第3話
春休みも残すこところあと二日。決戦の入学式は明後日だ。
明日はさすがに入学式準備があるため、ジェイクを含め全ての生徒は学園に立ち入り禁止となる。
つまり、今日さえ乗り越えてしまえば全ては解決のはずだった。
(なのに、どうして見つかっちゃうのよぉ)
泣きそうになりながらメルディは目の前に現れた黒い本を穴が開きそうなほど見つめていた。
いつものようにジェイクと落ち合いちょっとしたハプニングを挟みつつ、図書室に来ていた。
先ほど、少し用事があるからと言ってジェイクは席を外している。
メルディはなんとなく最初にジェイクと出会った奥まった通路に足を向け、埃を被った本の並びをぼうっと眺めていた、そのときだった。
(あれ?)
これまでまったく気にならなかったのに、何故か一冊の本がやけに気になった。
古ぼけた本の中にあって、何故かその背表紙だけはほとんど埃を被っていない。
そっと手に取れば、ぞっとするほどに滑らかな羊皮紙の感触が手のひらに馴染んだ。
とても手間をかけてなめされているのが伝わってくるうえに、どうやって染めているのかわからないほどの漆黒には怖いほどの美しさを感じた。箔押しされている金文字は光を受けて妖しく光っており、見つめているだけで妙な高揚感がこみあげてくる。
「っ……!!」
思わず表紙に手をかけようとした瞬間、脳裏に浮かんだのは「はとる。」のゲームスチルだ。
(これっ、悪魔召喚の本!)
ゲームの終盤、この本を持ったジェイクが悪魔を行使する瞬間を思い出しメルディはその本を投げだそうとした。
だがどうしたことか手のひらにぴったりと張り付いて離れてくれない。
触れたところからぞわぞわとした黒い何かが身体に入り込んでくるような気がする。
(どうしたらいいの! はやくしないと殿下が来ちゃう)
今すぐこの本を隠して、ジェイクから遠ざけなければ。
誰の目にも触れないところに隠して、それから。
(これを、ワタシが……)
「なにしてるの?」
「ひっ……!」
突然後ろからかけられた声に、メルディは物理的に飛び上がる。
先ほどまで頭を占めていた奇妙な感覚はどこかにいってしまった。
「で、殿下」
振り返った先にはジェイクがいつものような微笑みを浮かべて立っていた。
咄嗟に手を後ろに回して本を背後に隠す。
「今、何か隠したよね。それはなに?」
「え、ええっとぉ」
暑くもないのに全身に汗が滲んだ。冷たい汗が背中を滑り落ち、厭な感触に全身がわななく。
「その、ちょっと図書室にあるにはふさわしくない蔵書を見つけてしまって」
咄嗟に出た言葉は嘘ではないが本当でもない。
「ふうん? もしかして、それって僕が探してる本じゃないの? 見せて」
「だ、だめです! これは、その、殿下に見せられるような代物ではなくて……その」
「うん?」
「と、とっても卑猥な本なんです!! お目汚しなんです!!」
悲鳴じみた声で叫んだあと、メルディは泣きたい気持ちになった。
言い訳するにしても他に言いようがあっただろうに。
恥ずかしさと混乱と恐怖で頭の中が真っ白になる。
「へぇ。卑猥な本なんだ」
ジリジリと距離を詰めてくるジェイクの瞳は冷え冷えとしていた。
逃げようと後ろに下がったメルディだったが、すぐに背中が本棚にぶつかり追い詰められてしまう。
「何が書いてあったの? 読んだんだよね」
「えっと、えっと」
「メルディはそれを読んでイケナイ気持ちになっちゃったの?」
「なに、を」
体温を感じるほどに近くに立ったジェイクはメルディをじっと見下ろしていた。
メルディにできることは背中にある本を視界に触れないようにすることだ。胸を反らし、少しでも自分を大きく見せて本の存在を包み隠そうとした。
