第15話 私が私になった日

『凪沙!聞こえてるか凪沙!いいか、絶対にこの部屋には来るな!何があっても、絶対に来るんじゃねえぞ!』


電話越しに、鬼気迫る間宮くんの声が聞こえてくる。


私の目の前の凪沙さんは、息を荒くしてその言葉を聞いていた。


「間宮くん・・・」


凪沙さんは、気の抜けた声で呟いた。それもそうだろう。今までの会話を全て聞いていた凪沙さんは、もはや自分が不良たちの元へ乗り込むしかない、という覚悟を決めていたからだ。それなのに、窮地の間宮くんから届いたのはSOSではなく、絶対に助けに来るなという警告。


いや、警告じゃない。これは間宮くんからのメッセージだ。


「独力でこの壁を越えてみせる」という。


「杵村さん・・・私・・・」


どこか縋るような視線を送ってくる凪沙さん。


「今すぐ警察を呼びましょう」


私は、ここにいる者が最も取るべき行動を口にした。


「ええ・・。そうね」


凪沙さんは静かに同意した。私は警察に通報するため、スマホを操作して間宮くんとの通話を切ろうとした。


その時、電話の奥から男の人の叫び声と、耳を塞ぎたくなるような痛々しい衝撃音が聞こえてくる。


「・・・っ!」


凪沙さんが息を吞んだ。そしてその顔からさっと血の気が引くのが見えた。


私は心が痛むのを感じながら、間宮くんとの通話を切断した。そして地元の米神警察署へと電話を掛けた。


「・・・はい。高校生が集団リンチを・・・はい、中島の松田マンションで・・」


「・・・・・」


私が警察に電話を掛けている間、凪沙さんは考え込むように地面を見つめていた。

嫌な予感がした私は早々に通報を済ませ、彼女の顔色を窺った。


「警察に通報したわ。二十分ほどで駆けつけるみたい」


私が言うと、凪沙さんは一瞬目を見開いてから、すぐにその目を鋭く細めた。


「遅い!・・遅すぎる!」


「それは私も同意よ。だけど・・・警察なんてそんなものよ」


「二十分なんて、人一人殺されるのには十分じゅうぶんすぎるくらいよ!そんな悠長なことしてる内に、間宮くんと明里ちゃんがアイツらに・・・」


嫌な想像を膨らませる凪沙さん。私は押し寄せる罪悪感を振り払って、静かに唇を動かした。


「間宮くんを信じるしかないわ」


「・・・っ!」


ひゅう、と生ぬるい風が吹いた。赤黒い夕焼けを背に、凪沙さんが私をキッと睨んだ。


「私はあなたに感謝しているわ。記憶喪失の件では知り合いに聞き込みを行ってくれたり、アルバムを見せてくれたり。今日だって、他人の私が発端で起きたいざこざの面倒を見てくれたり・・・。だけどこれだけは言わせて」


「・・・なにかな」


凪沙さんはすうっと息を吸ってから、言葉を吐き出した。


「『信じる』なんて無責任なこと言わないで。間宮くんや明里ちゃんを投げ出すようなこと言わないで。あなたにとってはただのクラスメイトでも、私にとってはすごく大切な人なの!」


