第8話 投下された燃料



 自宅で唯一鍵をかけられる寝室で、絢子は持ち込んだノートパソコンとファイルを広げていた。

 みのりから受け取った写真を、選別し各夫ごとに振り分け整理する。みのりの友人の活躍は非常に助かるが、所詮は素人。手ブレや人物の特定ができない写真は、慎重に確かめながら選別する必要があった。


「……やっぱり一度は弁護士に相談に行った方がいいわね……」


 ネットで調べられる範囲でも、浮気の証拠として扱われる写真にも条件があった。

 本人の特定ができること。撮影場所や状況、撮影時間などが分かるもの。など。法的に証拠として扱われるためには、条件を満たした写真が必要になる。とりあえずわかる範囲での条件をみのりに送信する。


「整理したら確認したほうがよさそうね……」

 

 まとめた資料を見てもらい、証拠能力を確認する必要がありそうだ。どうせなら提示できる条件やら、一度は弁護士にアドバイスを受けておくべきだろう。


「あ、司法書士なら……」


 離婚は範囲外でもアドバイスや、弁護士の紹介は受けられるかも。スマホの連絡先をスクロールしていると、ピコンと通知音が鳴り響く。

 

「みのりさん……?」


 ポップアップの名前に、絢子は首を傾げた。チーム・サレ妻ではなく絢子個人宛に送られている。


『絢子さん、ちょっと相談あるんだけど』


 確認した内容に首を捻りながら絢子は返事を返した。


『どうかしましたか?』

『あのね、証拠集め手伝ってくれてる友達がさ、会話の録音してくれたんだけど、ちょっと内容がね……』

『弥生さんに関わることなの?』


 絢子個人に送られてきたということは、そういうことだろう。


『とりま、送るから聞いてみて』


 イヤホンを手にリビングのソファーに移動する。緊張しながらイヤホンを装着し、添付されてきたファイルに耳を傾けた。

 ざわざわとどこかの店内らしき騒音は、思ったより音量が大きく慌てて調整する。


『……んだよ。だからマジで鬱陶しくてさ……』


 聞こえてきた声に絢子は耳を澄ませる。おそらく直樹の声で間違いない。


『いや、あんだけの美人にそこまで惚れられるってやばいっすね』


 弾むようなハキハキと小気味いい声は、大地の声だろう。


『でもそうまで迫られると。俺はちょっと逆に引くなー』


 おっとりとした低めの声に、絢子は顔を顰める。この声は間違いようもなく、絢子の夫・哲也の声だ。


『だろ? 毎回こんなにあなた好きなの。お願いだから抱いて! とか言われてみ? うんざりするから』


 言い放った内容の割に、どこか自慢げな響きがある直樹の声に絢子はぴくりとこめかみを引き攣らせた。


『そういう気はないって、何回断っても告白してくるし。あまりの勢いに押し切られて結婚したわけだしさ、多少の浮気はあいつも納得すんじゃないかなー』

『いや、気持ちはわかるっすけど、あの奥さんの後だと落差ひどくて感覚バグりません?』

『まあ、弥生は確かに美人だからな。けどな? 美人に気を遣って、義務の一回をこなしてるとさ、ストレス溜まるわけ』

『あー、それなんとなくわかりますねー』

『そこで、気を使わなくて済む適度なブス。やりたい放題やって好き勝手してストレス解消! 嫁がさ、美人すぎるとそういう苦労も出てくるんだよね』

『そういうもんすかねー……あ、でも好き放題やれるのは楽でいいっすよね』

『女って要求多いもんなー』

『ところでお前ら、出張の件大丈夫なん?』

『バッチリっす! 俺の嫁、休暇の存在知らないんで』

『俺もとこも大丈夫ですね。ちょっと突っ込まれてヒヤッとしたけど、普通に納得してました』

『俺のとこはそもそも疑いもしてなかったけどな。じゃあ、全員参加ってことで』

『っすね。あ、俺今日はそろそろ帰ります』

『何? 今から行ってくんの?』

『いや、今日はこのまま帰ります。あんまり残業多くなりすぎると、流石に疑われるんで』

『だな、今日はもう帰っか』


 その後はざわざわとした店内の雑音が続き、絢子は震える手で音声ファイルを閉じる。途中途切れ途切れになったりしながらも、しっかり聞き取れた内容に拳が震える。

 絢子はイヤホンを怒りのままにテーブルに叩きつけると、みのりにメッセージを送信する。


『内容確認しました。クソですね』

『クソの塊だよね。でもこのまま弥生さんに渡していいか迷ってさー』

『そうですね。確かに迷いますが、私は正直このまま渡してしまいたいとも思います』

『それはウチも思った。自分がやらせてるくせに、超絶美人の弥生さんに惚れられまくってる俺様演出してるとか、キモすぎて死ぬかと思った』


 きっと大袈裟に顔を顰めて、滔々と隠しきれない自慢げな声で、弥生を貶めていた直樹に怒りが込み上げる。その陰で弥生がどれほど傷つき、涙をこぼしていたか。三人の中で唯一弥生だけが、裏切りを知ってもキッパリと離婚を選べなかった。そんな思いをこんなふうに踏み躙る直樹が許せなかった。

 

『個人的には義務の一回にブチギレそうでした』

『あー……何回もヤッてるくせにね。結局さ美人の弥生さんに惚れまくってるのに、自分がうんこな自覚あるから試しまくってるだけってことじゃん?』

『私も思いました。そうなると弥生さんが冷めて、バッサリ切り捨てるのが一番ダメージ大きそうですけど、正直弥生さんの様子だとどうなるか……』

『このまま聞かせたら、弥生さん病んじゃいそうでさー』


 絢子はスマホを握りしめたまま肩を落とした。理由を知りたい。知りたがっていたその理由が、これほどくらだなくてだからこそ残酷だった場合、弥生の心はどうなるのだろう。


『聞いてもらうにしても、一緒にいる時がいいと思います。まずは次の会合で少し話してみて、様子をみてみましょう』

『りょ! ウチ、燃料投下されてなんか燃えてきた! ゴリゴリ証拠集めるわ!』

『みのりさん、無茶しないでくださいよ』


 絵文字の返信に苦笑してため息をつく。なだめはしたものの絢子もみのりと同じ気持ちだった。録音では直樹が際立ってクズだったが、外野の二人もなかなかのクズだった。でも何よりもよく燃える燃料になったのは、弥生への仕打ちの真相だった。弥生が貶められている。それが自分がされたことのように、たまらなく腹立たしい。

 きっとみのりも同じ気持ちだ。お互いの事情を知って生まれた連帯感。その連帯感がチームメイトへの侮辱に対し、腑が煮えるような怒りを灯す。


「……ただじゃおかない」


 絢子はそのまま寝室に踵を返す。

 バカにして、侮って、そうして嗤っていればいい。頭の中にこびり付いて再生を繰り返す、裏切り者たちの声に拳を固める。絢子は散らばる資料に視線を落とし、パソコンを開いた。

 惨めさと虚しさを、三人でじっと耐え忍ぶ。でも必ずこの日々が報われる、とどめの一撃を用意してみせる。

 絢子は歯を食いしばると、途中にしていた資料に向かい合う。セットしておいたアラームの音が鳴り響くまで、絢子は資料整理に没頭していた。

 

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