第10話 絢子と哲也
希望した部署に配属されなかった。
入社当時の絢子は、そんな理由で仕事に対する意欲を早くもなくしかけていた。
「魔王になった気分じゃない?」
ぼんやりと画面を見ながら、淡々とパソコンに数字を打ち込んでいる時だった。絢子の教育係の安田が話しかけてきたのは。あまり勤務態度がよくない自覚のあった絢子は、突然話しかけてきた安田にびくりと肩を揺らした。
叱責を覚悟した絢子に安田は、ニヤリと笑みを浮かべると打ち込んでいた書類をピンと指で弾いた。
「今、杉山さんが打ち込んでるのって、総務の出納でしょ?」
「はい……そうですけど……」
「で、今、柴崎さんが営業部の打ち込みしてる」
「はぁ……」
訝しげな絢子に安田はヒョイっと片眉をあげて、入力したところまでの保存をかけた。
「これ、内緒だからね……」
スッとマウスを握るついでに絢子に囁きかけると、入力した出納データと連動している収支グラフを表示させる。社内の部署と支社のタブがならぶその画面は、正直業務で使用することはあまりない。存在を知ってはいても立ち上げることはほとんどなかった。
安田はグラフから総務のタブをクリックし、画面に表示させる。
「杉山さんや、他の誰かが打ち込むごとにこのグラフは変動するじゃない?」
「そう、ですね……」
連動しているのだから当然だ。何が言いたいのかと首を傾げる絢子に、安田は営業部のタブをクリックする。
「ここ、急に上がってすぐに落ち込んでるでしょ? これプロジェクトの特別予算が降りて、その予算の半分で企画部が広告展開したから」
パッと企画部のグラフが表示され、確かにその予算分の変動が見てとれた。
「で、その広告が当たって……」
また営業部のグラフが表示される。マウスポイントで、上昇するグラフの線をなぞりながら安田が得げに言った。
「営業部の売り上げが急上昇! すごくない?」
「え、すごいってなにがですか……?」
安田が言っている内容は分かる。間違いがないように打ち込まれた数字が正しければ、今の流れのようにグラフを描くのも当然だ。それのどこをすごいと言っているのか、絢子は戸惑いながら安田を見上げる。
「会社って利益を上げるために動いてるじゃない? 極論、利益のために存在してる」
「まあ、そうですね」
基本企業は利益がなければ存続できない。頷いた絢子に安田は得意げな顔で腕を組んだ。
「その利益の全体像が、ここではパソコン一台で全部把握できる。いくら犠牲にして、いくら売り上げたか。もしくは損をしたか」
「確かに、そうですね」
「各部署のプロジェクトとか、企画を把握するといいわよ。あとはこの金額だったのは期待してるからか、はたまた逆なのか。まで分かるようになると、俄然面白くなってくるわよ」
そういうと安田はそのまま自分の席に戻っていく。さっぱり意味がわからないまま、業務に戻った絢子は数日後に意味を理解した。
その日の午前中は各部署が、こぞって経費処理の申請にやってきた。その対応に追われ、午後になってやっと退屈な入力業務に戻れた。さて打ち込むかと覗き込んだ書類には、午前中に散々目にしたプロジェクト名の名前があった。
「これって……」
絢子はグラフ表示する。午前中にきた部署をなるべく思い出しながら、タブを切り替えて上がり下がりのグラフを追った。
(こっちは上がってるはず……やっぱり。ならこっちは……そう、下がってる。ならこっちは……あれ? あんまり上がってない……じゃあ、こっちも……やっぱり、ここで上がらなかったから目標に届かなかったんだ)
追ううちにするすると紐付けされていき、社内で進められていたプロジェクトの推移が手に取るようにわかった。順調だった流れをどこが堰き止め、どこが盛り返したかも目に見える。
(魔王ってこういうことね……)
思わず笑った絢子には魔王というより、パズルが解けた気持ちよさが近かった。それでも安田が言いたいことは理解できる。利益を追求する集団である会社。その会社の推移を、ここに座ったままで見渡せている。
絢子は今日入力する分の書類に視線を落とした。多分これを入力すると入力前の今より、上昇を描くことになるはず。その予想が正しいかを確かめたくて、絢子は早速入力に取りかかった。
いつもはあくびを堪える業務に、一心不乱に没頭する。いつもより二時間も早く作業を終えて、ドキドキしかながら保存をすると早速あのグラフ表示画面を表示した。
(やっぱり……!)
