老記者

 試合から一日空いた週明けの月曜日。

 エディは馴染みのパブにいた。

 まだ昼下がりである。目の前に置かれた酒はほとんど進んでいない。

 クビを賭けた土曜日の試合は判定勝ちという結果だった。前回とは逆の結果で、エディのクビは回避できたわけだが――。

 なんだかすっきりしない。

 これがノックアウトで勝利したというのであれば気分も違うのだろうが、判定勝ちというのはなんとも微妙な勝ち方だ。勝つには勝ったが、かろうじて勝つことができた――といった感じでどうも気が乗らない。

 酒を飲めば気がまぎれるかと思ったが、その酒もあまり飲む気になれない。

 嫌な気分である。


 エディさん――。

 という聞き覚えのある声がしたのはそんな時だ。

 エディはチラリと声の方向を見た。

 この前の男だ……たしかキョウジって言ったか。

 普段ならさして気にもしないのだが、今日はあまり話をする気分じゃない。

 そんなエディの気持ちを知る由もない黒髪の男は、客の間をすり抜け、エディの前まで来ると軽く会釈をし、この前の試合観ましたよと言って、そのあとすぐにやりましたねと付け加えた。

「観に来たんだ」

 そっけなく訊いたエディに、約束しましたからと笑顔を見せる。

 世の中には空気の読めない奴がいるものだが、この男もそのひとりのようだ。

「あまりうれしそうじゃないですね」

 判定勝ちで首がつながったからだとも言えず、エディは自分の中で納得のいくボクシングじゃなかったと濁した。

「せっかく勝ったのに」

 たしかに勝つには勝ったが――。

「俺はもっとはっきりした決着をつけたかったんだよ」

「そりゃあ無理だ」

 突然、よく通る低い声が割って入ってきた。

「なんだァ?」

 目線の先に中折れ帽を被った小柄な老人が立っていた。体の正面に突き立てるように杖を突き、その上に両手を乗せている。

 老人は何か言おうとしたキョウジを、右手を挙げて止める。

「キョウジ、気休めを言っちゃあいかん。本当のことを言わんとこいつのためにはならんぞ」

 鼻にかけた老眼鏡の奥の眼でエディのことを値踏みするように眺めている。エディも負けずに老人を睨み返す。

「言ってくれるじゃないか、爺さん。俺に何か文句でもあんのかい?」

「文句じゃない。アドバイスだ」

「アドバイス? 悪いけどあんたみたいな爺さんに教えてもらうようなことはないと思うけど」

 老人はふんと鼻を鳴らすと、弱い者は素直に聞いた方がいいぞと言った。

 睨みつけていたエディの目に険しさが増す。

「あのさぁ、爺さん。あんた俺にケンカ売りに来たのか。俺はいまちょっと機嫌が悪いんだ。年寄りだからって手加減はしねえぞ」

「ほう、逃げてばかりのお前に何ができるというんだ」

 老人はひるむどころかあおってくる。

「ちょっと待ってください!」

 険悪な雰囲気を察したのだろう。キョウジが慌てて止めに入った。強気な姿勢を崩さない老人をなだめるように話をする。

「クラフトマンさんもあんまり挑発しないでください。ケンカしに来たんじゃないんですから」

「わしは本当のことを言っているだけだ」

「クラフトマン?」

 クラフトマン……どこかで聞いた名前だ。

 どこだった――?

 エディが頭の中の引き出しをひっくり返している横で老人が口を挟んだ。

「おおかた新聞か雑誌で見たんだろ。ま、お前さんの記事は書いたことがないがな」

「あんた、ジャッキー・クラフトマンか!?」

 エディは驚きの声を上げた。

「そうだ」

 老人は大仰に顎を引く。

 この国のボクサーでジャッキー・クラフトマンを知らないボクサーがいたらそいつはモグリだ。ボクシングの記事を四十年以上書いてきた大ベテランの記者である。その見識は国内随一と言われ、ボクシング協会も一目置いている重鎮だ。

 エディも会ったことはなかったが、クラフトマンの名前は知っている。

 しかし――どうしてそんなベテラン記者がこんなところにいるんだ?

