第2話 離婚への決意



 ぼんやりと見上げた時計は、十八時過ぎを指していた。


「……夕食を作らないと……」


 ソファーで膝を抱えたまま、絢子は自分が漏らした呟きに自嘲した。


「……意味ないけど」


 浮気を知ってから多少体調が悪くても、欠かすことのなかった家事へのやる気は消え失せた。

 膝を抱えていた腕を解いて、ソファーの背もたれに後頭部を預ける。


「証拠だってまだ十分じゃない……できるだけ普段通りにしなくちゃでしょ……」

 

 見上げた天井を見つめながら、そう自分に言い聞かせても立ち上がる気力は湧いてこない。

 

「でも別に、部屋なんて汚くても死なないし……」


 それなのに結婚してから三年。毎日せっせと家事をこなしてきた。胸に渦巻く虚しさを吐き出すと、それに応えるように結婚当時の思い出が脳裏に蘇る。


『やばいよね。疲れて帰ってきても、いつも部屋がピカピカ。出来立ての美味い飯まである。俺さー、絢子と結婚できてマジでよかった。いつもありがとな、絢子……』

 

 思い出してしまった哲也の嬉しそうだった声に、グッと詰まった胸を押さえて蹲った。

 そんな言葉にあっさり舞い上がって、ずっとそんな気持ちでいてもらえるようにと、ますます家事に気合を入れた自分。

 すり寄るように甘えてくる体温が、そんな生活の原動力になっていた。でもたった三年であっさりと裏切られ、もうあの言葉が本心だったのかすらもわからなくなった。


「いつから……」


 夫のために家をピカピカにして待つ、妻以外の女の腰に手を回すようになったのは。

 一本の電話で芽生えた疑惑。疑うようになってしまったことが苦しかった。でも疑いを口にはできなかった。年上の絢子をいつも頼って甘える哲也に、そんなことで揺らぐ面倒な女だと思われたくなったから。

 疑いを打ち消してしまいたくて、散々悩んで確かめに行った。でも本当は残業かもしれないという淡い希望は、もつれ合うように女と歩く光景に打ち砕かれた。


「どうして……」


 いつも部屋を綺麗にしていた。帰る予定に合わせて出来立ての夕食を準備していた。そんな結婚生活に、幸せを感じると言ってくれていたから。

 女と歩いていた光景が閃くように浮かんで、息が詰まって苦しくなった。咄嗟に膝頭に強く押し付けた目元が、じわりと熱を帯びる。湧き上がってきた耐え難い惨めさに、いっそ何もかも壊したい衝動に駆られ奥歯を噛み締めた。

 じっと蹲って耐える絢子の耳が、甲高い通知音が拾う。びくりと肩を揺らして顔を上げ、絢子はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。


「小野田ちゃん……」


 チカチカと点滅するスマホに、ポップアップされた小野田の名前。一瞬恨みがましい気持ちが湧き上がり、絢子は思わず顔を顰めた。浮気を知ってから思考は極端に傾き、感情は簡単に揺れるようになった。

 小野田からの連絡で浮気を疑わなければ、今こんなに惨めな思いをしていなかったかもしれない。

 耐え難い惨めさを誰かせいにして、少しでも楽になろうとする。そんな思考を巡らせる自分に気づくたびに、ただでさえボロボロの心に自己嫌悪まで重くのしかかった。確実に心が疲弊しているのを感じる。


「……小野田ちゃんは悪くない。人生の浪費をする前に気づかせてくれたんだから、逆に感謝すべき」


 深呼吸をして自分に言い聞かせ、滲んでいた涙を拭う。


「誰かが悪いなら裏切る奴でしょ。たとえ理由があったとしても……」


 理由。絢子は自分の呟いた言葉に押し黙った。哲也には浮気をする理由があったんだろうか。裏切ったことに理由があるなら、裏切られた自分にも落ち度があったのだろうか。浮かんだ思考に、気持ちが落ち込んだ。

 もし哲也に浮気をした理由があるなら、良好だったはずの家庭に背くほどの理由があるなら、それはどんな理由なのだろうか。それを知ることはできるのだろうか。

 肩を落としながら絢子はスマホのロックを外す。小野田へ支社にトラブルが起きているか、念のため確認していた。その回答が届いていた。


『先輩、お疲れ様です! お尋ねの件で連絡しましたー! 答えはですね、先輩のお誘いがあれば、私はいつでも半休とってお茶に駆けつけますよ! です!』

 

