2.masaki
予約日時の少し前、樹が相手を待っていると、遠くから「うわぁ」という声が聞こえてきた。どうやら本人が到着したようだ。「どうも」と、近付いてくる相手に聞こえるか聞こえないかくらいの音量で言い、軽く頭を下げる。
「はじめまして。お母さんそっくり、きれいな顔」
「はじめまして。え、と……、そうでしょうか」
「うん。ということは、きみは人口培養の顔じゃないんだね」
「あ、俺……僕は、違います」
最初から朗らかに接してくる相手に、樹は内心少し驚く。大体いつも、相手は緊張しながら話しかけてくるのだ。男性という性別を抜きにしても、こんな相手は初めてだった。
「それに背も高いから、格好よさが際立ってる」
「……ありがとう、ございます。あの、柾さん、十秒でいいですか?」
柾は樹より十センチほど背が低いようで、顔を覗き込む目がくるりと上を向いている。血色の良さそうな唇は久し振りだと、樹はごくりと唾液を飲み込んだ。
「うん。だいぶ感覚は戻ってるけど、まだ食事の時にちょっと不便なんだ。まず十秒で」
にこりと笑みを作り、柾はまた上目遣いで樹の目を見た。繁華街に建つショッピングビルを訪れる人は多く、人々の笑い声や話し声、バイクや車の音、配達中の無人航空機のモーター音などが聞こえてくる中「楽しみにして来たんだ」と囁く、男性にしては少し高めの細い声が、艶をまとって樹の耳に届く。
「……はい」
初めての男性相手で緊張するが、なるべく落ち着こうと、樹はいつものように柾の肩に軽く手をかけて顔を近付けた。それからタイマーをセットし、自分の唇を彼のぷるんとした肉感の唇に軽く押し当てる。人口培養の唇に交換して十日ほど経っているからだろうか、冷たさはそれほど感じない。
ピピ、ピピ、と、十秒が経過したことを告げる音が空気を切り裂く。無意識のうちに、柾の艶のある唇の熱が自分のものと溶け合っていくことに愉悦を感じていた自分にはっと気付き、樹は唇を離そうとした。が、柾がそれを許さず、キスが続けられる。
「ごめ、も、すこし」
終わろうとしない口付けの途中で短くそれだけ言うと、柾は小柄な体からは想像もつかないような力で樹の背中を抱き寄せた。突き飛ばしたところで、二人とも倒れる結末しか予想できない。アラーム音を手探りでストップさせ、仕方なく樹はされるがままになっていた。
樹は唇を貪られ、入り込んだ舌で口内を舐め尽くされた。くちゅりと唾液が混ざり合う音がしたと思うと、生温い液体が顎へと垂れていく様が、見えなくても想像できて樹の高揚感を更に高める。
自身が先週そうしたように、ぺろりと舌先で下唇をなぞられもした。ぞくりと首筋に快感が走り、もっと、もっととねだりたくなる自分を抑えるのに必死だった。
柾が「はぁ」と熱い息を吐きながらキスを終えた頃には、もうどのくらい経っていただろうか。時間を計ることなどできずにいた樹は、呆然とその場に立ち尽くす。
「ごめん……、なんか、すごく、気持ちよくて……」
しばらくの沈黙のあと、柾が先に口を開いた。かすかに充血した目を潤ませて恥ずかしそうにうつむくその姿はかわいらしい女性のようで庇護欲をそそるが、ふと背中に回されていた腕の力を思い出し、やはり彼は男性なのだと思い直す。
「あ、えっと、時間……わからないんですけど」
「名前は?」
「名前? 俺は、いつき……樹木の『じゅ』で……」
「樹くん」
「は、はい」
はっきりとした口調で名前を呼ばれ、慌てて返答する。樹が逆らえない何かを、彼は持っている。
「きみの時間をもっと売ってほしい。僕、他の部分も人口培養のものと交換したんだ」
「……他の、って……唇しかしたことないですけど……」
「そうだろうね。童貞だろ? 気持ちよかったけど、キスも受け身だったもんな」
衝撃的な言葉をぶつけられ樹が言葉をなくしていると、「どう? 週末一日だけ、八十万で」と提案された。
「そ、れは、その……、相談しないと……」
「誰に? お母さん?」
「あ、母と仲介の人に、です。……何で俺を?」
ただでさえ童貞だの受け身だのと言われて驚いているというのに、高すぎる金額が自分につきそうなことに戸惑ってしまい、樹は何から尋ねればいいのかわからないまま口を動かす。
「樹くんが純粋だからだよ。染めて、汚したいんだ」
多くの種類がありそうな柾の笑みが、より深くなった。それに反するように、樹の体がどんどん冷えていく。
「……まあ、びっくりするよな。今日は帰るけど、また依頼するから」
そう言うと柾は樹の手に五万円を握らせ、くるりと踵を返して駅とは反対方向へと歩き始めた。白茶けたタイル造りの歩道をしっかりした足取りで、柾の背中を見たまま放心する樹を、振り返りもせずに。
それから数分が経ち、やっと体の自由を取り戻せた樹は、かすかに震える手で耳に細いヘッドセットを付けた。登録されている大地の電話番号へ連絡するためだ。
『樹か?』
「……大地」
『電話なんて珍しいな、どうした? もう依頼人来るだろ』
「今日は、もう終わりにしてくれないか」
『え? 体調でも悪いのか?』
「……そういうわけじゃ……ないけど……」
『何だよ、元気ないな。わかった、断っておいてやるから、店来いよ。じゃあな』
「うん」
ヘッドセットを外し、樹はのろのろと歩き始めた。とにかく早くあの店に行きたい、大地が用意してくれる飲み物を飲みたいとの一心だ。
「……
小さな独り言は、繁華街の喧騒に負けて跡形もなく消えていく。まだ力が入りにくい足を必死に動かし、樹は大地の店を目指した。
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