英国国教会
イギリス国教会が同じキリスト教であるローマカトリックと袂を分けたのはいまから約三百五十年前、十六世紀も半ばのことである。
教義についての考え方の違い――などという難しい話ではなく、時の国王ヘンリー八世の離婚問題がきっかけであったらしい。王妃と別れ、侍女と結婚するという理由で離婚を禁止していたローマカトリックと対立し、分離独立の道を選んだのだそうだ。
きっかけはともかく、キョウジにとっては迷惑な話である。
いや、キョウジは何も国王を否定したいわけではない。愛に生きることは、たとえそれが国王であろうと個人の自由であるし、口出しする気もない。そもそも三百五十年も前の話であるから口の出しようもない。
それに、教派が分かれたからといって人々の信じる対象も変わるかと言われればそうでもない。こんなことを言うと枢機卿に説教を食らいそうだが、人々は主である神を信じているのであり、教派の長を崇拝しているわけではないのだ。
キョウジはヴァチカンから派遣された《
しかし、こちらが偏見を持っていなくても向こうはそうは思わないこともある。
国教会はそういう相手なのである。
ジョアンは牧師の袖を引いた。
「ちょっと師匠、なんでこんな奴と話してるんですか。こいつ敵じゃないですか」
「何が敵だこのバカ者が! 私の友人を侮辱するとお前でも許さんぞ」
牧師は少年を𠮟りつけた。ラムジのようなタイプは国教会では珍しい。
「友達なんすか」
ラムジはなおも信用していないといった顔をしているジョアンを睨み付けた。
「破門するぞ」
これは効いた。ジョアンが口を尖らせ抗議する。
「それはずるいよ師匠。そりゃないよ!」
「私の友人に謝るんだ」
牧師の視線は厳しいままだ。
僕は気にしてないですよ、と声をかけてみたが、牧師は毅然とした声で言った。
「いや、こういうことはしっかりしておかなくてはならんからね」
キョウジのためだけではなく、ジョアンのためでもあるのだろう。
牧師は少年を促した。
「さあ、ジョアン」
「……ごめんなさい」
少年は不承不詳といった様子で首を垂れた。
「うん。改めてよろしく」
キョウジの言葉にジョアンはむくれながらもおう、とつぶやいた。
「おうじゃない! はいだろ」
師匠の叱責に少年の背筋が伸びる。
「はい! よろしくお願いします」
「よろしく」
挨拶が済んだのを見届けた牧師は、よし、これで我々はみな友人だと頷いた。
「キョウジくん、どうだ、ちょっとお茶でも飲まんか」
「いいですねぇ」
牧師はよしと頷くと、弟子に視線を移し、みんなには内緒だぞと小声で言った。
弟子ははい! と、今度はいままでで一番元気のいい返事をした。
*
テーブルの上にティーポットとカップを置くと店主はごゆっくりと言ってカウンターに戻っていった。
ラムジ牧師の案内してくれた喫茶店はいくつか路地を曲がった奥にある落ち着いた雰囲気の店だった。牧師は店主と馴染みであるらしく、二言三言話をし、仕切りのある奥のテーブルを案内してくれた。
テーブルの上には予約席というプレートが置いてあった。
他に客が二組入っていたが、この場所なら話を聞かれる心配もなさそうだ。
「いいお店ですね」
「店主が幼馴染なんだ。君もくつろいでくれ」
こんないいところがあるならいつも連れてきてほしいなァと言ったジョアンは、師匠の拳骨を食らい、頭を抱えている。
キョウジはそれとなくあたりに視線を走らせ、人の目がないことを確認すると、懐から懐中時計を取り出した。
テーブルの上に置き、声をかける。
「セラ、ラムジ牧師だよ」
怪訝そうな目を向けていたジョアンの目が驚きに見開かれた。
蓋の空いた懐中時計の上にすうっと光が集まり、集まった光は人の形を作り始める。
