第16話 White Summer

目覚めると、見知らぬ天井だった。


はっとして体を起こすと、腹部に強い痛みが走った。


「いってえ…」


しかめた顔で辺りを見渡す。俺はカーテンに囲まれたベッドの上にいた。ここが病室であることを直感で理解する。


そっと頬に手を当てると、ふわりとした綿の感触がした。鏡がないのでわからないが、ガーゼでも貼ってあるっぽかった。


その時、しゃっと音がして目の前のカーテンが開いた。


現れたのは、中学のセーラーに身を包んだ明里だった。


「おにいちゃん…!」


一瞬驚いた顔をした明里だが、すぐにうるうると目尻を震わせ、手に持っていた桶とタオルを放り出して俺に飛びついてきた。


「おにいちゃん!よかったよ!三日も寝たきりだったから本当に心配だったよ…!」


病衣で覆われた背に腕をまわし、ぎゅっと俺を抱きしめる明里。


「いてててて!わ、わかったから一回離れてくれ、明里…っ!」


全身に痛みが走り、思わず叫びをあげてしまった。


「ごめんおにいちゃん!だ、大丈夫?」


慌てて俺から離れた明里。俺はふう、と息を吐いてから、心配そうな顔の妹を見る。


「それで明里…えっと」


俺は言葉を詰まらせた。頭の中にいくつもの疑問が浮かび上がってきて、どこから質問すればいいかわからない。


「あ!大丈夫!おにいちゃんの気になることは、今から私がサルでも分かるように順を追って説明していくから!」


「お前は兄貴の脳味噌をなんだと思っているんだ?」


軽く溜息を漏らすも、俺は話に耳を傾けることに決めた。


「まずはあの日、七月二十六日の午後、私は不良高校生たちにさらわれた。すぐにおにいちゃんが助けに来てくれたけど、不良たちは実力行使に出た。私はおにいちゃんが戦ってる間に逃げ出したけど、玄関で女たちに捕まった」


「そこまでは覚えてる。それから凪沙が助けに…」


その名を口にした瞬間、身の毛がよだつ感覚が走った。


「そうだ!凪沙は…凪沙はどうした!?あいつは、今どこにいるんだ!?」


「お、落ち着いておにいちゃん。凪沙さんなら無事だから。とりあえず話を聞こ?」


明里が困ったような顔で言った。


「す、すまん。…続けてくれ」


俺は乱れた呼吸を整えた。明里がこくりと頷く。


「私が女たちに羽交い締めにされていた時、急に玄関の扉が開いたの。現れたのは、一番この場所に来てはいけない凪沙さん。驚いた私が息吐く間もなく、凪沙さんは女二人を張り倒した。そして私に、『逃げて』とだけ言って、部屋の奥に消えて行った。私は言われた通り、マンションの階段を駆け降りて外に出た。警察に電話しようとしたら、昼間ショッピングモールで出会ったおにいちゃんの同級生の、杵村さんがいることに気が付いたの」


明里は言葉を続ける。


「杵村さんには『既に警察には通報してある』と言われた。それから五分くらいして、すぐにパトカーと救急車がやってきた。私と杵村さんの二人で見守ってたら、エントランスから傷だらけの不良たちと凪沙さんが出てきた。おにいちゃんだけは、遅れて担架に運ばれて来た。意識を失ってたみたいで、そのままここ…おじいちゃんの病院に搬送されたの」


「ああ…。ここは…」


俺は天井を見上げた。現在俺と明里の養育者である、父方の祖父母が経営している医院。俺はそこに運ばれたわけか。


「私と杵村さん、それに凪沙さんは警察に取り調べを受けたわ。もちろんあの不良たちも。みんな大きな怪我はなかったし、私たちは被害者だからすぐに釈放された。凪沙さんの身元は、私たち間宮家の同居人ってでっちあげといたわ」


「そうか。それならよかった…」


俺は安堵の息を吐いた。しかし、すぐに違和感が脳裏を掠めた。


なんで俺は今、安堵を感じたんだ?