思った通り上昇を見せているグラフに、思わず笑みが浮かんだ。嬉しくなって安田の席を振り返ると、視線を感じた安田が顔をあげた。絢子の表情に気がつくと、安田はニヤリと笑みを浮かべて済ました顔で作業に戻っていく。
(こんな楽しみ方があるなんてね……)
くすくすと一人肩を揺らした絢子にとって、その日から単調な数字を打ち込むだった業務が、謎解きパズルに挑む楽しさになった。
(これは、多分、少し下がる……かな)
予想を立てその答えを知るために、より正解さを意識する。正確じゃなければ答えが変わってしまうから。より早く入力できるよう工夫もした。そうすればより早く予想の答えを知れるから。
より正確な予想を立てるために、他部署の仕事にも目を向けるようになった。進行中のプロジェクトも把握するようになった。そうしているうちに、より重要な部署の入力を任されるようになった。絢子からしてみれば、予想を立てるのが難しい挑みがいのあるパズルを任されたのだ。
楽しみを見出してからより楽しむために工夫した。それが業務評価という形で絢子に返って来始めた。日々が充実していた。
「杉山さん、新しく入ってくる子に、今度はあなたが教えてあげてね」
「はい……」
そんな矢先に絢子に仕事の楽しさを教えてくれた、安田は病気療養で退職した。それが哲也との交際のきっかけになった。きっと安田が仕事の楽しさを教えてくれなければ、哲也と交際することはなかったかもしれない。
(あれ……合わない……でも、こっちに影響が出てない……ってことは経費? でも経費だとすると金額がだいぶ大きい……けどあのプロジェクト規模なら、多分未処理の経費がこの金額でもおかしくないかも……)
そんな予想を立てて絢子は、営業二課に出向いた。キョロキョロしながら、絢子は誰に声をかけるか悩む。
放置すればかなりの損害になるミス。絢子の手柄にもなるが発覚すれば、ミスした社員は多分プロジェクトから外される。昇進したくないわけではないが、誰かを踏み台にしたくはない。安田のように楽しんでした仕事で評価されたかった。
(穏便に済ませてくれそうな人って誰だろ……)
様子を伺っていた絢子は、ちょうど通りかかった哲也に決める。人好きする雰囲気が、大ごとにしないでくれる気がした。思い切って声をかけた哲也は、都合のいいことにやらかした本人だった。
未処理の経費に気がついて青くなる哲也に、絢子はホッとしながら笑みを浮かべた。
「大丈夫です。まだ誰も気づいてないです。急いで処理しちゃいますね。でも次回からは、本当に気をつけてくださいよ!」
「杉山さん……本当に、本当にありがとうございます!!」
そうして絢子がプロジェクトから外されかねないミスを、カバーしたことで哲也からの猛烈なアプローチが始まった。
「杉山さん! 今日は残業ですか? あ、じゃあ、俺、待ってるんで、食事に行きませんか?」
落ち着いた年上とばかり付き合ってきた絢子は、三つ年下の哲也を相手にしなかった。別に好意があってミスのカバーをしたわけではない。何度そう言って断っても、哲也は何度も誘いにくる。
「杉山さん! 水族館のチケットあるんです。一緒に行きませんか?」
何度あしらわれても人目も憚らず、哲也は熱心に誘ってきた。それほど熱心に誘われて悪い気はしていなかった。
「杉山さん。こんなに熱心なんだから、一回くらい付き合ってやんなよ」
「ですよね! あ、でも一回じゃなくて、ずっと付き合って欲しいです」
「上原くん、それ言っちゃうから杉山さんが、誘いに乗ってくんないじゃない?」
「いやー、でも本心なんで」
絆されかけていたところで思わず笑ってしまい、絢子は哲也の誘いを受け入れ付き合うことになった。ふっとため息をついた絢子に、みのりが憤慨したように瞳を怒らせた。
「……は? 絢子さんに助けてもらったのが、付き合うきっかけだったのに、続けたいって言い続けた仕事を辞めさせたってこと?」
こくりと頷いた絢子に、みのりはイライラと前髪をかき混ぜた。
「何それ! 続けさせてくれてもよかったじゃん!! まだ子供だっていなかったんでしょ?」
