10-4:第1章
――――エレベーターの扉が開く。
「お帰りをお待ちしておりました。
エイジ坊ちゃん」
着いた先は29階。
エイジが盗み見た案内板には、このビルは28階までしかなかった筈である。
しかしエレベーターの階数表示には、30階まで表記があった。
オフィスビルと言った印象のこの建物で、扉の向こうに広がる景色は異質だった。
まるでホテルのVIPルームを思わせる部屋で待っていたのは、燕尾服の女性だった。
全面絨毯の柔らかな床を踏みしめ、深々とお辞儀をする女執事に一歩近づくと、エイジは嫌そうに言葉を返す。
「ジジ。
僕は『坊ちゃん』なんて呼ばれる年齢じゃ、とっくにないんだけど?」
「いいえ坊ちゃん。
バイリーフコーポレーションの御曹司。
次期総帥であらせられる坊ちゃんは、このジジにとってはいつまでも坊ちゃんでございます」
瞼の奥からチラリと覗いた眼光は強い。
その優しげな振る舞いは正しく彼女の雰囲気を柔らげているが、エイジにとっては“そんな甘い人物ではない”とわかりきった相手だった。
あくまで好意的にこちらを見ている誘拐犯の姿を見て、エイジは何かを悟って溜息をつく。
「あー……なるほど。
アイテムの“送り先”はウチか……。
始めから掌の上だったってことね……」
「情報の少ない中で、よくお気づきになられましたな……!
流石は坊ちゃんです」
「よしてよ。
自分では失踪したつもりでいて、初日でとっとと僕の居所もやってることも掴まれていたんじゃ、アンタらが絡んでいない方が不思議だよ」
「一つだけ訂正致しますと、弊社がアイテムを求めていたのは本当でございます。
決して坊ちゃんに対する罠として用意した話ではありません。
アイテムに関する仕事を地元ギャングに依頼し、様子を伺っていたところ、偶然坊ちゃんの消息を掴めたのでございます」
「僕が見つかったのは運が悪かったからだって……?
どうだか……いや、そうか……」
「お二方。
話のテンポが軽快すぎて、私にはさっぱりです。
私の業務は完了出来たことですし、お暇しても?」
慇懃無礼に皮肉を込めて、エイジの後ろに控えた口髭の男は、『詳しい事情に興味はない』とばかりに退勤を希望する。
「ああ。そうでしたね。
ここまでくれば後は帰るだけですので、人手は足りています。
ご苦労様でした」
ジジが許可を出すと、口髭の男は一礼だけして、とっとと乗ってきたエレベーターで帰っていった。
「いいのかい?
彼がいないと、僕もやりやすいけど?」
「ええ。今の坊ちゃんなら問題ないかと。
“夜勤”の社員も控えておりますし、なにより、もう十分でしょう?
“逃避行”の初日であっさり捕まって、しばらくは心も折れて、脱走も諦めてくださるのがいつもの流れです」
「知った風な口だねえ。
“いつも”とは言っても、まだこれで4回目だろう?」
「インターバルに10年は大人しくしていただけるので、今回もそうしていただけると助かります」
「……今までのは諦めたんじゃなくて、飽きただけさ。
僕にだって心残りが出来ることもあるかもしれないよ?」
「ふむ……。
では私共も、警戒を怠らないようにするとしましょう。
…………ピヴァ=グロヅェ=ヴェフェル;レセプション=アレンジをお願い致します」
『畏まりました。
お客様、お飲み物はいかがいたしましょう?』
ジジが呪文を唱えると、どこかから機械音声が聞こえる。
「珈琲を。ミルクも砂糖も要らないよ」
『
「では私はブラックティで――――ダージリンにしましょう。
勿論ミルクは別で」
機械音声とは思えない流暢な発音。
けれど安物機材の音声通信のような、通信が不安定な時のようなノイズが、わざとらしく音声にかかっている。
二人は慣れた様子で機械音声に注文を付ける。
*
『ピヴァ=グロヅェ=ヴェフェル』とは、“セントラルAI”に分類される音声認識人工知能(音声認識AI)である。
因みに、『呪文』だとか『呪文ロボ』とかいった俗称が浸透している。
『家事、接客、生活補助のためのサポートAI』という触れ込みの、要は『声で指令を出すだけで、連携された機械等を自動で操作してくれる』ロボットだ。
呪文AI自体には何か実作業を行う機能は無い。
『人の音声を認識・識別し、指示通りの動きを行う』といった行為に特化している。
このような判り辛い名前になった経緯は、初号機販売当初、『音声認識が過敏すぎて誤作動を起こす』といったクレームが相次いだからである。