「そんなに胸を突き出してどうしたの? もしかして触って欲しい?」
「へっ!?」
あまりに脈絡のないジェイクの言葉にメルディは目を白黒させる。
貴公子然としたその姿で、今、彼は何を言ったのだろうか。
ジェイクの左手が、メルディを囲い込むように本棚へと押しつけられた。
ただでさえ近かった距離がもっと近くなり、高貴な香りがメルディの鼻孔をくすぐる。
「そんな可愛い顔して、誘ってるの?」
「な、殿下……?」
見下ろしてくるジェイクの顔はこれまで見たことがないほど妖艶で、背筋が震えるほどに美しかった。
「君の目的がわからなかったけど、やっぱり僕を誘惑したかったんだ」
ぽつりとこぼされた声にはどこか失望の色が滲んでいるように聞こえた。
メルディが映り込んだ瞳からは光が消え、これまでの彼とはまるで違う人間と向き合っているような気分になる。
「いいよ、誘惑されてあげる」
まって、と叫びかけたメルディの唇に柔らかくてあたたかいものが押し当てられた。
近すぎて焦点の合わない視界で、唯一輝いて見えた青がジェイクの瞳だと理解した瞬間、メルディはジェイクにキスされているのだとようやく理解する。
重なった唇が離れる瞬間、ちゅっ、とわざとらしい音をたてられ全身がかっと熱を持った。
「でん……っ」
殿下、と言いたかったのに再び唇を塞がれた。
角度を変えながら何度もついばむようにキスをされ、勝手に息が上がる。粘膜をかすめるしっとりとした感触に全身の毛が逆立つような痺れがこみあげてくるのに、心はどんどん冷えていった。
(なに、なにされてるの!)
今すぐ両手でジェイクの身体を押したいのに、後ろでしっかり掴んだ本を落とすわけにいかずにせめてもの意地で指先に力を込める。
長いキスからようやく解放された時には、膝が無様に震えていたが、メルディはなんとか耐えきった。
「……へぇ、すごいね」
何が凄いというのか。
自分がされたことが信じられずメルディはジェイクを睨み付けた。
異性とのキスは前世含めてこれが初めてだった。他人と唇をあわせるだけの行為がこんなに官能的で怖いものなんて知らなかった。
「う……」
目頭が熱を持ち、盛り上がった涙で視界がぶれる。
強引に唇を奪われるようなことをしてしまったのだろうかとメルディは必死に考えた。
この数日間、死にたくない一心でジェイクに絡んでいたことは認めるが、嫌がらせでキスをされるほど鬱陶しがられていると思えなかった。
ゲームの黒幕ぶりとは違い、なんだかんだと優しいジェイクと過ごす時間が心地いいとさえ思っていたのに。
生まれて初めてのキスが、何の感情も伴っていないことが酷く悲しくて胸が痛かった。
「ひどい」
みんなで幸せになりたかっただけなのに、結局自分は踏みにじられるのだとメルディは我慢できずに涙をこぼした。
ジェイクの顔を見ていられず、視線を床に落とす。
指先から力が抜けて、本が床に落ちる音がした。
取り繕う気力も残っていないメルディは、そのまま本棚を背中で撫でるようにその場に座り込む。
ジェイクは未だにメルディの前に立ったままで何も言わないし、動く気配もない。
(このまま酷いことされて、やっぱり殺されちゃうのかな)
ゲームではジェイクは悪魔の暇つぶしに付き合って人を殺し、ルートによってはヒロインであるアマリリスを陵辱していた。
きっと自分も同じ道を辿るのだという恐怖に身体の芯が冷えたが、どうしてか逃げる気力が湧かない。
ぼんやりと床に落ちた黒い本を見つめていれば、その本をジェイクの綺麗な手が掴んで持ち上げるのが見えた。
「……!」
闇に堕ちていた思考が一気に冷静になる。
「だめっ!」
必死に手を伸ばすが、それよりも先にジェイクが本を掴んでしげしげと眺めはじめていた。