「……もし仕事を続けられてたら、私は再構築も考えたかもしれません。でも散々悩んで話し合って、最終的に子供まで持ち出して……辞めてもらう代わりに絶対苦労させないって、そんな言葉を信じたのがバカだったのかもしれないですけど……」
「は? 信じたのが悪いの? 裏切るやつが悪いんだって!」
「そうですよ!」
怒ったように声を荒げたみのりに、弥生も頷いた。二人の反応に、絢子は瞳を潤ませた。
「二人とも……ありがとう、ございます」
浮気だけでも十分離婚の理由にはなる。でも心のどこかで大袈裟なんじゃないかという不安がいつもあった。その不安が離婚以外の選択肢を考えられないのは、一大決心で決めた結婚に対して無責任だと責めてくる。
絢子の気持ちを知った上で、離婚を肯定してくれる。それは心の片隅で燻る、そんな不安を小さくしてくれた。
「それにしてもさー、絢子さんとこもめっちゃ謎。三回もプロポーズとか、そんな熱心だったのに、なんで浮気ってなるの?」
「……それは私も知りたくて。付き合ってる時も変わらなかったんです。それもあって後輩からの連絡で疑わなかったら、気づかないままだったかもしれません」
「結婚してからは?」
「あー……言われてみたら、結婚してからは少し落ち着いた? かもしれません……」
「じゃあ、釣った魚に餌をやらないタイプ、とか?」
「そうなんでしょうか……」
「あー、でもホントのとこは、結局、聞かなきゃわかんないよねー、もうなんなのー」
みのりがペショリと、テーブルに懐く。その横で弥生が、絢子に気遣わしそうな表情を向けた。
「本当に理由は気になりますよね……考えないといけないことばかりなのに、どうしてなのか、何が原因でってそればかり考えてしまいますよね……」
小さく俯いて呟く弥生に、絢子とみのりは言葉を止めて顔を見合わせた。
「えっと……あの、やっぱり弥生さんも、理由を知りたいって今でも思っていますよね?」
「はい……理由がわからないうちは決められない気がして……」
「その理由がもし、すごく傷つくようなことでも知りたいと思いますか?」
「そうですね。それでも知りたいです。浮気の時点で十分傷ついてますし」
「それはまあ、そうですよね……」
チラリと見てくるみのりに、絢子も浮かべる表情に迷って俯いた。あの音声データの存在を、弥生に教えるべきか答えが出ない。
「もしやり直すにしても、理由がわからないとどんな努力をしたらいいのかもわからないし……もし努力のしようがないことなら、それはもう離婚するしかないのかもしれないですし……」
「そう、ですよね……」
「でもお二人に味方だって言ってもらえて、こんなに心強い味方がいるんだと思えて。前より冷静に考えられるようになったんです」
ニコッと小さく笑った弥生に、みのりは苦しそうに呻いてガバリと身を起こした。
「うーーー! やっぱり黙ってられない! あのね、弥生さん! 理由わかったの!」
「え……?」
「み、みのりさん……!!」
「絢子さんが法律とか色々調べてくれる前に、録音しちゃってね……だから弥生さんが確認したいなら、今ここで理由はわかるの!」
みのりがスマホをテーブルにバンと置く。
「ウチら、味方だから! だから弥生さんが知りたいなら、ウチらここで一緒にいるから!」
呆然と目を見開いて弥生は、みのりを見つめ絢子に振り返る。
「……すいません、弥生さん。先に確認しました。弥生さんが知りたかった理由は、聞いたらきっとわかると思います」
弥生はみのりのスマホに視線を落とした。
「すぐ音声データを送ることはできます……でも、すごく傷つくことになるかもしれません。それでも聞かれるのなら、私たちも一緒にいます」
「いるよ! ウチらチーム・サレ妻が一緒にいるから! だから弥生さん……!」
言葉を詰まらせたみのりに、弥生は唇を引き結んで頷いた。
「……私、聞きます」
弥生の決意に満ちた声に、絢子はスマホから音声データを送付する。ゆっくりと弥生がスマホを耳に当てるのを、みのりと絢子は固唾を飲んで見守った。
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