宿泊必須の住宅内見

みすたぁ・ゆー

宿泊必須の住宅内見

 

「――お客様の提示された条件に最も合いそうなお部屋はこちらですね」


 大手不動産屋で部屋探しをしていた僕は、20代くらいの男性店員から『とある賃貸アパート』の一室を紹介された。図や簡単な説明の書かれた書面を提示され、そこに目を通す。


 ちなみに僕の望んだ条件は家賃が月10万円以下。それと都心まで直通する列車のある鉄道路線沿線で、駅から徒歩10分圏内。また、勤務する会社までの通勤時間は1時間以内がベストだけど、2時間までなら許容範囲としている。


 階数は問わず、バス・トイレ・キッチンのほかは六畳くらいの広さの部屋がひとつかふたつあればいい。同居する家族がいるわけでもなく、気楽な独身暮らしだからそれで充分だ。


 そして紹介された部屋は、見事にその条件を全て満たしている部屋だった。


 特に間取りは申し分がない。八畳間がひとつにユニットバスと簡易キッチン、ダイニング、備え付けの大きな収納まである。まるで僕のために用意されていたかのようで、不思議な縁を感じる。


 こんなに良い物件、この機を逃したら二度と見付からないかもしれない。ゆえに僕は瞳を輝かせながらその書類をじっくり眺めていたんだけど、なぜかその部屋を紹介してくれた店員さんの表情は冴えなかった。


 やがてスーツ姿の彼はエンジ色のネクタイを締め直すと、眉を曇らせながら遠慮がちに口を開く。


「ただし、こちらのお部屋は契約に当たって少し変わった条件がありまして……。今すぐにこの場でご成約というわけにはいかないのです」


「そうなんですか? で、その条件とは何ですか?」


「実際に一泊以上し、お部屋の環境や住み心地を確認していただきます。宿泊を伴う内見の実施ということですね。現時点ですでに契約の意思をお持ちだとしても、契約書を交わすのはそのあとということになります」


「へ、へぇ……」


「……まぁ、宿泊後に気が変わるということも充分にあり得ますし」


 店員さんは視線を横に逸らし、苦笑しながら頬を人差し指で書いていた。


 ただ、わざわざそんな条件が付けられているということは、それなりに住環境などに懸念すべき『何か』があるのだろう。もちろん、事故物件であればそれを明示することになっているから、それとは違った意味での『ワケあり』なんだと思う。


 ひとまず僕は店員さんに疑問をストレートにぶつけてみる。


「……あまり聞いたことのない話ですけど、なぜそのような措置を?」


「こちらのアパートは築年数がやや古いということもあり、壁が多少は薄い構造となっております。もちろん、断熱はしっかりしているので冷暖房効率という点では問題がないのですが……その……どうしても……音が……」


 店員さんは困ったような顔をしながら、額に滲んだ汗をハンカチで拭っていた。



 ――なるほど、ちょっとだけ状況が分かったような気がする。



 確かに共同住宅では、ほかの居住者から漏れてくる音は切っても切り離せない住環境上の要素のひとつだ。世間ではその音が原因でトラブルが発生し、中には殺人事件にまで発展した事例もあると聞く。


 そしてその人たちも不動産屋さんにしてみれば『お客様』なわけで、あまり明確に批判や意見を述べるのははばかられる。だからこのことを言いにくそうにしていたのだろう。



 人と人の間に挟まれた中間管理職的な難しい立場か……。


 うん、僕も勤務先にいる仲の良い直属の上司からそうした苦労話を何度も聞いているから、なんとなくだけど店員さんの気持ちも分かる。


「そういうことでしたか。アパートに住んでいるほかの方々からの騒音が、気になる環境にあるということなんですね」


「はい……。に過敏な方にはオススメできませんので、実際に宿泊を体験していただくという措置を取らせていただいております。かつては住み始めてからそれに気付いたということで、入居者の入れ替わりが頻発しまして」


