第6話 交差する飛行機雲

「ただいま」


古びた玄関の戸を開け、いつものように声を出す。視線を下に向けると、凪沙のローファーが綺麗に揃えられていた。


家に上がり、俺はリビングの扉を開く。ひんやりとした空気が俺の体を包み込む。


「おかえり、間宮くん」


ソファに座る凪沙が声をかけてきた。白のTシャツとショートパンツに着替え、髪は貝殻の髪飾りで留められ、手には本を持っていた。


「ああ、ただいま」


俺はそう言って、ギシギシ悲鳴を上げる床を歩いていき、台所へ向かった。


冷蔵庫を開けると、中身はすっからかんだった。とりあえず飲み残しのペットボトルの蓋を開け、烏龍茶を喉に流し込んだ。


「ぷはぁ」


全て飲みきり、潰してゴミ箱に捨てた。俺はリビングへ戻り、一人静かに読書する凪沙に声をかけた。


「凪沙」


「?」


凪沙は無言で振り返った。窓から射す光を反射して、髪飾りがキラッと光る。


「昼飯、食べに行かないか?」





俺たちは二人乗りで自転車に跨り、炎天下の中カフェに向かった。後ろに座る凪沙の肩が時折背中に当たり、そのたびに俺はドキドキしてしまう。


「行きつけのところがあるんだよ」


ずっと無言も気まずいので、俺は口を開いた。


「昔からあるとこ?」


凪沙が聞き返す。俺は「ああ」と頷き、


「両親が生きてた頃、よく家族で行ってた。もしかしたら凪沙も知ってるかもしれない」


「何か思い出すかもね」


凪沙が返す。一瞬生温かい風がふわりと体に纏わり付いた。俺はじんわり汗が滲むのを感じ、凪沙に汗臭いと思われてないか心配になる。


十分ほど自転車を漕ぐと、目的地のカフェに着いた。年季の入った外壁は、緑色のツタで覆われている。それを目にすると、暑さが柔らいで涼しく感じた。


「どうだ?知ってるか?」


「いや、初めて来たと思うわ」


俺が聞くと、凪沙は首を横に振った。


扉を開け、二人でカフェに入る。チリン、と音がした。


「いらっしゃい」


厨房前のカウンターから、店主の奥さんが声をかけてくる。後ろの窓からは光が差し込んでいる。


俺は軽く会釈し、いつもの席へ腰を下ろす。正面には凪沙が座る。


奥さんがおしぼりと、メニュー表を持ってくる。凪沙は受け取ったメニュー表を早速開いた。


「何かおすすめはある?」


目線を下にした凪沙が俺に聞いた。


「そうだな…。俺はランチには大体、カツサンドを頼む」


「カツサンド、いいわね。私もそれにするわ」


「わかった」そう言って俺が注文するため、奥さんに声をかけようとした時…


ぱらぱらとメニューをめくる凪沙の手が、ふと止まった。


「凪沙?」


俺が問いかけるが、凪沙は固まって動かない。

メニュー表をずっと凝視している。


もしや、何か思い出したのだろうか。


そう思って俺はメニュー表を覗き込んだ。


そこにはパフェ、パンケーキ、プリン、タルト、そして夏季限定のかき氷など、色とりどりのスイーツが並んでいた。どれもスイーツ好きには堪らないだろう。


「……」


静止し続ける凪沙の瞳に、何かキラキラとした輝きが見えた俺は、少し息を吐いて口を開いた。


「好きなのか?甘いもの」


「!?」


俺の問いかけに、凪沙はハッと顔を上げた。

図星か…。俺は少し微笑んで、再び口を開く。


「じゃあ食後に頼むやつ、決めていいよ」


「ほ…ほんとに?」


凪沙が少し申し訳なさ気な目を向けてくる。


「お金のことなら気にするな。食べたいもの食べろよ」


「…!」


すると凪沙は再びメニュー表に目を落とし、「うーん」と唸りはじめた。俺は目を細めてそれを見ていた。たっぷり一分ほど悩んで、凪沙は「これがいい」と言って指を置いた。


それはイチゴやキウイ、バナナなどのフルーツがたっぷりと乗ったパフェだった。


「すみません」


そう言って俺が手を挙げると、奥さんがぱたぱたとやって来た。


「カツサンド二つと、食後にアイスコーヒー二つ。あと、このパフェを一つ」


「はい」


注文を告げると、奥さんはさらさらとメモを取り、メニュー表を回収してカウンターへ戻った。


