第34話 Xデー 開幕前夜



 迎えたXデー初日。カーテンを開けた先の空は快晴。絶好の旅行日和だ。

 今日は忙しくなる。起きてすぐに支度を始めていた弥生は、鳴り響いたスマホの着信に顔を上げた。直樹からの着信にため息を堪えて深呼吸すると、スマホを取り上げる。


『あ、弥生。今から出張行ってくる』

『おはようございます。気をつけて行ってきてください』


 爽快な朝に流れ出た不快な声音に、弥生はうんざりしながらも声の調子に細心の注意を払う。それは成功したようで、直樹はえらそうに話し続けている。

 

『ああ。出張から帰ってくるまでには戻ってこいよ。お前がいないから部屋も散らかってる』

『……、ですもんね』


 全ての矢印がつながってからは、特には忙しそうだった。ひっそりと口元を釣り上げた弥生に、直樹は咳払いを聴かせて、声の調子を改めた。

 

『だから……出張が終わる前には、家に戻ってきておけ。別に俺ももう気にしていない。出張が終われば仕事も落ち着く。そんなに子供が欲しいなら、俺も病院に付き合ってやってもいい』


 まるで極上の褒美を差し出すかのように言い出した直樹に、弥生は一瞬絶句しながらも必死に声を絞り出した。

 

『ありがとう、ございます……』

『とにかく早く帰ってこい。こう言うことは直接顔を見て話すものだしな。いいな?』

『……はい。です』

『そうか……じゃあ、そろそろ行ってくる』

『行ってらっしゃい』


 弥生の返事に直樹は機嫌が良さそうに声を弾ませた。通話が切れたスマホを見つめ、弥生は笑みを浮かべた。


「すぐに顔を見て話せますよ。想定より少し早いでしょうけど」


 ニヤリと口角を釣り上げて、スマホで時間を確かめた。今日は忙しいのだ。


※※※※※


 大地は玄関先で膝をつき、みのりの大きくなったお腹に頬を当てた。


「あーーー! 行きたくないよぉーーー!」

「……電車に遅れるよ?」


 舌打ちしそうになるのをなんとか堪えて、みのりは笑顔を必死に貼り付けた。


「なんだよー、みのりは寂しくないのかよー」

「赤ちゃんと一緒だもん。それにじゃん? さすがに慣れるし」

「そうだけどさ。でも俺だってしたくてしてるわけじゃない……」


 肩を落とした大地に、みのりは思わず笑いを堪えた。から。でももう遅い。しでかす前に気づくべきだった。

 有責カウンターは十分。あとちょっと。大地が玄関を出るまで耐えればいい。みのりは自分に言い聞かせて、笑顔の維持を懸命に続ける。


「ねえ、ほら、本当に遅れるって」

「うん……わかってる。あのさ、みのり。残業ばっかでごめんな。でもこの出張終われば、仕事も落ち着く。だからさ帰ってきたら二人で一緒に子供の名前とか考えよう! 俺、出張先で子供の名前候補とか考えておく!」

「……わかった。じゃあ、気をつけて行ってきてね」

「うん……はぁ、みのり、愛してる。行ってきます……」

「いってらっしゃい……」


 悲壮感を漂わせながら、大地は何度も振り返りながら出発していく。玄関が閉まるとみのりは我慢していた舌打ちをして、リビングへと戻っていく。


「今日はマジで忙しいのにうざっ! ゲス不倫中に考えた名前とかつけるわけないじゃん」


 リビングに戻ったみのりは壁掛け時計を見上げ、今日の予定に向けて気合いを入れた。


※※※※※



「それじゃあ、気をつけて行って……」

 

 玄関先まで見送りに行った絢子に、哲也は振り向きざま腕を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。油断していたせいで、避けられなかった接触に絢子は唇を噛み締めたが、咄嗟に突き放すことはせずにグッと堪える。どうせ


「……絢子、行ってくる」

「うん……」

「京都、行けなくてごめん。出張から帰ったら仕事も落ち着くから、有給とって改めて京都に行こう」

「そうね……」


 腕の力を緩めた哲也が、絢子に甘えるような笑みを浮かべた。ゲス不倫旅行の出発直前でも、哲也は相変わらずの「変わらなさ」で接してくる。甘える時にはいつも見せる哲也の子犬のような表情。それを綾子は笑顔で迎え打った。もうその笑顔に心が揺れることはない。

 

「それと俺が帰ってくるまでに、DVD見終わっておいて。帰ってきたら寝かすつもりないから」

「…………うん」


 咄嗟に俯いて絢子は哲也から表情を隠す。難なく受け流して見せるつもりだったが、流石に無理だった。同僚二人と浮気相手を三人引き連れて、不倫旅行に出発する前のセリフがこれ。ちょっと無理だった。