「・・・・」


私は、一瞬光に包まれたように視界が白くなった。遅れて、胸の奥にじんじんとした痛みが広がる。


「私は・・間宮くんや明里ちゃんのいない世界なんて考えられない。二人が危険に晒されている今、ただこの場で警察の助けを待つなんてこと出来ない」


その言葉を最後に、凪沙さんはマンションの方に駆け出した。


「あっ」


私は止めようとしたが、風に髪をなびかせて走る彼女の背を見て、やめた。


「・・・ただのクラスメイト、か」


夏の夕暮れを見つめて、私は一人呟いた。


そして、胸の内に燻るこの気持ちから、初めて目を逸らしたくないと思った。





「おらっ!」 「死ねっ!」


頭上から、容赦のない暴力が降ってくる。


「クソがっ!」「くたばれっ!」


俺は自らの頭を抱え込み、ただただ痛みに耐え続けた。


喧嘩慣れしてる相手に、正面から二対一で挑もうなんてあまりにも無謀すぎた。


すぐに叩きのめされ、終わりの見えない暴力のなすがままにされた。


「放してってば!」


「暴れんなよ、このガキ!」


玄関の方から、明里の叫び声が聞こえてくる。きっと女たちに捕らえられてしまったのだろう。せめて明里だけでも逃がそうという俺の作戦は失敗だ。


「くっそお・・・!」


俺は自分の無力さに歯噛みする。怒りと悔しさが入り混じって、涙となって出てくる。だけど、神はそんな俺を救ってなどくれない。神の加護を失った信者は、ただの非力な人間だ。じゃあ信者でもない俺は、何なんだ?