俺は凪沙に顔を向ける。窓の外を静かに眺めていた。


「私、結構甘党なのよ」


ふと凪沙が呟く。俺は少し笑って、


「凪沙について分かったことに、『甘党』ってのを追加しとくよ」


と、少し冗談を飛ばしてみた。


「…間宮くん、そんな冗談言うのね」


「冗談?俺は真剣に言ってるぞ」


「帰る」


凪沙が席を立ちあがった。「おっ、おい」俺は慌てて手を伸ばす。すると凪沙がぴたっと止まり、こちらを振り返った。


「ただの冗談よ。焦った?」


凪沙は席に座り直した。口元が少し上がっていた。


「ちょっとだけ、焦った」


俺が言うと、凪沙はクスッと笑みを浮かべる。


「じゃあ今度は盛大にアセらそうかな」


「それはやめてくれ。心臓に悪い」


俺たちは互いの顔を見合わせ、笑った。

ふと、明里以外の人間とこうして笑い合うのは一体いつ振りだろうか、と思った。


やがて注文したカツサンドが運ばれてきた。凪沙は「いただきます」と手を合わせてから、ぱくりと一口頬張った。


「……おいしい」


凪沙は手に持ったカツサンドを見つめて言った。俺は何だか嬉しくなり、「だろ?」と言って笑った。


俺も一口頬張る。


ふわふわのパンと、外はカリカリ、中はジューシーなカツ。そして何よりも良い味を出しているのが、この店特製のカツソースだ。


「おいしいけど…」


凪沙が手を止めた。俺は顔を上げる。


「私このカツサンド、食べたことあるかも」


「マジか?」


俺は目を丸くした。凪沙はこくり、と頷く。


「この店のカツサンドの味は、ハッキリ言って唯一無二だ。他じゃ絶対食べられない。もし凪沙の言ってることが本当なら、凪沙は過去にこの店に来たことがある、ということじゃないか?」


「やっぱり私は、米神市に住んでいたのかな」


凪沙が呟く。俺は少し上を見て考える。


制服と地震。この二つのキーに加え、この老舗カフェのカツサンド。鳥取県内に住んでいることはほぼ確実として、制服とカツサンドから米神市在住の可能性はかなり上がっただろう。


「…参考までに、どのくらい前に食べたか思い出せないか?あとできれば誰と食べたのかも」


「そうね…なんとなくだけど…」


凪沙が額に手を置いて目を瞑る。記憶の糸を手繰り寄せているようだ。


「たぶん…食べたのはかなり前ね。小学生とか、ほんとそれくらい。一緒に食べた人は…男の子よ。名前は分からない。だけど、私と同じくらいの年齢の男の子と食べたわ。なぜかこれは自信がある」


小学生のとき、男の子と一緒にこの店のカツサンドを食べた。引き出せる情報としては、これが限界か。


「小学生の時ってのが合ってるなら、一応辻褄は合うな。地震を経験してることから、小一か小二の時は確実に県内にいたわけだし」


「そうね。帰り際に店員さんにも聞いてみましょうか。『昔小学生が二人で店に来ませんでしたか』って」


「まあ覚えてたら凄いけどな。ただ…」


「ただ?」


言葉を止めた俺に、凪沙が目を見開く。


「小学生でカフェデートとは、なんつーか、さすがだな」


「!?」


凪沙はぎょっとしたような顔になる。俺は出会って初めての凪沙の崩れた表情に、少し笑ってしまう。


「な、なんでデートって決めつけるのよ?まだ小学生ってことは、ただの仲のいい友達同士かもしれないじゃない!」


必死に言葉を並べる凪沙。顔が少し赤くなっていた。


「まあそうかも知れんが…とりあえず、若き日の元カレを思い出したらすぐに教えてくれ」


「だから、なんで彼氏がいた前提なのよ!」


凪沙がドン、とテーブルを叩く。コップの水がゆらゆらと揺れた。


「そんな怒るなよ。でも、彼氏がいた可能性は結構あるんじゃないのかと思うけど…」


「理由は?」


凪沙がギロリと俺を睨みつける。俺は少しだけ顔を俯け、視線を窓の外に向けた。


「…可愛い、から」



沈黙が流れ、俺はしまったと思った。


ガチで引かれたかもしれない。「こいつキモ」と思われたかもしれない。ちょっとだけ、ちょっとだけテンションが上がって、口が滑ってしまっただけなんだよ。俺は別に下心があって言ったわけじゃ…


