3.poison


 樹が時間をかけて大地のカフェに到着すると、珍しく店内には客がおらず、閑散としていた。アルバイトの女の子はまだ出勤していない。二人きりの店は、樹にとって安心できる場所になった。


 つい先ほどあった出来事を、ゆっくりとした口調で大地に話す。大地は相槌を打ちながら真剣に聞き、樹が話し終えると店の奥のバックルームへ入っていった。


「これが発信装置。で、これが俺が持つ受信装置」


 店のテーブルに着いてロイヤルミルクティーを飲む樹の前に、大地が小さな機械を二つ置く。


「……何……?」


「防犯装置。いつか渡そうと思ってたんだ。あそこ治安悪いから。ボタン押すだけで俺に伝わる」


「つったって、昼間だしなぁ」


「昼間に泣きながらここに来たのに?」


「泣いてない」


「男に無理やりキスの時間延ばされたんだ、泣いても無理はない」


 確かに気落ちして疲れた姿を見せてはいたが泣いてはいなかったはずなのにと、樹は大きく息をついた。それを見た大地も同様に一つ大きく息を吐き、「あのさ、俺、引っ越すことにしたんだ」と言い出した。


「引っ越す? どこに?」


「今の家、店まで四十分くらいかかるんだよ。だから、店のすぐ近くに」


「へぇ」


「おまえも一緒に来ないか? 大学にも近くなるだろ」


「……え? ルームシェアしようってこと?」


「ああ。どうせろくなもの食ってないんだろ。すぐに疲れたとか言い出すくらいだもんな。伯父さんたち忙しそうだし、俺が食わせてやるよ」


 大地の唐突な申し出に、樹は黙り込んだ。確かに夕食を取らない日があったり、ファストフードで済ませてしまうことも多いため、食事に関しては全く反論できない。


「ろくなもの食ってないってのは……そうなんだけど……。でも、迷惑じゃないか? 大地が気楽な一人暮らしを満喫できなくなるってことだろ?」


「部屋を分けておけばいい。まあ、樹が同じ部屋で寝たいって言うなら考えるが」


「それはない。でもなぁ……うーん……」


「明日の休みにでも、賃貸住宅の内見に行こうと思ってるんだ。一緒に行かないか?」


 大地が明るく言う提案について、樹はデメリットは少ないと自分本位に考える。十九歳の樹より七歳も年上だというのに子供の頃から仲が良く、親もそんな大地を信頼している。キスのアルバイトの仲介も任せているくらいなのだ。きっとルームシェアは反対されないだろうし、資金も出してもらえるだろう。大学までの所要時間は、おそらく片道三十分程度短くなるはずだ。


「……ちょっと、いいかもしれない。ルームシェア」


「だろ? 前から考えてたんだよ。じゃ、内見の予約しとくから。ああ、狙ってるのはこの部屋なんだが」


 そう言って大地が自分の黒縁眼鏡を樹に差し出した。眼鏡をかけると、きちんと二人分の独立した部屋が用意された間取りが目に映る。店からは徒歩三分程度と近い場所の物件で、良さそうだと感じる。


「ん、行く」


「……で、柾さんだけど、次に依頼来たら断っていいよな?」


「次……」


「キス以外はナシだからな。キスだって、事前に決めておいた時間を大幅に超えてたんだぞ。断る方がいい」


 柾との出来事を思い出すと、樹の目に自然と涙が溜まってしまう。大地に見つからないように目を伏せたが、無駄だったようだ。


「ほら、泣いてる」


「……キスが、受け身だって……。童貞ってのも、本当だから」


「別にいいじゃないか、そんなこと」


「それが、俺、淡白なのか、かわいい女の子相手でも気分が乗らないというか……でもこういうの、相手のせいにしてるみたいで悪いなと思ってたんだ。だから、何か、痛い部分を見抜かれたって感じで……」


「それ、本当か?」


 驚いて尋ねる大地に、樹が「え、うん」と答える。相当大きな驚きだったようで、大地が押し黙ってしまった。


「大地?」


「……わかった。もうあいつからの依頼は断る。それでいいな?」


「う、うん、いいけど」


「明日の夕方で予約しとく。大学の授業終わってからでいいから、ここに来い。わかったな?」


 押しの強い大地にこくりとうなずき、樹は冷めてしまったロイヤルミルクティーの、最後の一口をごくりと飲み込んだ。



 ◇◇



 樹と大地が目的の賃貸住宅の内見を済ませ、あとは契約するだけという段になって、いつもアルバイトをしているショッピングビルの建物の脇に柾が現れた。依頼は大地が受け付けていないため、予約は入っていない。


「やあ。断られちゃったから、直接来たんだけど」


 機嫌良さそうに話しかけてくる柾に、樹の心臓がどきりと跳ねる。また唇を犯されるかもしれないという恐怖からなのか、まさか再会するとは思っていなかったという驚愕からなのか、もしくは別の要因からなのか、判断は難しかった。


 難しかった、はずだ。それなのに、たった数秒ののち、樹は柾に口付けていた。「今日はそういうつもりは」などと言葉を発したがるその唇を、押さえ込みたかった。息を吸いたがるその唇を、塞ぎたかった。自分以外の物事に、使われることがないように。


「なん……、ちょっ、バカ、やめっ……」


 柾の言葉を飲み込むように、やがて訪れた彼の恍惚の表情を見るまで、樹は彼に口付けするのをやめなかった。

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