「世の中には敏感な方もいらっしゃいますもんね。僕はあまり気にしないタイプですが。――いずれにしても状況は理解しました。それでは内見の予約をお願いできますか?」


「承知しました。では、1か月以内でご都合の良い日をお知らせください」


 こうして僕は店員さんと宿泊内見の日程調整を進めていった。


 当然、平日は会社があるから除外。もちろん、有給休暇を使うという手もあるけど、今は忙しい時期なので同僚たちのこともあって休みづらい。


 それにそのことが原因で社内に居づらい雰囲気となり、退職という名の悠久休暇となってしまうのも困る。そうなると素直に土曜日か日曜日、あるいは祝日にしておくのが良いだろう。



 ……まぁ、土曜日にしておこうかな。


 日曜日だと翌日にその部屋から出勤ということになって、何か失敗をしそうだから。遅刻とか忘れ物とか。慣れていない環境が原因で、想定外のミスが起きるのは充分にあり得る。


 結果、僕は来週の土曜日に宿泊内見をすることに決めたのだった。


「宿泊の際には着替えや食事、身の回りの道具などをご用意ください。近所にスーパーやコンビニがありますので、当日にそちらで買い揃えるのも良いでしょう」


「そうですね。周囲の商店も併せて確認しておくと、実際に住むことになった時に知識として活かせるかもしれませんしね。……まぁ、どうするかは当日までに決めておきます」


「電気や水道、都市ガス、エアコン、冷蔵庫、ユニットバス、布団などは使えるようにしてあります。また、ご不明なことがあれば本社のコールセンターにお問い合わせいただければ、24時間対応いたします」


「分かりました。そういうサポート体制は大手の不動産会社の強みですね」


「では、ご予約の日にまたここへお越しください。弊社の社員が車でお送りします。そして部屋に到着後、鍵をお渡しする形となります。翌日の朝、お迎えに参りますので鍵はその際にご返却ください」


 こうして僕の新居探しは意外な展開を迎えることとなった。まさか宿泊体験が必須の内見をすることになるなんて、思ってもみなかった。


 でもなんだか民泊をするようで、ちょっぴり楽しみだ。



 ……それにしても、ほかの住民による騒音ってどの程度のものなんだろう?


 未だに空室のままだし、この宿泊内見が実施されるまでは借り手が頻繁に入れ替わったらしいから、それなりの高レベルなんだろうなとは思う。


 だからこそ、不動産屋さんによるこの措置はありがたい。僕はあまり音を気にしないタイプとはいえ、入居前にそのことを確認できるんだから……。





 忙しい毎日に翻弄されていると時間は光の如く過ぎていくような気がして、あっという間に宿泊内見をする日となった。


 この日は約束をした午前9時に不動産屋さんの事務所を訪れ、店員さんの運転する社用車に乗せてもらって目的のアパートの前にやってきている。


 建物は二階建てで、ひとつの階に三部屋ずつ。つまり全体として六部屋あることになる。そのうち、空室なのはこれから僕たちが向かう部屋だけらしい。


 位置は一階の真ん中。ちなみに二階の部屋の場合は外階段で上ることになる。


 外壁を見る限り、建物自体はしっかりとした鉄筋コンクリート造り。サッシや窓なども頑丈そうに出来ていて、ある程度の大きな地震が来ても耐えられそうだ。


 また、敷地内には屋外駐車場もあり、入居者は事前に不動産屋さんに申し出ることで利用が出来るとのこと。僕は自家用車を持っていないし、買い物など近所への外出には自転車を使う予定だから、そこを借りることにはならないと思うけど。


「やや古いアパートと聞いていましたが、外観は思っていた以上に綺麗ですね。周囲の地面や敷地の隅にあるゴミ集積所もしっかり掃除してありますし」


「内部もそれなりに綺麗だと思いますよ。キッチリとクリーニングやリフォームを実施してますので。正直な話、そういうところを雑にやっている不動産屋も結構あるんですよ。でも弊社はそういうことがないのでご安心ください」


「その分、退去する時に敷金からその代金を差し引かれるわけでしょう? まぁ、雑に済ませて敷金をぼったくるよりは誠実かもしれませんが」


「これは弊社の負担で、責任と誇りを持って行わせていただいています。もちろん、過度な汚れや破損は別ですが、通常通りに使用していて発生したものに関しては代金を請求することはありません。これは建て前ではなく本音です」


