第7話 みのりと大地



 東京から車で三時間。地方の片田舎がみのりの実家だった。

 学校の友人と連れ立っての帰り道、みのりの自宅が近づくつれ怒鳴り声が聞こえて足を止める。


「――――!! ――――ない!!」

「――――――!? ――――が――――ろっ!!」


 内容は聞き取れないが、激しく罵り合っているのがわかる。それが両親だということはすぐにわかった。立ち止まって俯いていたみのりの耳に、


「あ、みのり、あのさ。今日もこの後、家にくるっしょ?」


 親友の声が滑り込んでくる。パッと顔を上げたみのりは、何も聞こえてなどいないように、いつもの笑顔で向けている親友に頷いた。


「え……あ、うん……!」

「このまま来る? それとも家寄って着替えとってくる?」

「着替えだけとって、すぐに行くね!」

「りょうか〜い!」


 ひらひらと手を振る親友に、みのりは家に向かって駆け出した。近づくごとに、罵りあう声は鮮明になる。


「別宅に愛人を囲うなんて何を考えてるの!! しかも十も若い女なんて!!」

「いちいち口を挟むな! 誰のおかげで飯を食えてると思ってんだ!!」

「それはこっちのセリフよ! どんな噂になってるかわかってるの! 恥をかかせないで!!」


 幼い頃から聞いてきた罵倒の声に、みのりは失笑を浮かべた。


(もうそうやって罵り合ってるのが、もう恥じゃん……)


 幸か不幸かみのりの実家は地元の名士。古くから土地に住む年寄りには、みのりお嬢さんなどと呼ばれたりもする。一言の挨拶もなく、まっすぐ自分の部屋に行き着替えを詰める。

 近所中に聞こえる声で互いの恥を罵りあう両親のおかげで、だだっ広い屋敷も地主という肩書きも今は嘲笑の的でしかない。

 着替えを詰め終わった鞄を手に、みのりはまっすぐ駆け出した。門の外で談笑していた親友達が、みのりに気づいて笑顔で手をあげる。みのりは無意識に止めていた息を、ホッと吐き出した。


「愛美も後からくるってー」

「なら前の続きしない?」

「いいけど、負けそうになっても電源切るのなしね」

「なら一回くらい手加減してよー」

「手加減したら面白く無いじゃん」

「それいうなら、芽衣ばっかり勝つゲームも面白く無いんだけど?」


 話しながら歩く道すがら、芽衣のスマホが鳴る。画面を確認した芽衣がみのりに振り返る。


「スーパー寄ってこ。今日オムカレーにするから、帰りに卵買ってこいだってー」

「え! マジ? やったー! あ、スーパー行くならコロのおやつも買ってこ!!」

「みのりがおやつ上げまくるから、コロ、デブってきてんだけど……」


 みのりにとって家庭の味は親友・芽衣の母の料理だった。みのりの家から怒鳴り声が聞こえる日は、芽衣が当然のごとく家に泊めてくれた。一年の半分を自宅以外で過ごしていても、両親はみのりが家にいるかさえ知らなかっただろう。

 みのりにとって血のつながった家族より、血のつながらない親友家族こそがよほど家族だった。結局みのりは高校卒業と同時に、芽衣達と共にすぐに地元を離れた。


『ごめん、今日バイト長引いて行けない』


 届いた芽衣からのメッセージにため息をつく。


「うわっ……マジか……梨花達も今日、無理なんだよね……」


 頑張れと返信を手早く返したスマホを、ポケットにしまいながらみのりは一人で目的地に歩き出す。

 みのりはシェアハウスに入居し、バイトを始めた。息苦しい地元を離れての生活を、みのりは刹那的に楽しんでいた。


「……まあ、誰かしらいるよね」


 毎夜遊びに繰り出すたびに、知り合いの知り合いの知り合いは随分増えた。つまらなければ帰ればいい。地元からの友人がいないまま、みのりは芽衣達と行く予定だったクラブへと向かった。


「一人なの?」


 もう帰ろうかと思っていたみのりに、声をかけてきた男。それが池澤 大地との出会いだった。


「……友達がバイトで来られなくってさー。つまんないし、もう帰ろうかと思って」

「えー、なら俺と飲み直そうよ」


 いつもなら無視する声かけに反応したのは、みのりには馴染みのないスーツ姿が原因だったかもしれない。美容師、服飾関係、バンドマンに彫り師。自然とつながりができた知り合いたちの中に、スーツ姿の会社員はいなかった。

