第5話 迷える子羊

七月二十四日、午前七時半。


自宅のリビングには、ちゃぶ台を囲む俺と凪沙と明里の姿があった。


凪沙が家に来て二日目の朝、俺が作った朝食をみんなで食べているのだ。


『本日山陰地方は快晴で、気温は三十度を越えて真夏の暑さとなるでしょう。水分をこまめに摂り、熱中症には十分気をつけて…』


画面の中の女性アナウンサーが、今日の天気を知らせる。「今日の体育外だよぉ」と、明里が少し肩を落とす。


俺は左に座る凪沙へ横目を向ける。箸を運び、黙々と朝食を食べていた。今日のパジャマはだぼついた様子は一切なく、まさにピッタリといったサイズ感だ。凪沙が昨日自分で買ったものだろう。


俺はふと米の入った茶碗に目を向ける。真っ白なところに一粒だけ、茶色く変色した米粒を見つける。


「はあ」と息を吐いた俺は、凪沙について考えを巡らす。


今凪沙について分かっていることは次の通り。


一、目が覚めたら凪沙は一人山奥に倒れて

  いた。そこから記憶が一切ない。


二、凪沙は東高の制服を身につけていた。

  しかし東高に「凪沙」という名前の

  生徒は在籍していない。


三、家族構成は両親と凪沙の三人で、兄弟

  はいない。


四、凪沙の両親は凪沙の捜索願いを出して

  いない。


そして五、凪沙は十年前の鳥取地震を経験している。これは初めて家に来た日、テレビに映った地震の映像を見た凪沙からの証言だ。


鳥取地震を経験したということは、少なくとも十年前には鳥取県内に住んでいたということだろう。それに倒れていた日に東高の制服を着ていたことから、凪沙は今も鳥取県内に住んでいる可能性が高い。あの制服が誰のものか、という話は一旦置いておくが。


それに、両親がいるのに凪沙の捜索願いが出されていないことも気になる。自分の娘が連絡もなしに二日も帰ってこないとなれば、普通の親なら心配して警察や学校に相談するなり何かしらのアクションを起こすだろう。


しかし凪沙の場合は全く音沙汰なしだ。まあ凪沙は自分のスマホを所持していなかったため、もしかしたらそっちに連絡がいってるのかもしれないが。


実は凪沙は両親に虐待や育児放棄をされていて、そこから脱出するために山奥に逃げ込み、頭でも打って記憶を失ったのだろうか…とも考えた。


だが、俺はその可能性は低い気がした。理由は…昨日のこともそうだが、凪沙のこの気の強さとまっすぐな瞳は、親から虐待された子どもが持ち合わせるそれではない気がしたからだ。普通の子どもなら、性格が歪んだり俺みたいに無気力に陥ったりしそうなものに思えてしまう。