「おぉっ、それは素晴らしいですね! あなた方の会社は物件のメリットだけでなくデメリットの説明もきちんとありますし、好感が持てますよ」


「ありがとうございますっ! では、こちらへどうぞ!」


 店員さんは嬉しそうに微笑みながら、建物の方を手で指し示した。僕は促されるまま、彼の後ろに付いていく。そしてついに内見をする部屋の中へと足を踏み入れる。


 その室内は新築のような独特のニオイがして、床も壁も確かに傷ひとつない状態が保たれていた。壁紙などには経年によるくたびれた様子があるものの、汚れているというわけではない。当然、部屋や収納の隅にホコリが溜まっているということもない。


 また、水道も水漏れなどがなく、ユニットバスも表面がピカピカの状態。水回りの不安は全く感じられない状態となっている。


 そのほか、ドアの立て付けやコンセントの数などにも問題はなく、どの面を見ても管理が行き届いている印象だった。これは想像以上に良い部屋だ。


 さらに奥へと案内された僕は店員さんから補足説明を受ける。


「窓は南向きで、洗濯物が良く乾きます。また、各部屋に高速の光回線が繋がっていますので、インターネットもストレスなくご利用いただけます」


「至れり尽くせりですね。実はスマホで地図を確認したんですけど、スーパーや公園も近くにあって快適に生活できそうです」


「はい、弊社としてもオススメのお部屋なんですよ。騒音の問題さえなければ……」


「でもそれだけたくさんの人々の生活が存在して、賑やかだということじゃないですか。閑散としていて寂しいよりは良いですよ。誰かの気配が感じられれば、空き巣などの防犯にもなりますし」


「好意的に捉えていただき、恐縮です。では、部屋の鍵をお渡ししますね。なお、周囲の入居者の方々には宿泊内見があることを伝えてありますので、怪しんで通報されることもないと思われます」


「そこまでお気遣いいただいて、ありがとうございます。助かります」


 僕は店員さんに頭を下げると、部屋の鍵を受け取った。


 その後、彼は注意事項や緊急連絡先などが書かれた書類を置いて部屋から出て行った。こうして室内にいるのは僕だけとなり、沈黙と涼しげな空気が周囲を包み込む。



 ……今はこんなにも静かなのに、本当に騒音が激しい状態になるのだろうか?



 全く想像が出来ないけど『嵐の前の静けさ』とも言うし、何かのタイミングでそういう瞬間がやってくるということなのかも。





 ただ、気を張って身構えていたものの、午後九時を過ぎても周囲には何の変化も起きなかった。今やスマホで見ている動画から漏れる音だけが、殺風景でガランとした室内に寂しく響き渡っている。


 ちなみに僕が室内のキッチンで夕食を作っている時の音や風呂から上がって髪を乾かした際のドライヤーの音の方が、ほかの入居者の方々に対してお騒がせしてしまったのではないかと感じるほどだ。


 結局、そのまま時間は過ぎて日付が変わり、僕は布団で休むことにした。


 普段はベッドで寝ているから、フローリングの床に敷かれた布団に寝転がるのは実家を出て以来になる。こういうのも気分が変わって、たまにはいいかもしれない。


 もちろん、入居が決まったら現在も使っているベッドを運び込んで、そちらに寝るつもりだけど。布団を畳んでから出勤するのは面倒くさいし、朝の貴重な時間をその作業に使いたくない。


「ふぅ……。このまま何事もなく朝になりそうだな。この静かな状況はたまたまかもしれないけど、それならそれで問題ないからいいか……」


 僕は仰向けになったままボーッと天井を見つめつつ、全身から力を抜いた。


 すると程なくウトウトしてきて、半ばまどろみの中へと入るようになる。そのまま睡魔に襲われ、意識が途切れ途切れになっていく。


 ただ、そんな時のことだった。不意にどこかから赤ちゃんの激しい泣き声が聞こえてくるようになって、僕は現実世界へと強制的に引き戻されることとなる。その声はずっと続いていて、収まりそうな気配は感じられない。


「赤ちゃんの夜泣きか……。なるほど、これは気になる人もいるだろうな。いつ泣き出すかは赤ちゃんにしか分からないし、周りの入居者としてはストレスを感じやすいかも。ただ、赤ちゃんは泣くのが仕事みたいなところがあるから、仕方ないことだよな……」


 言葉で意思が伝えられない以上、おむつの汚れや空腹、体調不良、気分の異変などを保護者に示すには泣くしかない。むしろ目立った反応をしない方が危険という状況の場合だってある。



