柄の女なんだ。仕事を始めたくらいで変わるわけないだろうが!」


 初めてまともに視線があったのは、取引先のN社の玄関ホールでセクハラ専務に弥生が絡まれている時。

 芸術品のようだった美貌は遠くから眺めるだけだった。でもまともに視線がかち合った弥生は、不安に顔色を青くし縋るように直樹を見つめていた。視界に入ることは許されない別世界の女だと思っていた弥生は、ただ怯えて助けを求めるどこにでもいる普通の女だった。

 勝手に崇める男たちに囲まれて、やっかまれていじめられ言い返せもしない女。結婚と同時に仕事を退職できることを、感謝すらしていた。そんな女が離婚をして仕事をしたからといって、自信に溢れた女に生まれ変わるわけがない。


「……そうだろう? 弥生……」


 直樹は酔いが回ってふらつきながら、落ちた写真立てに這い寄った。衝撃で額からはみ出した写真には、真っ白なウエディングドレスに身を包み、直樹の隣で俯きがちに幸せを噛み締めている弥生が写っている。


「俺が運命の相手だって言ってたもんな……」


 人生の最良の瞬間を切り取った写真に、直樹は震える声で囁いた。


「あいつらの顔、覚えてるだろ? いや、お前は俺しか見てなかったか……」

 

 結婚式の間中、直樹を見下していた男たちが絶望した顔で、直樹だけを見つめている弥生に視線を縋らせていた。でも弥生は言葉で態度で表情で、どれだけ直樹との結婚を喜んでいるか見せつけ続けた結婚式。本当に最高の瞬間だった。


「そんなお前が、俺以外の男を愛せるわけない……今度はもう少し優しくしてやればいいんだろ……?」


 あの美貌と一緒にいろんな噂が付き纏っていた弥生。だから少し警戒していた。騙されないように。嘲笑われないように。純粋そうなのも演技かもしれないから。T商事社員の妻の座に座りたいだけかもしれないから。

 何度告白されても冷たくあしらったのは、何度もそんな女に遭遇してきたから。でもこれまでの女と違い冷たくするほど、弥生はますます直樹に熱を上げ続けた。だから確かに優越感に浸って、やりすぎたかもしれない。


「……俺だってちゃんと愛してやってただろ?」

 

 初めて目があった時、心臓を握り込まれたように感じた。何かを考える間もなく勝手に身体が動き、気がつけば弥生が涙目で頬を染め、直樹を見上げていた。たった数分の出来事が、ほんの僅かな言動だけ。それだけで弥生は直樹に夢中になった。

 何度冷たくあしらっても控えめで、礼儀正しい態度は変わらなかった。だから信じてやった。本当に自分が好きだと。弥生の望み通り結婚だってしてやった。欲しがったのは弥生の方なのだ。


「……弥生、もう意地をはるな……当て馬にされる御曹司が可哀想だろ?」


 直樹の気を引くために。本気なわけがない。


『も、もしご迷惑でなければ、クリスマスに食事だけでもいかがですか? 美味しいと評判のお店の予約が取れたんです。と、特別な日に今井さんと過ごせたら嬉しいです……』


 色素の薄い綺麗な茶色い瞳で見上げながら、必死でそんな誘いを言ってきた。何度断っても弥生は諦めなかった。それだけ自分に夢中だった。心変わりなどするわけがない。

 やっと頷いてやった直樹に、弥生がどんなに嬉しそうに微笑んだか。あの顔を見ていれば健人だって、勘違いすることはなかっただろうに。何度試して確かめても、変わらなかった弥生からの愛。


「……でもな、弥生。あまり拗ねていると、俺も他の女と結婚するぞ?」


 いつまでも拗ねて意地を張り続けるのなら、少しお灸を据える気持ちにだってなる。何せ自分はモテるのだ。

 弥生と付き合ってからは特にだ。センスがいいと褒められるようになり、弥生に集まる注目の分、自分にも注目が集まった。その度に弥生は不安をこぼし、世話焼きを加速させていた。頭に血が昇っているせいで、すっかり忘れているらしい。直樹に捨てられて後悔するのは弥生の方だ。


「今回だけは俺から折れてやってもいい。お前は相変わらず手のかかる女だよな……」


 写真の弥生を指でなぞり、直樹は投げ捨てたスマホを探し出すとあちこちにメールを送り始めた。


※※※※※


 送られてきたメールの内容を確かめて、大地は深くため息をついた。送り主はかつての先輩、今井直樹。内容は離婚が成立した元妻と、話し合いの場を持てるよう協力しろというものだった。


(まだ、現実見れてないんだなー……)


 周囲が首を捻った奇跡の結婚は破綻。それと同時に弥生にかかっていた魔法は解けてしまったのに。ついでに弥生がかけてくれていた魔法も解けてしまっている。あの美人が夢中なのだからと集まっていた期待は、離婚とともにあっさりと霧散。そればかりか離婚の理由の酷さにドン引きされている。

 弥生の内助の功が維持していた、見れていた容姿もとっくに見る影はない。気持ち悪い勘違い男として今や嘲笑の的だ。直樹だけがその現実に気づいていない。


(まあ、俺は助かるんだけどね……)