「……寂しい思いをさせてごめんな。行ってくる」

「謝らなくていいから。行ってらっしゃい……」


 名残惜しそうに出ていく哲也を見送り、振っていた右手を下ろした絢子は、押し寄せてくる疲労感にため息をついた。


「……もう遅いし。いちいち決め台詞を言うのはなんなの……?」


 今更発見した哲也の新たな一面。以前の自分はそんな決め台詞に撃ち抜かれていたと思うと、ちょっと落ち込んだ。でも落ち込んでもいられない。今日はいよいよ幕が上がる「最高の舞台」。蠱毒の中に蜘蛛の糸を垂らすという、魔王・弥生考案のえげつない演出での舞台の初日なのだ。


「……そろそろかな」


 ほぼ同時刻に時計を見上げたチーム・サレ妻たち。絢子の呟きに応えるように、時間通りやってきた客人をそれぞれ室内に迎え入れた。みのりの家には、男女合わせて六名の友人。弥生の実家には、ニコニコ笑みの健人とその友人。そして絢子のところには絢子の両親と、三名の親戚。


「みんなごめんね」

「大丈夫。こっちは任せておいて。それより時間は大丈夫?」

「……うん。もう出ないと」

「やっぱりお母さんもついていった方がいいじゃない?」

「私一人じゃないから平気。しっかり準備もしてあるから」

「そう……」


 心配そうに玄関まで見送りについてくる両親に絢子は顔を上げた。


「……二人ともごめんね」

「……気にするな。こっちのことは任せておけ」

「ありがとう、お父さん」

「いいのよ、絢子。よく頑張ったわ……」

「ふふっ、お母さん。頑張るのはこれからよ」

 

 絢子は一度だけ部屋を見回して、玄関扉に向き直った。この玄関を出たら二度とここに帰ることはない。哲也と二人で築き上げた、箱庭に背を向けて、ゆっくりと外へ一歩踏み出す。

 パタンと玄関の扉が閉まると、急に込み上げてきた感傷に少しだけ俯いた。この部屋に最初に足を踏み入れた時は、幸せが溢れる未来しか想像していなかった。扉を背に隔たれた偽りの箱庭に込み上げた感傷は、どんな気持ちからくるものなのか。

 思わず振り返りそうになった絢子を引き止めるように、スマホが受信を知らせる。絢子は急いでスマホに届いた内容を確認した。


『おはよう、絢子さん。ごめん、ウチちょっと遅れるかも』

『みのりさん、おはよう。体調は大丈夫? 少しくらい遅れても大丈夫だから無理しないで』

『みのりさん、絢子さん。おはようございます。みのりさん、まだ家にいます? 健人さんが途中でみのりさんを乗せてから行こうって言ってくれてます』

『あ、ほんと? 助かるー』

『二人とも、多少遅れても大丈夫ですよ。それよりも忘れ物がないかのほうが重要です』

『ほんそれ。もう

。だから忘れ物がないようにだけ注意してくださいね』

『わかったー! 絢子さん、ありがとー』

『私もできるだけ早く済ませて、向かいます!』

『急ぎすぎて場所を間違えないでくださいね。第四スタジオ会議室ですからね?』

『あ、そうだった』

『そうでしたね……人数が多すぎて入らなかったんですよね……』

『二人とも忘れてたんですね……』


 ペタペタと貼られるスタンプに、絢子はため息をついた。

 賑やかに準備に追われるチームメイトとのやりとりで、感じていた哲也と暮らした部屋を離れる感傷はすっかり消え失せた。うっかり者のチームメイトに小言を送信しながら絢子はそのまま駅へと向かって歩き始めた。

 

『準備は私が万全にしておきます! なので、ちゃんと終わらせてからきてくださいね!』

 

 元気にスタンプを返すチームメイトたちに苦笑しながら、絢子は最後の下準備に向け気合いを入れ直した。


※※※※※ 


「やっっっと終わった!! もうこんな時間かー」


 多少の遅れがありながら始まった第一日目の日程は、夜の八時を回ってようやく完了した。レンタル会議室を出ると、みのりがグッと背伸びをする。

 

「人数が人数でしたから。でも思ったよりも揉めませんでしたね」

「各種取り揃えてましたからね。揉めようもありません。それより下準備完了のお祝いに、みんなでご飯でも食べにいきませんか?」

「いいね! ウチ、パスタ食べたい! パスタ! トマト系がいい!」

「じゃあ、今日は前夜祭ってことで、みのりさんリクエストの美味しいパスタにしましょうか!」

「やったー!!」

「二人とも、本番は明日ですよ? 明日の出発は早いですからね?」

「わかってるってー!」

 

 興奮にキラキラと瞳を輝かせたみのりが、弥生と嬉しそうに頷き合っている。

 迎えたXデー初日。外は快晴、絶好の旅行日和。第一日目は多少の進行の遅れがあったものの、特製爆弾の準備とセットを完了できた。

 明日はいよいよ小野田が待つ保養所へ出発する。ちょっとした解放感を味わいないがら、チーム・サレ妻は本番に向け前夜祭へと繰り出した。


 

 

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