 僕もいつか誰かと結婚して子どもが出来たら、悪戦苦闘するんだろうか……。



 そんなことを思っていると、いつしか赤ちゃんの泣き声は収まっていた。泣いていたのは断続的に数分から数十分といったところ。


 ようやくご機嫌を取り戻したのか、泣き疲れて眠ったのか。いずれにしても部屋には静けさが戻ってくる。




 ――だが、そう思っていた矢先、今度は上の階からバタバタと激しい足音が聞こえてくるようになる。まるで運動会の徒競走でもしているかのような騒がしさ。


 まさか上の階の空間がねじれて、陸上競技場と繋がってしまったのだろうか? 夜行性の巨大なネズミたちが住み着いていて、活動を活発化させたということでもないだろうし。


「……ま、幼い子どもたちが駆け回っているんだろうな。最近は夜中に起きて活動している子も結構いるって聞くし。それにもし親が夜の仕事に出かけているなら、誰かに止められるということもないもんな」


 僕は地方の農村で生まれ育ったけど、子どもの頃は古い日本家屋の室内で兄弟や近所の友達連中たちと時間を問わずに遊び回っていた。


 特に夜は枕投げなんかをして騒いで、親によく叱られていたっけ。あれってなぜか楽しくて、夢中になって騒いじゃうんだよな。


 きっと上の階の子たちも似たような感覚になっているんだと思う。元気なのは良いことだし、大目に見てやらないと……。


 昔を思い出し、無意識のうちに僕の頬はほころぶ。


 そんな中、運動会の賑やかさも次第に収まっていき、静かになった頃に再び別の音が聞こえてくるようになる。ただし、今回は無邪気さとはかけ離れたようなタイプの物音だ。


……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……』


 独特の抑揚とリズムで紡がれている言葉、そして適度に鳴らされる木魚とりん。その聞こえてくる声は低音でしゃがれた感じがすることから、おそらく年配の男性が唱えているのだろう。


「もしかしてこれはお経か? 実家が檀家だんかになっている寺とは宗派が違うようだけど、この感じはきっとそうなんだろうな」


 深夜だというのに熱心にお経を唱えるとは、よっぽど信心深い人が入居者の中にいるらしい。あるいは昼間は忙しくて、その時間が取れなかったとか。


 何かを日課にしていると、それが出来なかった時には気持ち悪かったり落ち着かなかったりするものだ。しかもそれが原因で調子が狂って、ほかの物事に影響することだって充分に考えられる。


 だからその時間がズレたとしても、なるべくやっておきたいという想いは分かる。


「夜泣きに運動会にお経か……。そっか、確かに周りの騒音が色々とあるな。気にする人がいたとしても無理はない。この程度なら僕は大丈夫だけど」


 やがてお経も聞こえなくなり、室内に静けさが戻った。その後は完全に騒音が収まり、暗闇と沈黙が世界を包み込む。



 結果、賑やかだったのは深夜0時から2時くらいまでの間。また、布団に横になった時点ではあれだけ眠気があったのに、今はすっかり目が覚めてしまっている。もちろん、慣れてくれば気にせず眠ってしまえるとは思うけど。


 それに今回は初めての経験で、ワクワクしていたという面もある。遠足の前日はなかなか寝付けないというのと同じだ。やれやれ、僕もまだまだ子どもっぽいな……。


「――それにしてもなんか寒い。断熱はしっかりしてるって話だったんだけど。今夜は季節外れに冷え込んでいるのかな? まぁ、エアコンの暖房を強めにしておけばいいか」


 僕はエアコンのリモコンを操作すると、掛け布団をしっかり被って眠りについたのだった。




 そして翌朝、目が覚めた僕は身支度を調えて不動産屋さんが到着するのを待つ。


 カーテンを開けた左側には眩く輝く太陽。この時間帯でもそれなりに光が部屋の中に差し込んできていて暖かい。さすが日当たりは抜群のようだ。これなら洗濯物がよく乾くというのも頷ける。