でもだとしたら…謎は深まるばかりだ。


果たしてこの目の前の少女は、一体何者なのだろうか。


「間宮くん?」


「え?」


気がつくと俺は、凪沙と見つめ合っていた。

くりくりとして澄んだ瞳を向けられ、俺は一瞬固まってしまう。


「私の顔に何かついてる?」


「い、いや。なにも…」


俺は慌てて目を逸らす。凪沙は不思議そうに首を傾げた。


「きっとおにいちゃん、凪沙さんの美貌に見惚れちゃったんだよ」


明里がからかうように言った。俺はバッと顔を上げる。


「ち、違うって!俺はそんなこと思ってな…」

「えー、おにいちゃんひどーい。じゃあ凪沙さんなんか眼中にないんだ?」

「いやっ、そういうわけじゃ…」

「じゃあ好きなの?」

「それは無理矢理すぎるだろ!」


俺と明里が押し問答をしていると、パン!と勢いよく手が合わさる音がした。


「ごちそうさまでした」


そう言い放つと、凪沙は自分の分の食器を持って台所に歩いて行った。


「あ…」


俺は力なく声を出した。もしかしたら何か機嫌を損ねてしまったかもしれない。


「私もごちそうさま」


明里も自分の食器を持って立ち上がり、すたすたと歩き出した。俺は妹に少しだけ恨めし気な視線を送ってから、味噌汁を一気に飲み干した。




「行って来るね凪沙さん!」

「俺は終業式だけだから、昼までには帰るよ」


制服に着替えた俺と明里は、玄関に立つ凪沙に声をかけた。


「私は家にいるから。いってらっしゃい」


手を振る明里に微笑んで、凪沙も俺たちに手を振った。



家を出ると、相変わらずの暑さが俺たちに襲いかかった。セミの大合唱が鼓膜を震わせ、強烈な日差しが降り注ぐ。


「いいなあ。おにいちゃんは今日で学校終わりで」


後ろで手を組んだ明里が横顔を向けた。


「終業式、中学は明日だっけか?」


「うん。早く夏休み入んないかなー」


短めのボブを揺らし、明里が唇をとがらす。


「お前受験生なんだから、勉強もちゃんとやるんだぞ?」


俺は目を細めた。すると明里はくるっと体を俺に向け、


「言われなくても、勉強ぐらいやってますう。

じゃ、おにいちゃんまたね」


そう言って、明里は中学への道を歩いていく。


「…またな」


俺は横断歩道の前で、一人ぼそっと呟いた。




教室に入ると、空気が一気に涼しくなった。体から力が抜ける感覚を覚えるが、反対に俺の心臓はバクバクと音を立て続けていた。


俺は教室を見渡す。


生徒たちが和気あいあいと話している。既にほとんどのクラスメイトがいたが、そこに岩田永治の姿がないことを確認して俺はほっと溜息を吐く。


後ろ側を通って自分の机にバッグを置く。


もう一度教室を見渡し、女子と談笑する杵村さんの姿を見つける。


俺はバッグから一枚の紙を取り出し、杵村さんのところへ向かおうと一歩踏み出した。



が、その時。


「みんなおはよう!間宮はもう登校してきているか?」


教室の前の扉が勢いよく開けられ、額に汗を滲ませた担任教師が声を張り合げた。


「いますけど…」


押さえ気味に声を出し、俺はそっと手を上げた。


「間宮。ちょっと職員室に来てくれ」


そう告げた担任は俺に手招きした。教室中の視線が俺に集まり、少し耳が熱くなる。


「はい」


俺は小さく返事して、担任と一緒に教室を出た。


特に会話を交わすでもなく、蒸し暑い廊下を歩く担任の背中を追った。


職員室に入ると、教室よりも冷房が効いていて少し身震いした。


担任は自分の席へ着く。教科書やら書類やらが山積みになっていて、机上はごちゃついていた。


「間宮、急に呼び出して悪かったな」


担任はニカッと白い歯を見せた。俺は軽く頭を下げる。


「単刀直入に聞くが…昨日、岩田たちに喧嘩を仕掛けられたというのは本当か?」


予想通りの質問に、俺は無言で頷いた。担任は「ふむ…」と小さく唸って、顎に手を当てた。


「岩田からは、『自分たちが一方的に喧嘩を売っただけだ』と聞いている。ということは、間宮は正当防衛をしただけなんだよな?」


俺は少し目を丸くした。てっきり岩田は俺に殴られたと告げ口すると思っていた。だから俺は教師から大目玉を喰らう覚悟ぐらいはして来たつもりだったのだが…


「おい間宮?先生の話聞いてるか?」


担任が困ったような笑みを俺に向けていた。俺は顔を上げる。


「はい。えっと…なんでしたっけ?」


俺が聞き返すと、担任はハンカチで額の汗を拭って言った。


「昨日の喧嘩は岩田が一方的に仕掛けただけで、お前は何も悪いことはしてないよな?」


俺は小さく頷いた。実際のところ俺は岩田に手を上げたのだが、担任がそのことに触れようとせず、むしろもみ消そうとしていると感じた。


「よし、わかった。何も怪我はないか?」


「はい。大丈夫です」


俺が答えると、担任は満足気に頷いた。


「これで話は終わりだ。俺はこれからちょっと他の先生方と話をしてくるから、朝のホームルームは教室で静かに過ごすようみんなに伝えといてくれ」


担任は椅子から立ち上がった。そしてくるりと踵を返し、どこかへ向かおうとする背中に俺は声をかけた。


「先生」


「ん?」


担任が振り返る。


「あの…今日、岩田って…」


「ああ。岩田は今日は学校に来ない。昨日あの場にいた他の二人もな。奴らは停学処分だ」