 いつでも半休を取れるという回答。それはつまり支社にトラブルなど起きていないということだ。小野田からのメッセージに、ため息が溢れる。


「……まぁ、そうよね。トラブルが起きたから出張なのに、なんで三ヶ月後なんだっていう……」


 迅速に解決すべきトラブルを、三ヶ月も放置するわけがない。少し考えればすぐ分かる嘘を、あっさりと信じていた自分が情けなくなる。こんな稚拙な嘘に簡単に騙されるほど、哲也を信じていたことを思い知らされた気分だった。


『ありがとう。変なこと聞いてごめんね』

『いえいえ。本当にいつでも連絡してください!』


 鼻を啜りながら返した返信に、すぐに小野田からの返事が届いた。小野田への感謝が浮かぶと同時に、今度は静かに怒りが込み上げてくる。


「バカに、してるよね……」

 

 ちょっと確認すればすぐに分かる嘘。哲也はこんな杜撰な嘘でもバレないと思っている。そう思う理由はただ一つ。絢子が会社を辞めたから。


「辞めて途切れる程度の実績でも、人間関係でもないんだけど……!」

 

 プライドを持って働いてきた。昇進の打診もあった。仕事ぶりを認めて貰えていた。真剣に働いていたからこそ、退職後でもこうして繋がっている人間関係がある。

 そもそも小野田は書類不備にかこつけて、教育係だった絢子とのちょっとしたおしゃべりをするつもりで連絡をくれたのだ。


「あなたが選ばせたくせに……!」

 

 三度もプロポースをしてきた哲也。その度に専業主婦の母親を見て育った哲也と、仕事を続けたい絢子はもめた。結局最終的に持ち出されたのは子供だった。

 年齢を持ち出され言葉を詰まらせた絢子に、家にいてもらう代わりに絶対に苦労させない。哲也はそう絢子を説得した。頷いたのは哲也を愛していたから。それなのにたった三年でその言葉は反故にされた。


「される方にも問題がある? いや、ないでしょ! キャリアを諦めて家に入って、望むように家事を完璧にして! 子供だっていざ結婚したら、最初は新婚生活味わいたいとか言い出して……!!」

 

 暗く落ち込んでいた気持ちから、一気に怒りに感情が傾いた絢子の耳に、ピコンと通知音が届く。怒りに燃えたままスマホを手に取った絢子の目に、小野田からの追撃が目に飛び込んでくる。


『いつでも戻ってきてくださいね。先輩の席は空いてますよ〜』


 確認した画面に並ぶ文字に、絢子は思わず口元に笑みを浮かべた。

 哲也は絢子に仕事と結婚と天秤にかけさせた。でも信じて苦渋の決断をした絢子を、手ひどく裏切った。哲也にとって二度のプロポーズを先延ばしにまでした、絢子の仕事への情熱はその程度の軽いものだった。

 

「小野田ちゃん。ありがとね……」


 でも例え社交辞令だったとしても、こうして軽くはなかったと思わせてくれる人もいる。

 

「離婚しよう」


 何がどうなったとしても、もうどうしても許せない。仕事を続けたいと懇願した絢子に、哲也は少しも譲歩を見せなかった。今度は絢子が譲らない。

 明日は約束の一週間後。みのりと弥生はどんな答えを出すのか。どんな答えにせよ、ただ悶々と過ごすしかない今からは解放される。離婚に向かって準備ができる。


「協力してくれるといいな……」

 

 ただ涙を流すばかりだった弥生。震えるほどの怒りがあっても、現実的に子供を妊娠しているみのり。同じ当事者でも絢子とは環境も事情も何もかも違う。二人の答えは明日を待つしかない。


「理由だけは確かめたい……」


 自分なりに努力していた結婚生活。それを裏切った哲也の理由はなんだったのか。新たに再スタートするためにも、哲也の理由だけは知って終わりにしたい。

 素早く小野田に返事を返した絢子は、重いため息を吐き出してキッチンへと向かっていった。


 

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