何者でもない俺は、ただ加えられる激しい痛みに耐え続けるしかなかった。


「さっきまでの威勢はどうした!ああ!?」


横腹を思い切り蹴られる。


「うぐっ」


呼吸が止まる程の痛みに、うめき声を上げる。


「顔上げろやコラ」


ツーブロックが俺の髪を掴んで持ち上げた。血と汗と涙でぐちゃぐちゃになった俺の顔が晒される。


「ほんっとダッセーよな、お前。弱いくせにいきがって、妹の前で泣き面さらして」


長髪が肩をすくめた。今の俺にとって、これ以上ないくらい効果抜群な嘲笑だった。


「そろそろ眠らせてやるから。その後は、コレをぶち壊して、お前の妹もメチャクチにしてやるよ」


そう言って凪沙の髪飾りをちらつかせてきた。そして、玄関でわめく明里に舐めるような視線を送った。


それを見た瞬間、赤く腫れあがった俺の唇が勝手に動いた。


「今すぐその髪飾りを離せ・・・。それから、明里に何かしたら、絶対に殺してやる」


ぴくり、と俺の髪を掴むツーブロックの眉が動いた。そして、血で赤くなった拳を後ろに引いた。


れるもんならってみろや!!」


岩のような拳が、眼前に迫ってくる。衝撃と痛みに備え、俺はきつく目を閉じた。



その時。



「ぎゃああああああああああ」


玄関の方から、鼓膜を破る勢いで叫び声が聞こえてきた。明里のとは違う、耳障りな甲高い声。


ツーブロックはぴた、と拳を止め、扉の方を見やる。長髪も同じ方を向いた。


きい、と音を立てて扉が開いた。


「な・・・」


俺は思わず声を発した。



現れたのは、長い黒髪に真っ白な肌、端正な顔を険しく寄せた、白いワンピース姿の少女。


記憶を失い、この世界に居場所を失くした、孤独な、だけど誰よりも真っ直ぐな瞳と意思を持つ少女。


自分の名前すら完全に思い出せない、何者にもなれない少女―凪沙が、俺の目の前に現れた。


「てめえは・・・」


驚きに顔を染めたツーブロックが、俺を放した。


その瞬間、凪沙の姿がふっと視界から消えた。


そして気付いた時には、俺の目の前のツーブロックに、鬼気迫る表情の凪沙が殴りかかっていた。


一瞬消えたと見間違うくらいの、凪沙の素早い攻撃に俺は驚嘆するが―


「はっ。軌道が見え見えなんだよ」


「このっ・・・!」


凪沙の繰り出した右ストレートは、ツーブロックの太い腕にガードされてしまった。


追撃は加えず、素早く後ろに下がって一度距離を取る凪沙。俺も後退して、凪沙と横並びになる。


「凪沙、来るなって言ったじゃないか。そんなに俺は信用出来ないか?」


「少なくとも、そのボロボロの顔で言われても説得力は皆無ね」


「た、たしかに・・・」


俺はため息を吐いた。大切な人を危険に巻き込ませてしまう、自分のダメっぷりに。


「明里ちゃんなら玄関から逃がしといたから。女どもは向こうでノビているわ」


やはり先ほどの叫び声は不良女のものだったか。


「・・・明里を助けてくれて、本当にありがとう。出来れば今すぐここから逃げ出して、夕飯の支度でもしたいとこだけど・・・」


「まだ仕事が残っているわね」


俺と凪沙は、前方に立ちはだかる不良たちに目を向けた。そして一度目配せをしてから、二人揃ってびっ!と指を突き立てる。


『お前たちを倒して、髪飾りを取り戻す!!』


俺たちは、凪沙の好きな少年漫画さながらの、カッコいい場面を演じてやった。


「ふん。正義の味方気取りか?まあいいわ、こっちから呼ぶ手間が省けたからな」


「のこのこ処刑されにやってくるなんて、馬鹿な女だぜ。あの時の借り、嫌になるほど返してやるよ」


長髪とツーブロックが、不敵な笑みを向ける。すると、凪沙がふん、と鼻を鳴らした。


「今のあなたたちの発言には、二つ間違いがあるわ」


「あ?間違いだ?」


不良たちが眉根を寄せる。凪沙はその透き通る声で、悠然と言い放った。


「一つ、私は正義の味方ではなく、あなたたち悪の敵であること。そして二つ、これから処刑されるのは他でもないあなたたち二人よ」


それは、うっかり惚れてしまいそうなくらいシビれる台詞だった。


「へえ・・・随分とナメたこと・・」


長髪が眉をぴくぴくさせながら口を開いた。


「言ってくれるじゃねえか!」


そう言って、長髪が凪沙に殴りかかった。


「間宮くん!もう一人は任せたわ!」


「わかった!」


叫び、俺はツーブロックの男を睨んだ。


「間宮あ、ひょっとして俺に勝てるとか思ってる?」


余裕を顔に浮かべて言ってきた。


「愚問だな」


そう言って、俺は必死に口元を上げてみせた。そして、ぎこちない動きで拳を構え、ファイティングポーズを作る。


さて、一応強がってはみたものの、当然俺なんかがコイツに勝てるわけがない。腕力も技術もない俺が、喧嘩慣れしててガタイの良い目の前の男に勝つなど、ウサギがライオンを食い殺すくらい難しい。