 大地の口から出るセリフは、そういう知り合いと対して変わらない。それなのにちゃんとして見えたスーツ姿のせいか、芽衣の家の飼い犬・コロに少し似ているせいかみのりは頷いていた。


「ちょっとなら」

「やったぜ! 可愛い子との酒は美味い!」


 さらっと言われた可愛いに、悪い気はしなかった。話し始めると妙にノリのあう大地。話し込んで気がつけば、ラストオーダーの時間になっていた。


「え、もうそんな時間?」

「っぽいー」

「楽しくて全然気づいてなかった。俺こんなにノリが合うの初めてだわー」

「ウチもかもー」

「このままお別れは残念だなー」


 チラリと見てくる大地に、みのりは苦笑を浮かべる。


「んーでもーウチ、明日バイトだし、さすがに今日は帰るわー」

「あー……じゃあさ、連絡先は交換してよ!」

「いーよー」


 スマホを取り出して身の乗り出す大地に、みのりもくすくす笑って頷いた。


「マジでまた絶対、会ってよ!」


 そんな風に始まった大地との出会いは、トントン拍子に進んで行った。一人暮らしの大地の家で半同棲状態になるまで、そう時間はかからなかった。


「……ウチもさ、こんだけノリが合う人と会ったの初めてでさ。一緒にいると嫌なこと全部忘れるぐらいすごい楽しくて」


 言いながら俯いたみのりは、包んだままのカップに視線を落とした。


「でも友達みたいなノリだったから、家の事情とか重い話をするのは怖くてさ。でもそういう話になった時、重い話なのにちゃんと聞いてくれてさ。それは辛いよなって慰めてくれて……」

 

 人によっては軽率に聞こえるかもしれない。でも絢子はそんな風には思えなかった。嫌なことを忘れるくらい。そう言ったみのりの育った複雑な家庭環境を知れば、嫌なことを忘れるくらいという言葉は軽いものだとは思えなかったから。

 弥生もそう感じたのだろう。目を真っ赤にして、俯くみのりを見つめている。


「子供ができたって打ち明けた時も、すごく喜んでくれて……俺は絶対みのりのお父さんのようにはならないって言ってくれたのに……」


 俯いたみのりがぐすっと鼻を啜る。即離婚を決めて驚くくらい、誰よりも前向きに離婚に突き進んでいたように見えたみのりの涙が、絢子の胸に突き刺さった。みのりはすっぱりと気持ちを切り替えたのだ。そんな風に勘違いしていた自分が恥ずかしかった。最も信頼する夫の裏切りに、傷ついていないわけがない。


「みのりさん、ごめんなさい……私、軽率なことを言って……」

 

 怒鳴り合うような家庭で子育てしたくない。と言っていたみのり。でも子供のためなら実家に帰る選択肢も含めて考えていた。それだけの覚悟を持って、みのりは決めていたのに。 

 絢子はみのりに真摯に頭を下げた。見た目や年齢を理由に、勢いなんじゃと軽率に口にしたことを改めて謝罪する。


「……絢子さん、真面目すぎ。ウチこそ、わざわざ浮気教えてくれたのに、初対面ですごい失礼だったじゃん」

「……誰だっていきなりよく知りもしない相手が、夫が浮気してるって言ってきたら警戒したはずだから……」

「でもさ、絢子さんはウチらに知らせてどうしたいか聞いてくれたじゃん?」

「そうです。迷ってる私を急かさずにいてくれて……すごく優しいと思います」

「それは家だけの問題で済まなそうだったから……」


 思いがけずしんみりしたテーブルに、静かな沈黙が落ちる。沈黙には同じ裏切りに傷ついた三人の悲しみ、そしてお互いに知った事情への理解と無言の励ましがある気がした。


「……踏ん張りましょう、ね」


 もう幸せだった頃には戻れない。裏切られた事実は消せも忘れもできない。でも、それぞれができる限りの望む形での、決着をつけることならできるかもしれない。

 元の形にはもう戻せなくても、乗り越えて再出発するために。その第一歩を踏み出すために。チームで支え合って、傷つけられ裏切られた方が、辛いばかりの結末を迎えないように。

 目元を赤くして頷き合った妻たちは、小さく笑みを交わしてそれぞれの家庭戦場へと戻っていった。


 

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