 その後、午前九時頃になって、昨日も担当してくれた店員さんが部屋にやってくる。


「おはようございます。お部屋の具合はいかがでしたか?」


「はい、悪くないですね。確かに多少の騒音はありましたけど、あの程度なら問題ないです」


「……やはり騒音が聞こえましたか。それでどのような感じだったか、もう少し詳しく感想をお聞かせ願えますか?」


「そうですね、まずは赤ちゃんの鳴き声が聞こえました。夜泣きってヤツでしょうね。それと上の階にお子さんがいらっしゃるのか、バタバタと足音がしてました。どちらもいつの間にか収まりましたけどね」


「…………」


 僕の話を聞いた店員さんはなぜか真っ青な顔をして、呆然と佇んでいた。よく見ると体や唇も小刻みに震えているようだ。視線も一点を見つめたまま、心ここに在らずといった印象。明らかに様子がおかしい。


 まさか朝食に期限切れの何かを食べてお腹が痛いということではないだろうし、さすがに首を傾げた僕は彼に問いかける。


「どうなさったんですか? 顔色が悪いようですけど」


「大変申し上げにくいことなのですが、このアパートに赤ちゃんや幼い子どものいる世帯はないのですよ」


「えぇっ!?」


 衝撃の事実を知らされ、僕は思わず驚きの声を上げてしまった。


 一方、その様子を冷静に見守っている店員さん。おそらく宿泊内見後にその話をすると、僕と同じような反応を示す人が大多数なのだろう。


 事実、彼は間髪を容れずにその続きを話し始める。


「実は同様の体験をなさった方が続出してまして。ちなみにお経なんかも聞こえませんでしたか?」


「あっ! はい、聞こえました!」


「やはり……。今までにもそういうご意見が多数あったので調査したことがあるのですが、このアパート内でお経を唱えている住民はいませんでした」


「で、でも確かに聞こえましたよッ!?」


「そうなんです、この部屋の中でだけ聞こえるらしいんです。泣き声も足音もお経も。いずれの原因も依然として不明です。念のために申し上げておきますが、ここは事故物件というわけではなく、だからこそ我々としても対処に困っているのです」


「…………」


 眉を曇らせる店員さんと言葉を失って呆然とする僕。得も言われぬ異様な空気がその場に漂う。


 もしかしたら夜中に寒気がしたのも、気温の低さや断熱の綻びのせいではなかったのかも。そのことが気になった僕はスマホでこの地域の最低気温を調べてみると、昨夜の場合は摂氏20度。やはり震えるほどの冷え込みではない。


 もちろん、日当たりは良い立地で風が吹きさらしになっているという状況でもない。


 だとすると、あの寒気は何だったのだろう。考えてもすぐに理由が判明するわけじゃないけど……。


「まぁ、こういうことなんです。それで宿泊必須の内見をするようになったわけです。泊まったからといって何か不吉なことがあるということではないので、その点はご安心ください。ただ、気になる場合は神社でのお祓いを無料で手配させていただきます」


「いえ、お気遣いなく。僕は大丈夫ですから」


「こうなった以上、ほかの建物の内見をなさいますよね? もっとも、ここ以外ということになるとどうしても家賃が高くなってしまいます。あるいは家賃の条件を据え置きにするということであれば、条件面で何かを譲歩していただくか――」


 店員さんは遠慮がちにそう僕に問いかけ、今後の方針の決断を迫った。


 当然、あれだけの不可解な現象を体験したとなれば、大抵の人はほかの物件の内見を希望することだろう。あるいは別の不動産屋を巡るとかネットで住宅情報を収集するとか、何らかの方法で条件に合った物件を探すに違いない。