淡い輝きが収まるのと入れ替わるように、金色の髪をわずかに揺らす美しい天使が現れた。
「こんにちは、ラムジ様」
挨拶をされた牧師は相好を崩した。
「おお、セラ殿。久しぶりだねぇ」
「はい。ずいぶんとご無沙汰してしまい申し訳ございません」
「あなたが謝ることはない。会えてうれしいですぞ」
セラはありがとうございます、と丁寧にお辞儀をした。
ラムジ牧師はともかく、ジョアンには目の前で起きていることが理解できない。師匠の腕にしがみつき唇を震わせる。
「あ、ちょ、し、師匠、これは――」
「落ち着けジョアン。こちらはセラ殿だ」
セラは驚いたままの表情で固まっている少年にも丁寧に挨拶をする。
「はじめまして、ジョアン様。セラと申します。以後お見知りおきのほどをよろしくお願いいたします」
「え、えっと、あの、こ、こちらこそよろしくお願いします――っていうかどうなってるんすか。オレは幻でも見てるんですか師匠」
「セラ殿は天使様だ」
そんな大げさな、ただの天使ですよ、とセラは恐縮しているが、人間にとって天使は特別な存在だ。絵画や想像の中でしかしか存在しない天使が目の前に現れたとしたら誰だって驚くだろう。
「て、天使……すげぇ……天使ってこんなにきれいなのか」
「まあ、お世辞でもうれしいです」
お世辞なんかじゃないです、とむきになるジョアンに、セラはありがとうございますと微笑んだ。
「セラ」
キョウジの声にセラは心得ておりますと言うようにはい、と頷くと、国教会の二人に向き直った。
ラムジ様、ジョアン様――と姿勢の良い姿で話しかける。
「あまり目につくこともできませんので、申し訳ないのですがこれで失礼させていただきます」
牧師は、またお会いしましょうと微笑んだが、少年は慌てた。
「ちょ、あの、どこか行っちゃうんですか」
「いえ……どこにも行きませんが、人目について他の方々を驚かせるわけにはいきませんので」
「あの、もっと話がしたいです」
「こらジョアン。セラ殿をあまり困らせるんじゃない」
「ええぇ~」
ジョアンはおおいに不服な顔をしたが、師匠の厳格な目に屈し、すいませんとつぶやくように言った。
「こちらこそごめんなさい」
少年に謝罪した天使は、それではラムジ様、ジョアン様、失礼いたしますと言って会釈をすると、光を残してふわりと消えた。
セラの消えた懐中時計を食い入るように見ていたジョアンはキョウジに訊いた。
「ああ……あの、キョウジ――さん、ヴァチカンは――あ、いや、ヴァチカンの方はみんないまみたいな天使様と一緒にいるんですか?」
「他の人のことはあまりよく知らないけど、基本的には一緒に仕事していると思うよ」
「師匠! うちにはいないんですか、天使様?」
「いない。わたしが代わりだ」
ジョアンはがっくりと肩を落とした。
「……オレ、ヴァチカンがよかった」
「なんだその言い草は。だいたいお前みたいな半人前じゃあヴァチカンにいたってお役には立てんぞ」
「そんなことないっすよ。オレだってやる時はやるんだから」
ジョアンは薄っぺらい胸を張る。
「そんなところは見たことがないぞ」
「今はまだやる時じゃないんです」
牧師はやれやれと肩をすくめると、このとおり口だけは達者でねとぼやいた。
キョウジも苦笑するしかない。
もっとも口が達者なのは悪いことではない。ゆくゆくは多くの信者を励まし、救うことになるかもしれない。
「おいおいキョウジくん。冗談でもそんなことは言わんでくれ」
牧師の隣で、ほらぁ師匠――とジョアンが声を上げる。
「ヴァチカンのほうがわかってるじゃないすか」
調子のいいことを言う弟子に、あきれた表情を浮かべたラムジだが、すぐににやりと笑うと弟子に向けて言った。
「そうだな。お前は将来いい牧師になるかもしれんな。そのためには今まで以上にビシビシ鍛えなけりゃならんな」