「…おにいちゃん?」


明里が覗き込んでくるが、俺は視線を返さない。


俺が安堵した理由、それは至って単純だ。


警察に凪沙の身元をでっちあげ、凪沙が面倒な追及から逃れられたから。

記憶喪失で自分の家も両親も名字すらわかりません、なんて言おうものなら、警察に「待った」の声をかけられるだろう。


しかしそれは、本来ならば望み通りのことではないか。


もしこれで警察が凪沙の正体判明のために動いてくれれば、それは凪沙にとっても、俺にとっても良い事であるはずだ。


俺たちの目的は、「凪沙の正体を明らかにすること」であるのだから。そしてその目的は、ただの高校生の俺なんかより、公機関である警察が協力してくれた方が、遥かに達成される確率が上がる。


なのにどうして俺は…凪沙を、警察の手に渡したくないと思ってしまったんだ?


その時、俺の脳裏にある言葉がよぎった。


自己満足。


「………っ」


俺は息を詰まらす。


そうだ。もしかして俺は、本当は凪沙の正体なんてどうでもよくて、ただの自己満足で、今まで冒険ごっこをやっていたんじゃないのか。


友情だの愛情だのを大義名分に、己の欲求を満たすだけの青春ごっこに勤しむ、あの不良たちと同様に。


「ねえ、急にどうしたの、おにいちゃん?」


明里が不安を滲ませた目で俺を見ていた。


「…明里、一つ質問していいか」


明里は目だけで「了解」の意思を伝えてきた。俺はゆっくりと口を開く。


「…どうして、凪沙の身元をでっちあげたんだ?」


「え?だってそうしないと、凪沙さんが警察に捕まったりするかもじゃん。もし身元がわからなかったら、どこかの施設に入れられるかもしれない」


当然のような顔で言う明里。俺は黙ったまま、自分の傷だらけの手の平を見た。


「それに」


明里の言葉に、俺は顔をあげた。


「おにいちゃんが、凪沙さんの存在を世界に認めさせるんでしょ?」


「…明里」


丸っこい妹の目を、俺は見つめた。


そうだ。俺は凪沙に約束したんだった。例え世界がお前を認めなくても、俺がお前を認めるんだと。そして、いずれ世界にだって…


さっき生じた自己満足という言葉を振り捨て、俺は明里に尋ねた。


「で、病院に搬送されてから、俺は眠り続けていたのか」


「そうだよ。骨折とかの怪我はなかったけど、全身打撲で打ち身になって、高熱で寝込んでたの。おにいちゃんが意識を失ってた三日間、凪沙さんが付きっきりで看病してくれてたんだよ」