 エディはいぶかしみながら訊いてみる。

「あんた、本当にあの、ジャッキー・クラフトマンなのか?」

「お前の知っているジャッキー・クラフトマンがどのジャッキー・クラフトマンなのかは知らないが、私の名がジャッキー・クラフトマンなのは間違いない」

「……」

 実物を知らないエディには判断のしようがない。なんと言おうか返答に迷っていると老人の方が先に口を開いた。

「今度は私の方から聞かせてもらうぞ」

「え、ああ」

「エディ、お前、勝つ気があるのか」

「はあ? あるに決まってるだろ」

「じゃあ、八百長でもしてるのか」

「んなことするか!」

「ならどうして判定まで持ち込んだ。この前の相手、ありゃ二ラウンドもあれば勝てた相手だろ」

「それは……」

 エディは口ごもる。たしかに対戦相手はエディより一回り以上も年上の、明らかにピークを過ぎたボクサーだった。クラフトマンの指摘は正しい。

「……ちょいとツキがなかったんだよ」

「なかったのはツキじゃない。絶対に勝つという気持ちだ。何としてでも勝ってやるという覚悟だ」

「覚悟なら持ってる!」

「はん、だったらお前の覚悟はまったく足らん。あんな小手先だけの軽いパンチで倒れるボクサーがいるものか。あんなパンチじゃこのわしでさえ倒せんわ」

「おいちょっと待てよ」

 さすがに今のセリフは聞き捨てならない。

「いくらベテランの記者だって言っていいことと悪いことがあるぞ」

「お前さん、そんなに殴られるのが怖いか」

「怖くなんかねえよ」

「ならばなぜ殴り合わん」

「殴り合うだけが能じゃねえ。俺はアウトボクシングで戦ってるんだよ」

「アウトボクシング?」

 クラフトマンは呆れたような目を向けると、フンと鼻を鳴らした。

「お前のはただ逃げてるだけじゃないか」

「逃げてるんじゃねえよ!」

「いいかエディ。ボクシングは殴り合いだ。逃げてばかりじゃ勝てるはずがなかろう」

 エディは大きくため息をついた。

 ――やれやれ。どいつもこいつも言うことは同じだな。

 この爺さんも有名な記者だが、言ってることは時代遅れの古臭いボクシング論だ。いまの流れがわかっていない。

「クラフトマンさん――」

 それまで黙って話を聞いていたキョウジが口を開いた。

「アウトボクシングで戦おうとすることは間違ってるんですか」

「方向性は間違っておらん。むしろこれからのボクシングはアウトボクシングによって進化していくだろう。アウトボクシングの基本はヒット・アンド・ウェイだ。相手を攻撃した後すぐに攻撃範囲外へと逃げる。これの繰り返しだ。ただ――」

 老記者はエディにちらりと視線を投げる。

「逃げるのはあくまで次の攻撃のための準備だ。にも関わらず、いまの連中ときたらそのことを忘れ、攻撃をしたら逃げるものと思い込んで戦っている奴らばかりだ。はなっから逃げることを念頭にしているのだからこりゃ攻撃だってろくな攻撃にならん。勝てんわな」

 なるほどと頷いたキョウジに向かってクラフトマンは

「外から見たら逃げているのと変わらない」

 と結論づけた。

「……」

 何だか面白くない。

 不満顔のエディを置き去りにして老記者は続ける。

「まあしかし、時代が変わればボクシングも変わる。昔はどちらかが倒れるまで決着がつかなかったが、いまはラウンドの制限があるからな。決まったラウンドの中の勝負となれば駆け引きも増えるし、ノックアウトではなく判定勝ちを狙う者も出る。戦い方を見直す必要はあるだろうな」

「じゃあ、これからはアウトボクシングをするボクサーも増えそうですね」

 キョウジの言葉に、さてなと答えたクラフトマンは、今度ははっきりとエディを見ながら言う。

「いまのようなアウトボクシングをしているようじゃあ、まだしばらくは卑怯者と言われるだろうな」

「じゃあどうすればいいんだよ!」

「簡単だ。アウトボクシングで戦う強いボクサーが出てくればいいのさ。普段逃げ回っていても、ここぞというときには一気呵成に攻め立て、有無を言わさず叩きのめす。そんなボクサーが出てくれば卑怯者のボクシングとは言われなくなるだろうよ」

 それはたしかにそうかもしれないが――。

「だけど……いまは審判でさえわかってねえような状態なんだぞ」

「それはお前が弱いからだ」

 いちいちムカつく爺さんだ。

 人をイラ立たせることに長けた老記者は憐れみをこめた眼でエディを見ると、お前のオヤジは勇敢だったがなァとこぼした。

「オヤジが勇敢? 冗談だろ?」

 確かにエディの父親はボクサーだった。

 バーディ・コリンズ――。

 十回戦を戦うボクサーだったが、たいして強くもない地味なボクサーだった。それどころか一方的に打たれまくっていた記憶しかない。

「お前はバーディのボクシングを知らんのだ」

「どういうことだよ」

 クラフトマンは気にしたって仕方あるまい、どのみちお前じゃ今のバーディにすら勝てんだろうからなとはぐらかした。

「冗談きついぜ。オヤジは十二年も前に引退してるんだ。現役の俺が負けるはずがないだろ」

「やる前から勝ったつもりか。おめでたい男だな、お前は」

「何だと?」

「お前じゃバーディに勝てん」

 老記者はそう断言した。

「言ってくれるじゃねえか」

「何度でも言うが、お前はバーディには勝てん。たとえ今のバーディと対戦しても勝つことはできんだろうよ」

「バカ言うな。とっくの昔に引退した年寄りなんかに負けるはずないだろ」

「何年経っていようが関係ない。お前は勝てん」

「何なんだよ、あんたに俺の何がわかるんだよ!」

 クラフトマンはやれやれと軽く頭を振ると、これがあのバーディ・コリンズの息子かと思うと情けなくて涙も出んわと呆れたように言って大きなため息をついた。

「おいあんた、いい加減――」

「いいか小僧」

 老記者の低い声がエディの言葉を遮った。

「その頭は飾りじゃないのだろ。私の言ったことをよく考えろ」

 射抜くような厳しい眼でエディを睨みつけたクラフトマンは、それから黒髪の男に帰るよと声をかけた。

「はい、また今度」

 クラフトマンはキョウジの言葉に頷くと、エディにはじゃあな小僧と言い残して帰って行った。

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