 でも僕の場合、そうした選択をする気持ちはすでになくなっている。なぜなら――


「僕、この部屋に住むことに決めました」


「…………。えぇええええぇーっ!? ほ、本当によろしいのですかっ?」


「はい。以前に申し上げたように、僕は騒音が気にならない性格なので」


「し、承知しました……。で、では、事務所へ戻って契約書を作成しましょう……」


 店員さんは慌てふためきつつ、額や頬に滴る汗をハンカチで激しく拭っていた。


 僕がこの部屋への入居を決めた理由を知らないわけだから、その反応も無理はないだろうけど。



 もちろん、ほとんどの人は気味悪がってこの部屋を避けると思う。ただ、それこそが『彼らの狙い』だとしたらどうか――。



 つまりもしかしたら、これは不動産屋のワナかもしれないということだ。


 こうして恐怖を植え付けることで、彼らに有利な条件の部屋を契約させようとするとか。実は全て仕組まれたことだったという可能性がある。


 最初に酷い状況を提示されたら、次に提示されたものが大したことがなくても良く見えるという場合がある。これは通信販売などでも一般的に使われている手法。


 なにより音の原因が分からないというのは、彼らが言っているに過ぎない。本当は差し支えのない理由だと分かっているけど、素知らぬ振りをしていることだって考えられる。




 あるいは彼らが潔白だとしても、居住者たちが事実を隠しているということもあり得る。例えば、赤ちゃんの夜泣きに関しては保護者がドメスティックバイオレンスなどの被害者で、周囲に知られないように育てているなど。


 上の階の足音も実は駆け回っているのは子どもではなくて、大型犬をこっそり飼っているということなら納得がいく。当然、このアパートではペットの飼育が規約で禁止されているので、飼い主が周囲に真実を話すはずがない。


 お経はマンホール内に穴を掘って住み着いている、元・僧侶のホームレスが唱えているんだと思う。それが下水管を通じて聞こえてくるわけだ。やはり日課として定着したことというのは、どんな状況に置かれたとしても継続したくなるものだから。


 そもそも下水道の深いところなら、臭いさえ慣れてしまえば一年を通して比較的温度が一定で外よりは過ごしやすい――知らんけど。


 まぁ、外国の紛争地域では空襲や攻撃に備えて地下に施設を建設する例は珍しくない。それに地上が戦争で滅びても、地下なら生き延びられる可能性が高まる。


 そうした最悪の状況になった時に死者を供養する存在がいなくならないように、僧侶経験者が地下に住み着いていたとしても不思議なことではない。


 無数の魂が成仏できずにこの世を彷徨い続けるのは悲しいことであり、慈悲の心で送ってあげたいという気持ちは理解できる。



 …………。



 ――と、実は音の原因がどうだろうと僕にとってはあまり重要なことじゃない。ぶっちゃけ、どうでもいい。不動産屋だろうが居住者だろうが、暗躍しているのが誰であろうと構わない。


 当然、僕がこの部屋に決めた最大の理由は別にある。それは宿泊内見をしてみて、気付いたことを元に出した結論――。



 その『気付いたこと』というのは、同じアパートに住む人たちの心理だ。



 彼らはこの建物内で不可解な現象が起きるということは知っているし、それを受け入れた上で大人しく暮らしている。騒ぎ立てたり苦情を言ったり、発狂して暴れ回ったりということは起きていない。


 過去にそういう人がいたとしてもすでに他所へ引っ越していて、残っているのはその環境に慣れて受け入れている人たちが主体のはずだ。


 ゆえに僕の部屋から何かの音がしても、それについて言及する者はいない。不可解な現象などではなく、現実にその音を出しているのが『僕自身』だったとしても……。


 つまり室内でプロレスをしようが野球をしようが問題はないし、オペラや交響楽団のコンサートだって開催できるかもしれない。少なくともカラオケ程度なら確実に可能だ。


 そしてもし入居者の誰かが苦情を言ってきたとしても、現場を押さえられない限り白を切ってしまえばいい。


 あるいは物的証拠を突きつけられた時には『身に覚えがない。記憶がない』と答え続ければ、最終的には僕がモノノケにでも憑かれてやったことだと勝手に解釈してくれる。




 ……うん、そう捉えてくれなかったとしても、こちらとしてはその一点張りで乗り切るだけ。政治家だって『記憶にない』という答えを連発することでお茶を濁し、なんとか急場を凌ぐというケースが多々あるのだから大丈夫なはずだ。


 となれば、戸建てのマイホームを購入するまで実現できないと思っていた『アレ』でさえも叶えられる。なんと素晴らしいことだろう。




 ――入居後、僕は部屋で過ごしているほぼ全ての時間に、BGMの代わりとして『魔法少女☆ガギグゲGO!』シリーズの全564話をそれなりの音量で延々と垂れ流す生活を実現した。


 もしかしたら隣人たちは勘違いをして、実は僕が魔法少女だと思っているかもしれない。

 

 

〈了〉

 

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宿泊必須の住宅内見 みすたぁ・ゆー @mister_u

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