だが俺は―最初から勝つ気などなかった。だからと言って負ける気もなかった。


俺が狙うは、時間オーバー、タイムアップによる引き分けだ。


凪沙は馬鹿ではないから、考えなしに俺たちを助けに来たわけではないだろう。杵村さんに警察への通報を任せるなど、何らかのセーフティーネットは張っているはずだ。


ならば、じきに警察たちがこの場に駆けつけるはず。だからこそ、俺のやるべきことは一つに定まる。


警察が来るまでの間、とにかく戦い抜く。凪沙が二対一の状況に追い込まれないよう、なんとかコイツを食い止める。ただそれだけだ。


「うおおおおおおおおおお!」


俺は雄叫びを上げて、男に突っ込んだ。男は視線を鋭くして、迎撃の構えを取る。


俺は右拳を顔面に放った・・・・と見せかけて、本命の回し蹴りを、思い切り男のすねに叩きこんだ。


「ぐあっ!」


神経の集中する部分を蹴られ、男は思わず脛を抱え込んだ。


チャンスと見た俺は、男を押し倒すようにして上にのしかかった。


以前岩田と戦った経験から、この体勢になれば非力な俺でも優位に立てることを知っていた。


だが―


「おらあ!」


「うわっ」


俺は下から物凄い力でひっくり返されてしまった。このツーブロックの男、単純な腕力は岩田よりも遥かに上だった。


一瞬にして体勢が入れ替わり、俺は男の馬乗りになられた。


「やってくれたな間宮あ!」


上から拳が振り下ろされる。顔面に衝撃と痛みが走る。


「死ね!死ね!」


固い拳が何度も叩きつけられる。その度に赤い血が飛び散る。


ふと横目をやると、凪沙と長髪の男の激しい打撃の応酬が映った。


一見互角の戦いに見えるが、凪沙の苦悶の表情から、長髪が押していることがわかる。


これはヤバいな・・・


俺は今にも飛びそうな意識で思う。


「おらっ!どうだ!いい加減死ね!」


男は取り憑かれたように、ただ俺の顔を殴り続けた。


殴られすぎて感覚が麻痺し、俺は痛みすら感じなくなっていた。


早く警察来てくれないかな・・・


ぼんやりと、頭の中で呟く。


もう意識を保つのも限界だった。いや、既に何回か気を失っていた。だがその度に、顔面に走る強い衝撃に叩き起こされていた。


今頃明里はどうしているだろうか。杵村さんに保護され、先に家に帰っただろうか。


「おら!おら!早く死ねや!」


凪沙のおかげで、明里が助かって本当によかった。たった一人の大切な妹を救うことが出来て、本当によかった。


・・・って、この言い方じゃ俺が明里を助けたみたいだな。本当は何もしてないってのに。なに、ヒーロー気取ってんだよ。馬鹿か。


「死ね!間宮!死ねっ!」


男は、かすれ声で叫びをあげ続けていた。血しぶきが飛ぶ。多分、今飛んだ血は俺のものじゃない。男の拳から出た血だ。殴りすぎて、拳の皮がめくり上がったのだろう。



うるせえな。ずっと死ね、死ねって。


そんなに死んでほしいなら、今すぐ死んでやるよ。俺はお前たちと違って、友達も親もいないし、毎日生きてて楽しいことなんて何もない。


学校に行ったって、自分の席で一人、時間が過ぎるのをぼーっと待つだけ。授業が終われば、楽しそうに笑って話すやつらを尻目に、すぐ帰宅。


なんにも面白くない。色褪せた日常。青春とか、仲間との思い出とか、今しか出来ないこととか、そんなの知るか。俺の時間は、十年前のあの日から、ずっと止まってんだよ。


くだらない青春ごっこなんて、お前らだけでやってろ。どうせ卒業したら、もう会わなくなるんだろ?顔なんてすぐに忘れて、名前も思い出せなくなって。ほんと、馬鹿馬鹿しいよな。結局みんな自分のことしか考えてない。口じゃ「友達が」「家族が」って言うくせに、心の中では、結局自分が一番。


ほんと気持ち悪い。友情も愛情も、全て自己満足のための道具。世間が「素晴らしいもの」として崇めてるそれらは、お互いがお互いの寂しさを埋め合わせるという見えない利害関係に基づいた、空虚な妄想。


それがどれだけ空しいことか、誰も気付いてない。気付いても見ないふりをして、いつも通りの作り笑いを浮かべて、日々を過ごしていく。


「・・・間宮・・・く・・ん」


どこか遠くで、凪沙の声がした。


「間宮・・・・くん・・」


また声がする。だけど、ぼんやりとしか聞こえない。気のせいか、視界も徐々にぼやけてきた。凪沙の声が、さらに遠くなる。


そうだ。凪沙・・・俺にとって、凪沙は一体何なんだ。


夜の海で偶然出会った、見知らぬ少女。記憶を喪失していて、すごく不安気で、だけど気が強くて、俺を岩田たちから助けてくれて。


真夏の日差しに焼かれながら、二人で自転車に乗って、色んな場所をまわった。


そうする内に、たくさんの顔を見た。



怒った顔、笑った顔、嬉しそうな顔。不安そうな顔、悲しそうな顔、強がった顔。


無表情な子だと思ってたけど、一緒に過ごす中で本当にたくさんの顔を見せてくれた。


だけどその中のどれを取っても、揺るぎない意思の強さだけは常にあった。


真っ直ぐな、力強い、一点の曇りもない、そんな意思が、たしかに瞳に宿ってた。


そんな凪沙がカッコよくて、眩しくて、ちょっと羨ましくて-


自分にないものを持つ凪沙に、いつのまにか惹かれていた。


正直、自分でもこの気持ちがなんなのか今いち分からない。


羨望なのか、憧れなのか。それとも、俺が今まで散々否定してきた、恋なのか。


恋だとか愛だとか友情だとか、そんなもの全部まやかしだ。人間が作り上げた空虚な妄想だ。だとしたら、俺が凪沙に抱くこの気持ちも、ただの偽物の感情に過ぎないのか。



薄れゆく意識の中、俺は思った。



この気持ちを、「偽物」なんて言葉で括りたくない。


そんな簡単な言葉一つで片付けたくない。


俺が今まで否定してきたもの全てと、同じだなんて思いたくない。



・・・だって、こんなにも胸が苦しいから。



































































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