「マジか…」


俺は凪沙への申し訳なさで一杯になる。と、そこで大事なことを思い出した。


「髪飾りは…凪沙の髪飾りは取り戻せたのか!?」


明里は微かに笑って答えた。


「うん。無事に取り戻せたよ。凪沙さんは今、自分の家を思い出したって言って、そこに行ってる。多分もうじき戻るんじゃないかなあ」


俺は枕元の時計を見た。


七月二十九日、午後十六時。既に夕方だった。


「そうか…」


俺は大きく息を吐いた。自分の家を思い出したということは、そこには凪沙の親もいるはずだ。そうすれば、ついに凪沙は一人でなくなる。俺たちの目的は達成される。


「ふふっ。おにいちゃんって、凪沙さんのことになると感情揺れ動きまくりだよね。今だって、安心と寂寥が入り混じった変な顔してる」


「セキリョー?なんだそれ」


俺は言葉の意味がわからず聞き返す。明里は「ううん」と、なぜか苦笑して首を振り、


「とにかくおにいちゃん、心配かけて本当にごめんね。あとあの時、助けに来てくれてありがとう」


俺は明里の言葉に、ぶんぶんと首を振った。


「なに言ってんだよ。俺の方こそ、お前があんな怖い目に遭うのを防げなくて、本当に悪かった。マジで兄として情けないよ」


「そんなことないよ。私を助けるため、凪沙さんを守るため、おにいちゃんは必死で戦ってくれた。…すごく、かっこよかった」


明里が普段は見せない照れ顔で言うので、こっちまで顔が熱くなってきた。


本当に、明里が無事でよかった。世界でたった一人の、俺と血の繋がった妹。


明里のいない世界なんて考えられない。考えたくもない。自己満足なんかじゃない。たとえこの身が朽ちても、全てを賭して守りたい、唯一の存在。


そう、唯一の…


ふと、俺の脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。


「ねえおにいちゃん」


明里が呼びかけた。


「なんだ」


俺は、俯き加減の明里を見た。


「もし、凪沙さんの記憶が戻って、凪沙さんがもといた場所に帰ったら…

今のこの時間も、終わっちゃうのかな」


今のこの時間。


それは、凪沙と共に過ごす時間、ということだろう。


同じ屋根の下で、同じ食卓を囲み、笑いあい、不安な時は支え合う。困った時は助け合う。あの日あの夜あの海で、俺が凪沙と出会ったことで始まった、まるで夢のような日々。


「それとも凪沙さんの記憶が戻らなかったら…離れずいられるのかな?」


「おま…っ」


凪沙の願いを否定するような言葉に、俺は一瞬声を上げそうになる。


だが、苦しそうに顔を歪ませ、肩を震わせる明里を見た瞬間。


俺は、何も言えなくなる。


「ごめん今私…最低なこと言った」


明里が後悔に満ちた声で言った。


「……」


何か気の利いた言葉を探すが、何も出てこない。


真っ白な病室に、重たい沈黙が流れた。


その時、俺はカーテンの隙間から窓の外が見えた。


何か、白い粉のようなものが見えた気がした。


「……?」


目にゴミでも入ったかと思って、俺は自分の瞼を擦りながらカーテンを開けた。


次の瞬間、俺は自分の視界を捉えたものに、息を吞んだ。



「ええ!?雪が降ってる!?」



ベッドに乗り上げた明里が叫んだ。


「は……?」


驚きのあまり、喉から声が漏れ出る。


俺の目の前には、季節外れの雪が空を舞う光景が広がっていた。


「ちょっとそこの若いの!何寝ぼけたこと言ってるんだい!」


俺の向かいのベッドから、皺だらけのおばあさんがカーテンを開けて言った。


「私の目はバッチリ開いてますよ!ほら、見てください!」


明里がおばあさんの背中を押した。おばあさんは渋面を作りながら、窓の外に目を向けた。


「あらあらあら…こりゃあ…」


おばあさんは細い目をぱちぱちとさせた。


「ね!?雪、ほんとに降ってますでしょ!?」


明里が興奮気味に言った。


「これ、ほんとにあんたたちにも見えてるのかい?あたしの白内障が急進行したんではないのかい?」


「ええ…。信じ難いですけど、確かにこれは雪です」


俺が答えると、おばあさんは「冥土の土産にいいもんが見れたわい」と呟いてその場で卒倒してしまった。


明里がナースコールをするも一向に看護師が来る気配がないので、俺と明里は病室の外に様子を見に行った。


「真夏に雪って…異常気象どころじゃないわよ!」

「地球寒冷化って存在したっけ?」

「ママー!白いのたっくさーん!」

「ばあさん!わしゃ遂に幻覚が見えてきたぞ!」


廊下にいる誰もが、窓の外に視線が釘付けになっていた。そこにはもちろん看護婦もいた。


「とんでもねえことになってんな…」


「ね!七月も終わりのこの時期に雪なんて、わけわかんないよね!」


明里が目を輝かせて言った。いや、俺は降りしきる雪ではなく、ナースコールをしたのに誰も病室に駆けつけないという職務怠慢の権化みたいなこの状況を、「とんでもない」と言ったんだが。


しかし、それも当然と言えば当然かもしれない。常識的に考えて、夏に降雪なんて有り得ない。今のこの状況は、明らかに世界の秩序から逸脱していた。


「でもまずは、看護婦さん呼ばなきゃね。私、声かけてくる!」


明里が駆け出した。俺の妹は冷静さを保っていたらしい。


ぴろん。


その時、近くでスマホの通知音がした。明里が足を止め、制服の胸ポケットからスマホを取り出す。


「……」


明里は無言で画面を眺めた。そして、ゆっくりとスマホを俺の顔に向けてきた。


俺は液晶に映る文字を覗き込む。ラインのトーク画面で、相手は凪沙だった。


ゆっくりと視線を下に這わせる。たった今、凪沙から届いたラインを見る。



『私の家があったはずの場所、ただの更地さらちだった。


もうどうすればいいのかわからない』



































































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