「え、ちょっと待った、師匠! そりゃないですよ」
「ヴァチカンのお墨付きをもらったんだ。恥ずかしくないように私がしっかり育ててやるぞ」
「あの、そこはあんまり急がずゆっくり育てましょう」
「この調子だよキョウジくん。まだまだ先は長そうだ」
悲観的な内容とは裏腹に、牧師は楽しそうに笑った。
手のかかる弟子ほどかわいいというが、ラムジにとってジョアンはそういう弟子なのかもしれない。
いくつかの世間話を聞き、ふと話が途切れたのを見計らってキョウジは話題を変えた。
「あの、ラムジ牧師はブックメーカーについてご存じですか」
「賭け事かい? 嫌いじゃないが私はこれでも聖職者だからねえ。あまり詳しいことはわからないかもしれんよ」
と牧師はいたずらっぽい表情を浮かべた。
イギリス人の賭け事好きは有名だ。例えば王室に生まれた子供の名前から明日の天気、次に店に入ってくるのが男性か女性かなど、世の中の物事すべてを賭けの対象にしてしまう。
「ああ、いえ、そんな大げさなことじゃないんです。賭けになるかどうか気になったもんで」
「ふむ、どんなことだね」
キョウジは少し考えて、例えば――と切り出した。
「例えば――ボクシングで確実に負けるとわかっているボクサーがいたとします」
「そんな奴いるのかい?」
「こらジョアン、話の腰を折るんじゃない。キョウジくんは例え話と言ってるだろ」
牧師は弟子を窘めるとキョウジに先を促す。
「そんなボクサーが試合に出た場合、賭けは成立するでしょうか」
キョウジの問いかけに牧師は腕を組みながら、そうだなあとつぶやいた。
「物事に絶対ということはないから、賭けられないことはないんだろうなぁ。ただ、そのボクサーは確実に負けるとわかっているんだろ? そんなボクサーに賭けるもの好きはほとんどいないだろうから、賭けとしてはつまらん賭けになるだろうなぁ」
牧師の隣でジョアンが身を乗り出す。
「ねえ、キョウジ。そのボクサーはどうして負けるってわかるの?」
「うーん……そのボクサーはね、戦おうとしないんだ。自分からはパンチを出さないんだ」
「何それ?」
「ボクシングは相手を倒さないきゃ勝てないだろ。そのボクサーは相手を殴らないから絶対に勝てないんだ」
「ヘンなボクサー。最初から戦う気ないの? 八百長じゃん」
「いや、それは八百長とはちょっと違うな」
師匠の言葉に弟子は首を傾げる。
「え? 違うの?」
「ああ。だいたいそんな八百長は意味がない」
「なんで?」
「そうだなあ。例えば私と司祭様がボクシングをしたとする。ジョアン、お前ならどっちに賭ける」
「司祭様はもう年じゃん。師匠が勝つに決まってるよ」
「そうなるだろうなあ。みんな私に賭けるだろう」
師弟は不遜な例え話を続ける。
「ところがだ――」
牧師は急に声を潜めた。
「司祭様がこっそり私に負けてくれと頼んできた。だから私は負けてやることにした」
「えっ! ちょっと待って。ダメじゃんそれ!」
「お前の賭けた金は全部無駄になってしまうなぁ」
「そりゃないよ! ひっどいなあ!」
ジョアンの悲鳴に牧師が笑う。
「そう、これが八百長だ。じゃあお前の予想通り私が司祭様に勝ったらどうなる」
「オレが儲かります」
ジョアンは真顔で答えた。
「ははははは。そうだな、まあ、みんな私に賭けてるだろうから儲けはちょっぴりだろうがな。さてと、この場合、私から司祭様に負けてほしいと頼む必要はない。お前が言った通り私の方が司祭様より若いし、ボクシングをしても間違いなく強いだろうからな」
「うん」
「つまり――予想通りのことが起きるのであればわざわざ八百長する必要はないということですね」
キョウジの言葉に、牧師はその通りだと頷いた。
