【BL】pureness

祐里(猫部)

1.request


 相手の冷たい下唇をつうっと伝う唾液を舌先で舐め取ってやると、女性は浅く吐息を漏らした。二秒もかからない動作で他人にこれだけ影響を与えることができる、そう考えると気分がわずかに高揚していくのがわかり、いつきは心の内だけで自嘲する。


 そこへ、ピピ、ピピ、というアラーム音が響いた。


「はい、十秒」


「んっ……、もぉ? えんち、お、いい?」


 つい数秒前まで自分がついばんでいた唇が引っかかりのある言葉を紡いでいるのを間近に見ると、樹はいつも不思議に思う。言葉を発するのと、酸素を取り込むのと、飲食物を摂取するのと、愛撫し合うのが同じ器官なのは何故だろうと。


「ごめん、延長はできない。次の予約があるから」


「……そか、わか、った」


 女性はそれ以上何も言わず、樹に二千円を渡した。そうして、ほとんど人が通らない場所とはいえ屋外で知らない男とキスをしたという事実から目を背けるように、駅の方へと走り去る。樹は銀縁眼鏡越しにぼんやりとその背中を見送るだけだ。


 本当は「次の予約がある」というのは嘘で、休憩したいだけだった。立ちながらのキスは慣れてはいるが、何度もしているとさすがに疲れる。女性に対しての罪悪感がほんの少しだけ湧いてくるが、疲れには抗えない。


「お見事」


 ぱち、ぱち、と投げやりな拍手とともに聞こえてきた声の方を見れば、服装こそシンプルなグレーのスタンドカラーシャツとブラックのパンツだが、洒落たカフェを営む人物にはとても見えない、筋肉質の大柄な男が立っていた。


大地だいち、見てたのか。店は?」


「バイトちゃんが来たから、任せてきた。あの子雇って大正解だったわ。すげえしっかりしてんの、俺より」


「ってことは、もう三時半過ぎてる?」


「そろそろ四時になる」


「んじゃ今日はもうやめ。また来週な。もし依頼来たら断っておいて」


 アッシュブラウンに染めた少し長めの前髪をかきあげながら、樹が気怠げな様子で言う。


「いいじゃん、もう少しやれば」


「嫌だよ、疲れた。休みたい」


「……しょうがねえな、んじゃ店戻るか。せっかく抜け出してきたのに」


 すると大地の胸ポケットの黒縁眼鏡が、プルル、と短く鳴った。どうやら依頼が来たようだ。大地は眼鏡をかけると、メッセージを読み上げる。


「ええと……、二千円払います、十秒お願いします、だって」


「今日はもう終わりだって。つーか何でそんなに来るんだ」


「そりゃ、伯父さんたちが宣伝してるし。美容外科の聖地みたいになってんだから、依頼も多いだろうよ」


 脳以外の体の器官を人口培養のものと交換できるようになったのはもうかなり前だが、医療用としてのみ許可されていたその技術が、美容用としても許可されたのは十年前だ。樹の父と母が香坂こうさか美容外科を立ち上げたのはその直後で、腕が良いと評判になり、今では関東全域にその名を轟かせている。


「バーコードが巧妙に隠されてる三次元イラストだけの、小さいチラシなのに」


「何だっけ、売り文句……『パートナーに気付かれたくない時に利用してください』って言いながら渡すんだったか」


「そう。我が親ながら、言い方がうますぎてちょっと引くよ」


 人口培養の粘膜部分は、交換直後は感覚が鈍い。約一ヶ月かけてだんだん元の感覚を取り戻すことになるが、唇は話したり飲食物を入れたりする器官のため、できるだけ早く感覚を戻したいという人が後を絶たない。また、樹の父母の売り文句のように、パートナーに気付かれたくないと考える人も多いようだ。


「十秒のキスを何度かするだけで感覚が早く戻るなら、お得なんだよ。たった二千円だし。今どき二千円で買えるものなんて、うちの一番安いコーヒーくらいだ」


「……まあな」


「とりあえず、店に行こう。疲れてるんだろ?」


 樹は軽くうなずくと、駅の方とは逆方向へ大地とともに歩き始めた。徒歩五分程度で、大地がオーナーを務めるカフェに到着する。


「今日寒いから、何か熱いのが飲みたい」


「へいへい、樹は黙ってそこに座ってろよ。……あ、ごめんね、こいつお客さん扱いしなくていいから」


 大地に勧められた店内奥の椅子に樹が素直に座ると、午後三時半出勤のアルバイトの女の子の「はい」という声が聞こえてきた。大地が樹の飲み物を作ろうと動かす手を何となく目が追うが、何も話す気にはなれない。本当に疲れているのだ。


「はい、ロイヤルミルクティー」


「これ甘くないよね?」


「砂糖は入れてないよ」


「いただきます」


 父方の従兄の大地との付き合いは、そろそろ十六年が経とうとしている。樹が甘い飲み物が苦手なのを、彼はよく知っているのだ。


「来週、同じ水曜日の同じ時間でいいのか?」


「水曜日の午後の講義は取らないようにしてるって言っただろ」


 周囲に聞こえないよう、樹の隣に立ってこそこそと話しかけてくる大地に素っ気なく答えると、「だよな」と返ってきた。


「……あのさ、さっき来た依頼なんだけど、来週でもいいって相手が言ってて……」


「わかった」


「場所はあのショッピングビルの脇で、午後二時」


「だから、いつもと同じなら言う必要ないよ」


「……うん、まあ。ただ、相手が……」


「相手が?」


「男性なんだ。二十八歳の、まさきさん。漢字は木へんに正しい」


「いや、漢字はどうでも……男性って、本当に?」


「本人が言うには。……大丈夫か? おまえ、危なっかしいところあるから……」


 相手の性別に面食らって二の句が継げない樹に大地が言うには、二十八歳の柾と名乗る男性から『三日前に施術を受けた。午後二時に遅れないように行く』とメッセージが来たとのことだった。


「まあ大丈夫だろ。別に男性でもいいよ、さすがにびっくりしたけど。女性にしか伝えてないと思ってたから」


 帰宅したら母に文句を言ってやろうと心に決め、樹は良い香りを立てているロイヤルミルクティーを一口飲んだ。

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