当時はほとんど人名に近い、『人が声に出して呼びやすい名前』で運用されていた。
その結果、『映画のセリフに反応して起動する』『別の単語を話している時に誤作動で反応した』『全世界の人々が語り掛けるAIと同じ名前に産まれてきてしまった俺は、一体この先どう生きればいい?』と、そんな苦情が寄せられた。
その結果このような覚え辛い名前に産まれ変わり、音声認識の誤作動が殆ど確認されなくなった現代にも、その名前が残されているというわけだ。
*
現在、ジジの目の前にある大きな机以外、この部屋に家具はない。
“呪文AI”はまず、リクライニングシートとサイドテーブルを運んでくる。
運んでくるとは言っても、キャスターをからから引っ張ってくるわけではない。
エイジの目の前に背骨のような支柱が、床下から生えて伸びあがってくる。
背骨は内側から肋骨を伸ばす。
骨盤が地面と水平方向に角度を直し、前に飛び出す。
肋骨は風船のように膨らみ、そのまま背もたれになった。
骨盤は裏返ると、座り心地の良さそうなクッションになっていた。
カーテンレールをゆっくりと開け閉めする程度の音しか起こさず、とても滑らかな動作だった。
エイジの目の前に十数秒で椅子が生まれた。
あまりにメカメカしいそのヴィジュアルは、あまり美的センスが良いとは言えないかもしれない。
「まだこんなものを使ってるの?
新進気鋭の
エイジは椅子を引くこともなくそれに座る。
椅子はエイジの姿勢に合わせて、自動で角度を調整している。
「いえいえ。
ここには身内の人間くらいしか立ち寄りませんから。
それに、新しい物を率先して取り入れていくのは、それはそれで若手企業にはふさわしい振舞いではありませんか?
……ただまあ、まだ若手と言っていいのか、微妙なお年頃の弊社では御座いますが」
「それもそうか」
奥の扉が自動で開き、隣の部屋からサイドテーブルが滑るようにやってくる。
どうやらホームオートメーションの家具家電は全て隣室にあるようだ。
エレベーター直通のようなこの部屋で、長々と座って話し込む想定がされていないのも当然である。
滑ってやってきたサイドテーブルには、自動調理されたささやかな茶菓子と共に、注文通りの飲み物を乗せている。
「そうだ……これ!
一応必要なんでしょう?
今のうちに渡しとくよ」
投げ渡したのはエイジ達が“アイテム”だとして運んでいた、黒い箱。
ジジはそれを軽くキャッチして懐に仕舞うと、サイドテーブルから紅茶とミルクを受け取って、元から部屋にあった大机に置きなおす。
自分は椅子に座らず、立ちながら優雅な仕草で紅茶にミルクを混ぜている。
「ありがとうございます。
一応ダミーの箱ではあるのですが、一応この中にもアイテムを開けるための『鍵』のようなものが入っていまして。
無くても困ることはないのですが、多少手間はかかってしまうので助かりました」
「へえ。一応意味はあったんだ!
――――まあ、どうせ今頃お仕事を頼まれた人が、隣のホテルに届けに行ってるだろうけどね」
「ええ、まあ。
坊ちゃんが持っていなかったとしても問題ありませんでしたね。
既に何グループかが現地へと到着して――――
……どういう意味でしょう?坊ちゃん」
含みのある言い草に引っ掛かりを覚え、ジジは紅茶を飲む手を唇の目の前で止め、エイジに問い直す。
「あれぇ?ジジぃ……?
ちゃんと無事にシーカはそっちに辿り着いたよねぇ?
心配だなあボク……」
「は……?」
目を見開いた後、ジジは正面の斜め上、虚空を見つめる。
「……今、部屋に到着したシーカ様を確認いたしました。
坊ちゃん……意趣返しに少しでも驚かせようという魂胆ですか?」
「やだなあ。
君に対する、ちょっと悪戯ちっくな気持ちはあったけど、『任された仕事はしっかりと完遂する』っていう大人としての良識だよお。
――――負けっぱなしで帰らされるのは癪だからね」
「……左様で御座いますか
いずれにせよ、こちらでもう少々お待ちいただきます。
一つ上の階で行われている商談が済み次第、合流して屋上のヘリに搭乗します」
「なるほどねえ……。
はいはーい。
じゃあ僕らはゆっくりティータイムだね」
エイジは天井を眺めながら、ゆっくりとコーヒーカップを口に運んだ。
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