ラムジ牧師の回答に照らし合わせると、ボクシングで手を出さずに負けることは八百長ではないが、賭けとしては容易に結果が予想できてしまう分面白みがない――と言うことになる。
「こんなところでよかったかな」
「はい。すっきりしました。ありがとうございます」
感謝の意を述べるキョウジの向かいの席で、ジョアンが不満を吐き出した。
「オレ全然すっきりしないよ! 何の話だったの? もっとわかりやすく言ってよ!」
それには取り合わず、牧師はさてと、と言いながら背筋を伸ばした。
「まだいろいろ話をしたいところだが、そろそろ教会に戻らんとなァ」
「ええーっ。まだいいじゃないすか」
「ダダをこねるな。ここで帰っとかないとお茶を飲んでいたのがバレて、次から外に出してもらえなくなるぞ」
それはまずいっす、とジョアンが悲鳴を上げる。
「というわけで、キョウジくん。すまんが我々はいかなきゃならんが、君はのんびりしててくれ」
「ありがとうございます」
「何か困ったら訪ねてくるといい。できる限り協力するよ」
キョウジは、その時はお願いしますと頭を下げ、それじゃ、と差し出されたラムジ牧師の右手を握り返した。
帰るのは嫌だとむくれていたジョアンも最後には、またなキョウジと言ってラムジ牧師に拳骨を食らいながら帰って行った。
「いい方たちですね」
残されたキョウジにセラが囁いた。
「そうだね。国教会もみんなああいう人だと助かるんだけどね」
いま現在、ヴァチカンと国教会が対立しているわけではない。それぞれの立場を重んじ、協調という姿勢を取っている。
もちろん問題がないかと言われればそういうわけではない。抱えている想いは様々であり、快く思っていない者がいるのも事実だ。過去にはずいぶんと険悪だった時期もあるらしい。
そのため表立って公表してはいないが、ヴァチカンと国教会はトラブルを未然に防ぐためにいくつかの協定を結んでいる。
《
「ところでセラ」
「なんでしょう」
キョウジは席に着くと、仕舞っていた懐中時計を取り出した。
現れたセラに訊いてみる。
「ボクシングの話なんだけど」
キョウジはラムジ牧師の登場で中断していた話を再開する。
「エディはどうしてバーディ・コリンズを知らないと言ったんだろう」
キョウジはポケットから写真を取り出す。
いかつい顔をした初老の男が写っている。背景の一部に写りこんでいる名前は――バーディ・コリンズ。
元ボクサーで――エディの父親だ。
厳しそうな眼差しはエディのそれとは違い、何か凄みのようなものが感じられる。踏んできた場数の差というものだろうか。
この二人の間に何があるのだろう。
エディの口ぶりからすると、関係性は良好であるとは言いがたい。セラも同様の答えだった。
親子としての確執なのか、ボクサーとしての対立なのか。
もっと詳しく調べてみる必要があるのだが――。
「さて、誰に聞いたものかな」
キョウジはボクシングに詳しそうな知り合いを思い浮かべてみたが、残念ながら該当するような人物は浮かんでこない。
人差し指を顎に当てながら考えていたセラが言う。
「メイヤーさんに聞いてみてはいかがでしょうか」
「そうだなぁ」
あの大家さんなら顔が広いから誰か知っているかもしれない。
「わたくしお願いしてきます」
「うん、悪いけど頼むよ」
「はい」
それではとお辞儀をしたセラの姿がすっと掻き消え、代わりに一本の光の筋が窓から南の空に向かって飛んで行った。
セラの残した光跡を見送ったキョウジはバーディの写真を一瞥する。
毎度のこととはいえ、今回も一筋縄ではいかなさそうだ――。
キョウジは写真をテーブルに置くと、ティーポットに手を伸ばしカップに紅茶を注いだ。
冷めた紅茶は渋かった。
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