「え…」


俺は一瞬言葉を失う。担任は少し笑って後頭部を掻き、


「まあ今日から夏休みだから、停学といってもアレだがな。じゃ、先生はもう行くぞ」


担任はそそくさとその場を去って行った。

何だか俺は拍子抜けしたような気がした。



*******


体育館での終業式を終え、昼前にはもう放課となった。夏休みが始まったことで、みんな顔に笑みを浮かべてワイワイと教室を出ていく。


「杵村さん」


俺は机で日誌を書いているおさげの女子生徒に声をかけた。杵村さんは顔を上げ、少し眠たげな目を俺に向けた。


「間宮くんから話しかけてくるなんて珍しいね」


杵村さんはにこっとした。俺は苦笑して、肩から下げたバッグから一枚の紙を取り出す。


「本当にギリギリになったけど、これ」


俺が杵村さんに差し出した紙。

それは先日提出を迫られた、進路調査票だった。


「あ、ようやくだね」


杵村さんは笑顔で受け取り、紙面を眺めた。

俺も自分の調査票を上から覗き込む。


そこには、「進学」とだけ書かれていた。


具体的にどこへ進学するのかは全く書いていない。というか全く思いつかなかった。


「悪い、遅くなってしまって。言ってた通りまだ出してないのか?」


俺が尋ねると、杵村さんは笑って言った。


「全然いいよ。だってほら」


杵村さんはスクールバッグから進路調査票を取り出し、俺に向けてきた。


「え…」


そこには、何も書かれていなかった。


まっさらな白紙だった。


「私、最初から白紙で出すつもりだったから」


杵村さんが少し首を傾けた。おさげがふわりと揺れる。


「大学、行かないのか?」


俺は尋ねた。うちの高校は一応市内では二番手の高校だし、杵村さんの成績は確か学年トップのはずだ。当たり前に大学へ進学すると思っていた。


「んー、正直わからないんだよね」


杵村さんはペンを顎に当て、天井を見上げた。


「自分のやりたいことが見つからないっていうか。そんな状態で適当に大学行って適当に大学生やるのもなんだかなぁ…って。かといって就職していきなり社会の歯車やるのも、違う気がするし」


「だからこそ、みんなとりあえず大学に行って四年間の猶予をもらうんじゃないか?」


大人になった自分が何をしたいか、明確なビジョンを持てる人は少数派じゃないのか。


「まあそうなんだけどね…。でも、モラトリアムの延長が目的で大学行く、ってあまりにも動機が不純だと思うのよね…」


その言葉を聞いて、俺はハッとした。そして杵村さんに話しかけたもう一つの理由を思い出した。


「あのさ、杵村さん」


「ん?」


杵村さんが俺の顔を見る。


「『やらない善よりやる偽善』ってわかる?」


「……」


杵村さんはポカンとした様子だ。俺は構わず言葉を続ける。


「動機はどうあれ、結果として誰かを救ったり幸せにすることが出来たら、例えそれは偽善だろうと良い行いになり得る、ってことなんだけど。…昨日の話、覚えてる?」


「メサイア症候群の?」


杵村さんの返答に、俺はこくりと頷く。


「杵村さんは自分のことを『偽善者だ』って言ったけど、結果として俺は杵村さんのおかげですごく助かってる。だから、杵村さんは偽善者なんかじゃないと思う」


「間宮くん…」


杵村さんが俺の顔を見つめる。


「だからさ、大学へ行く動機なんてのもどうでもいいんじゃないのかな。自分が大学に通えて良かった、って後から思えたんだったら、きっとそれは正解なんだよ」


俺は言いたかったことを全て言い切って、少し息を漏らす。数秒間の沈黙が流れ、杵村さんが口を開く。


「ふふ、間宮くんはカントの宿敵だね」


「え?関東?」


俺が聞き返すと、杵村さんは口元に手をやって笑みをこぼした。


「カントは、昔の哲学者の名前よ。行動の動機を重視した人なの」


「そ、そうなんだ」


そう言えば倫理の授業でやったような。俺は首を捻った。


「…ありがとね」


杵村さんが小さく呟いた。俺は一瞬どきっと心臓が跳ねた。


「い…いや、別にお礼を言われることじゃ…」


「あはは。間宮くん、顔赤くなってる」


俺はバッと周りを見渡す。もう教室には俺たち以外誰もいなかった。安心して胸を撫で下ろす。


「今回は白紙で出すけど、大学のこと少しは考えてみるね」


杵村さんが机に視線を戻して言った。俺は少し微笑む。


「うん。…それがいいよ」


そう言うと、杵村さんが腕を上げて「んー」と伸びをした。豊かなバストが少し揺れ、俺は目を逸らした。


「もしお金と時間の心配を全くしなくていいのなら、何年かかけて世界中を旅して回りたいなあ」


杵村さんの言葉に俺は笑った。


「なんだそれ」


俺が言うと杵村さんも笑った。なんというか、すごく平和で和やかな空気が流れた。


「じゃあ、俺帰るわ。進路調査票、よろしく頼む」


俺はスクールバッグを肩に担ぎ直した。杵村さんは日誌から顔を上げた。


「うん。じゃあまた、二学期に」


俺は小さく手を挙げて応え、日の光が差す教室を後にした。













































































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