 直樹が一際クズとして目立つおかげで、全く同じ立場の大地はまだマシと周囲が勝手に認識してくれる。とても助かっていた。


「あの……池澤さん。さっき総務から内線きてましたよ」

「え、あぁ、ありがとう」


 スマホをしまって新人バイトが差し出してきたメモを受け取る。確認しようと視線を落とすと、総務からの伝言の下にピンクの付箋が貼られていた。


『駅前に新しいレストラン、知ってます? パスタがとても美味しいらしいです』


 丸文字の筆跡に思わず顔を上げると、新人バイトはあざとく小さく笑みを浮かべた。


「……総務には後で連絡しておくから」


 そっけなく返答を返して、そのまま付箋だけをゴミ箱に捨てて見せる。バイトは一瞬、大地を鋭く睨みつけて無言で席に戻って行った。大地はバイトを見送ると席から立ち上がった。

 近場のトイレの個室に鍵をかけ、ポケットからスマホを取り出す。待受画面の子供を抱くみのりを見つめ、ホッと息をつき胸の痛みに眉を下げた。


(みのりみたいな女っていないんだな……)


 隠し撮りのみのりを見つめながら、内心の呟きに瞳が潤んだ。


『T商事? ふーん……ウチはダーリンが楽しく働けてるなら、勤め先はどこでもいいかなー。それよりさ、このパスタ、やばくない?』

 

 思い出したみのりのセリフに、ほんのりと笑みが浮かんだ。

 みのりの気を引こうと躍起になって、切り札の自慢の勤務先を伝えてもそんな反応だった。T商事の社員という肩書きに、みのりだけは目の色を変えなかった。なんならT商事を知らなかった。

 昔から女を引き寄せるのに便利だった肩書きは、みのりには無意味だったのが嬉しかった。窓際に追いやられその理由が行き渡っても、まだこの肩書きはあんなくだらない女を引き寄せてくる。でもその肩書きがなくなったら大地自身に価値を見出してくれる女は、果たしてどれだけいるだろうか。


(みのり……ひばり……会いたいよ……)


 今ならわかる。大地自身を見てくれる女の、希少性とその価値が。

 大切なのは大地自身。そんなみのりに感動して結婚を決めたのに、順風満帆な生活に慣れ切って忘れてしまっていた。

 可愛くて、明るくて、ちょっとおバカで一緒にいるのがただただ楽しかった。結婚して子供までできて、これで大丈夫だと油断してしまった。一番大事なものが真ん中にある安心感に刺激を求めた。

 でももう身にしみた。調子に乗りやすい自分には、浮気なんて向いていない。遊びのつもりがのめり込み、気づいた時には泥沼で逃げだすこともできなくなっていた。


(ひばりっていう宝物も生まれたのにな……)

 

 可愛くてたまらない息子の成長を、そばで見ることもできない。頭が冷えて目が覚め待っていたのは、そんな現実だった。

 離婚理由にまともな女はドン引きし、話しかけてもこない。それでもこうして誘ってくる女は、大地を見下しているくせに媚は売ってくる。追い詰められて簡単に騙せそうだと思われているのだろう。

 離婚騒動で直接被害があったわけでもないくせに、こんなクズになら自分もクズなことをしてもいい。そう思われるほど、自分の価値は下がったのだと分かった。クズにはクズなりの、相応の対応がされるのだと思い知った。


(前の俺なら誘いに乗ったんだろうなぁ……)

 

 でも今は死にたくなるほど痛い目を見た後だ。見えてる地雷にそんな気は少しも起きない。

 バレない嘘はないと知った。適当に遊んだとしてそれがみのりの耳に入ったら? 今辛うじて繋げている糸さえも、きっと完全にちぎれてしまう。みのりと子供ともう一度、家族に戻りたい。


「俺は失敗から学ぶんだ……!」


 そのためには遊んでいる暇などない。出世の道はもうないだろう。でもせめて不名誉な部署からは抜け出す必要はある。だいぶ減った給与を少しでも回復させたら、子供のために優秀なATMとして家族に入れてもらえるかもしれない。

 大地は早速、直樹からのキモいメールをみのりに転送した。みのりが大事にしている戦友弥生の安否を心配する文言も忘れずに付け加える。直樹の頭の腐ったメールを生贄にして、大地と繋がっていることはメリットだと積極的にアピールするのだ。

 ドキドキしながら待っていると、しばらくして手の中でスマホが震えた。大地は急いで画面を確認する。


『このメール来たのっていつ?』


 返ってきた業務連絡以外のみのりからの文面に、大地はパッと顔を輝かせた。深呼吸しながら必死に思考を巡らせ、大地は追撃をしてみることにした。


『頭おかしいよな。何かあるかもしれないから、直樹さんが他に誰にどんな連絡をしているか調べようか?』

『頼める?』

『みのりの頼みならなんでもするよ』


 思わず返したメールは既読はついても返事はなかった。それでも大地は離婚後初めて届いた、業務連絡以外の文面に笑み崩れる。調子に乗ったことを反省しつつ、返事をくれそうな文面を送り直した。


『何かわかったらすぐに連絡するよ』


 それによろしくのスタンプが返ってきて、大地はガッツポーズをした。直樹がどうなろうがどうでもいい。

 マイナスに振り切ったポイントの稼ぎ所を見逃さず、業務連絡以外の連絡をもらえるチャンスを手に入れる。そんな数少ない機会をモノにするためには、よそ見をしている暇など一瞬たりとてありはしない。パスタなんか食ってる場合ではないのだ。

 早速アドレス帳から今も直樹がつながっていそうな相手を絞り込みつつ、大地は篭っていたトイレから花形部署出身者には退屈極まりない仕事へと戻っていった。


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