おそるおそる、俺は逸らした視線を凪沙の顔に持っていった。


「……っ!」


そこには、顔を真っ赤にしてぷるぷると震える凪沙の姿があった。マズい、確実に怒らせてしまった。


「わ…悪い凪沙!気を悪くしたなら謝る!ただ、俺は決して下心とかで今の発言をしたわけではなく…」


俺は顔の前で手を合わせ、必死に許しを乞う。

すると、「はあ」と大きなため息がした。


「あーあ。間宮くんに盛大にアセらされちゃった。これは一本とられたわね」


凪沙は肩をすくめた。その様子から、俺に対する憤慨は見られなかった。


「凪沙…」


殴られる覚悟もしていた俺は、ふいに脱力感に襲われる。すると凪沙は俺に向かって、びっ!と指を突き立てた。びっくりした俺は一瞬背筋を伸ばす。


「近いうちに、必ず一本取り返すから。寝首をかかれないように用心しなさい」


俺は突き立てられた指を見つめた。


不意に、笑いがこみ上げてきた。


「あははは。面白いな、凪沙って」


「な、何がおかしいのよ!?」


俺は自分の腹を押さえた。目から少し涙が出てくる。


「『寝首をかかれないよう用心しろ』なんて現実で言ってる人初めて見た。時代劇とかでしか聞いたことなかったよ」


どうもツボに入ってしまい、俺は笑いが止まらない。


「うるさい!ほ、ほんとに殴るわよ!?」


凪沙が必死になっているのが、余計面白かった。俺は本当に久しぶりに声を出して笑った。


俺たちはカツサンドを平らげた。その後運ばれてきたパフェは凪沙の大きな口に吸い込まれ、俺はコーヒー片手にそれを見つめた。


レジで支払いを済ませ、最後に奥さんと目を合わせた。


「昔、ここに小学生くらいの男女が来ませんでしたか?カツサンドを注文したと思います」


俺の質問に、奥さんは首を傾げた。


「そうねえ…。小学生のお客さんなんて中々いらっしゃらないから、覚えてそうなものだけど…」


奥さんが考え込むが、それらしい記憶はありそうになかった。


「あの、また来ますので、何か思い出したらその時教えて下さい。ごちそうさまでした」


手間をかけさせるのも悪いので、俺は話を打ち切って会釈した。


「ごちそうさまでした」


俺の斜め後ろに立つ凪沙も、頭を下げた。


「ありがとう。また来てね」


奥さんは目尻に皺を寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。


ちりん、と音のする扉を開け、俺たちは店の外に出た。世界が一気にアブラゼミの声で包まれる。


「ダメだったわね」


凪沙が平坦な声で言った。俺は頷き、


「ダメ元で聞いただけだからな。覚えてたらすごいよ」


俺は手で顔を隠し、影を作った。照りつける日差しが眩しかったからだ。


止めた自転車へ歩みを進めようとするが、突然凪沙が立ち止まった。


「凪沙?」


俺は振り返る。凪沙は背筋を伸ばして、拳を固く握りしめていた。


「私は…」


凪沙が口を開く。俺も背筋を伸ばし、続く言葉を待った。


「私は、自分が何者なのかを知りたい」


凪沙が言い放つ。その瞳には真剣な色が灯っていた。


「私はどこで生まれ、何を見て育ち、どうしてあんな山奥に一人投げ出されていたのか。どうして、これまで生きた記憶を全て、失ってしまったのか」


俺は黙って聞き続ける。ふと視線を落とすと、握られた凪沙の拳がぷるぷると震えているのが見えた。


「…わかるさ」


俺は呟いた。凪沙が俺を見る。


「凪沙という人間が生きた証、必ずわかるさ」


「間宮くん…」


焼けつくような夏の太陽の下、俺たちは互いに見つめ合った。


「私、すでにたくさんお世話になってるから、本当に図々しくはあるんだけど…」


凪沙は一瞬ためらうように下を向くが、すぐに顔を上げた。その表情はきりっと引き締まっていた。


「私の記憶を取り戻すために、これから協力してくれるかしら」


そして、凪沙の綺麗な手が差し出された。


「…俺なんかでよければ」


そう言って、俺は凪沙の手を握りしめた。


数秒ほど、お互いの体温を伝え合う。やがて凪沙の方から手を離した。


「そうと決まれば、いろんな場所に行かなくっちゃね」


凪沙はその場でくるりと回った。長い黒髪が弧を描く。


「いろんな場所?」


俺は聞き返した。凪沙は青空を見て答える。


「家でじっとしてるよりも、いろんな場所を見て回った方が、何か思い出せる気がしない?」


「たしかに…な。だけど、具体的にはどこへ行くつもりだ?」


「それはこれから決めるわ」


「結構適当だな…」


俺が首筋から汗を垂らして言うと、凪沙は女の子らしい無邪気な笑みを向けてきた。空に浮かぶ太陽が凪沙の頬を照らす。


「夏らしく、冒険の始まりといきましょう」


俺は瑠璃色の空を見上げた。そこには二本の飛行機雲が交差して、遥か彼方まで続くように細長く伸びていた。



その日から、俺たちの冒険が始まった。



















































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