青い瞳が何かを考えるようにきらめいている。
「ああ……」
回避できたと思ったのに。絶望でずんと心が沈んでいく。
あの凄惨なゲームが開始されてしまう恐怖に身体がすくんだ。
自分が死ぬことも怖かったが、本当は優しいジェイクが悪魔召喚の本に傾倒し、悪人になっていく未来が嫌でたまらない。
「殿下、だめです。その本を開いちゃ駄目。殿下が、死んじゃう」
気がついたときには情けない声がこぼれていた。
あの本を開いてしまえば、物語がはじまってしまう。どんなエンディングが訪れたとしても、ジェイクは死ぬか悪魔に身体を奪われてしまう。
「……メルディ、君は」
「私はどうなってもいいですから、おねがい。その本を捨ててください」
力の入らない身体を叱咤しながら、メルディはジェイクに手を伸ばした。
みっともなく床に足を投げだしたまま、しがみつくようにして彼の長い脚に抱きつく。
初めて触れたジェイクの身体は、骨ばっていてメルディよりも少しだけ体温が低かった。
視界の端を何かが霞め、ドサリと乾いた音がした。
ゆるゆると視線を向ければ先ほどまでジェイクが持っていた本が床に落ちている。
「え……?」
信じられない思いでメルディが何度も瞬いていると、ジェイクの長いため息が頭上から降ってきた。
「ほら。君のお願い通り本を捨てたよ。いい加減、そこにしがみつくのはやめてくれないか」
抑揚のない声に慌てて手を離す。
支えをなくした身体は再び床に倒れかけるが、それよりも一拍早くジェイクが身をかがめメルディの身体を抱きとめてくれた。
細身だとおもっていたジェイクの身体は思いのほかたくましく、メルディはすっぽりとその腕の中に収まってしまう。
「ごめんね」
耳朶のあたりを、あたたかな吐息がくすぐった。
産毛が逆立つような落ち着かなさが全身を駆け抜け、聞こえた言葉の意味が頭に入ってこない。
「え、えと……殿下……?」
ジェイクの言葉に、少しだけ思考が動き出す。
わけがわからずに呼びかければ、メルディを抱く腕の力がわずかに緩む。
ようやく上げることができた視界にとらえたジェイクはどうしたことか満面の笑みを浮かべていた。
「君はやっぱり僕の予想を軽く超えてくる」
「あの……?」
「どうしてあの本が危ない本だって知ってたの?」
一番聞かれたくない質問をされ、メルディは状況を忘れて狼狽える。
むしろジェイクの優秀さを考えれば、気がつかない方がおかしいだろう。
先ほどとは違った意味での緊張で全身がこわばる。
視線を左右に泳がせてみるが、ジェイクはそれを追うように身体を左右に揺らしてメルディの視線を独占する。
「最初から不思議だったんだ。あの隠し通路、知ってて使ってたよね」
「あうっ」
「それに僕が探し物をしてるのにも気がついてたし、君、何者?」
探るような瞳がメルディを覗き込んでくる。
少し小首を傾げるその表情はとても楽しそうだ。
「てっきり、僕を調べてるスパイか誘惑してこようとしてるかのどっちかと思ったんだけど、やっぱり違うみたいだし」
つらつらと歌うように語るジェイクをメルディは呆然と見上げることしかできない。
「僕、隠しごとされるのが嫌いなんだよね」
うっそりと、まるで悪いことを思いついた子どものようなあどけない顔でジェイクが微笑む。
その笑顔はゲーム中のスチルで見たどんな者よりも綺麗で、怖く感じた。
「君が知っていることを教えてメルディ」
「う、うう……」
勝てない。本能で理解したメルディは、降参するように両手を挙げながら自分の記憶にまつわる話を打ち明けたのだった。
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