9-3:第1章

「何……を……?」


 優しい声が耳に届いて、シーカはエイジの瞳を見返す。

 突然疑いをかけるような言葉を放った割には、馬鹿みたいに優しい声だった。

 だからだろうか。

 非難するような口ぶりならば、きっと彼女は今まで通りの『灰色』で居られたような気がする。

 確信を持った声で『嘘』を咎められたとしても。

 きっと彼女は何も変わらないで居られたように思う。


 目の焦点を合わせないように、人と話す時は目の奥に力を入れて、わざと視界をボヤかせていたりした。

 遠くを眺めていたりした。

 相手の顔の、どこか一部分をジッと見つめたりした。


 だから、初めてちゃんと見る、エイジの顔と、その瞳。


 今まで感じていたより、ずっと幼い印象を受ける少年の顔。

 街中を走り回って、その時彼はいつも先を行くように、バジュラと、シーカを引っ張っていってくれたから。

 もっと大人の顔をしていると、勝手に思っていた。

 だからだろうか。

 その瞳の奥にある『ゆらぎ』が、願うような、祈るような、そんなものを映しているように思えてならなかった。


 ただ疑惑を追及したいのではなく。

 ただシーカを『灰色』で無くしたいのではない。


 瞳の奥に何気なく隠された、その『必死』な少年の姿を覗いたから。

 だからシーカは声を出してしまっていた。

 エイジのことを、そしてここにはいないバジュラのことを、このたった半日で好きになっていったから。


「はじめから。

 会った時から、君は『灰色』じゃないって、知ってた。

 それに……ねえ、気が付いてた?

 “お仕事”を受けに行ったあの部屋で、君ったら怖かったのか、事あるごとに僕の手を握りなおすんだもの。

 可愛かったし演技は出来るようだけど、嘘を吐くのが得意なタイプではなさそうだね!」


 誰にも気づかれていなかった。

 出会った人全員を騙しきれていたかは、流石にわからない。

 それでも、初めて会ったその時に気付かれることなんてない。

 少女は目を見開いた。

 ひた隠しにしていた、心ある振る舞いを、今はもう抑えられない。


 思い出話を嬉しそうに語るエイジの姿は、いつか観た映画でお別れを言う役者と、同じ笑い顔をしていた。


「僕も、『灰色』になりかけたことがあってね。

 だから、わかるんだ。

 心が死んだ人間は、そんなに強い瞳をしていないよ」


 胸がきゅっと締められる。

 シーカは、自分が人の機微に聡いとは思っていない。

 人生を、まだ十六年しか過ごしていない。

 だから、人の様子を見て『この人は今こんな気持ちだろう』なんて、それはきっと妄想と変わらない。

 それでも彼に『灰色』のフリをして見せることは、なんだか良くない行いだという気がした。


「ふと鏡を見た時、

 『ああ。死体の目をこじ開けてみても、こんなに生きる気のない目玉は入っていないだろうな』。

 そんな風に思った。


 残念ながら、僕は“本物の死体”を見る機会を永遠に失ったけどね。


 だから比べることは出来ないけれど、きっと死体になるよりも残酷な、不死ジンセイの先にあるのが灰色なんだ。


 きっと僕らは『死なない体を手に入れた』んじゃない。

 『死ねない呪いをかけられた』んだよ。


 ねえ、シーカ。

 多分君は、僕よりずっと若いんだろう。

 だから別になんてことはないのかもしれないけれど。

 おじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの、もしかしたらそれより上のおじいちゃんからの忠告だ。


 壊れる程絶望もしていないのに、壊れたフリをするのはやめなさい。

 いつか『演じていたはずの自分』に、引っ張られて連れていかれてしまうよ。


 なんの根拠もないけどね」


 少年が一瞬、少年でなくなる。

 エイジが話している途中、ふと彼が本当に、一瞬で老いてしまったかのように見えた。

 まるで『演じている自分』に引っ張られていたのを、ほんの一瞬の間だけ忘れていたかのような。


 彼の言葉を蔑ろにするときっと後悔する。

 その寂しそうな笑顔は、そんな予感をシーカに与える。


 シーカは圧倒されて頷いた。

 彼の、どこか包み込むような、不思議な感覚のする圧力に。

 きっと、もしかしたら数百年を生きてきた中で、なにかを思い知らされた経験が、今の彼を作っているのだろう。


 シーカにはまだまだわからない。

 彼の見てきた景色は、どれほど灰色に染まっていたのだろう。


「よし!

 じゃあ改めて、よろしくね!シーカ!」


 嬉しそうに笑う彼は、少女の知っているエイジに戻っていた。

 差し出された手を、シーカは初めて自分の意思で握り返す。


 なにか言葉で彼に伝えたかった。

 けれどずっと乾かしていた喉では、うまい言葉が出てこない。


 もどかしさに口の開閉を繰り返していると、エイジはちょっと微笑ましそうな顔をして、けれどもさっさと自分の言いたいことを言う。


「さあシーカ!

 君にはやってもらいたいことがある!

 “ただのシーカ”に進化した君なら出来るはずだ!


 まずは、出来ればおねーさんを止めて欲しい。

 こっちはこっちでなんとでもするからって。


 ……ディムはヤバすぎる。

 今まで見てきたサイキックの中で、アレほど戦闘に鹿は見たことがない。


 場所がわからないかもしれないけど、多分わかったら来ちゃうでしょ?あの人」


 とりあえずシーカは勢いよく首を縦に振る。

 言葉が思い浮かばないのならせめて、身振り手振りを大袈裟にした。


「頼んだよ!

 ……とはいっても、これは出来たらだね。

 おねーさんのこと、深くは知らないけれど、何故だかここに忍び込むくらいのことはしそうなイメージが湧くんだ……。

 今日初めて会った僕を、わざわざ助けにくるかもって。

 これは“期待”かな?

 それとも、“予感”かな?

 不思議だねえ……!

 臆病な印象しかないのに……。


 まあいいや!

 後は自己責任!

 と、いうわけで、本題はこっち!」


 遠くを見つめ終わったエイジは、そう言うと丸めた冊子を手渡す。

 それは三人が出会ってすぐに買った、この街のパンフレットだった。


「ふふふ……!

 これは僕らの思い出の……いわばユウジョウの証!!!

 これを僕だと思って大切に――――わかった!ごめん!

 遺言みたいな冗談はやめとくよ!」


 灰色ではなくなったシーカは、つまらない冗談を言えば容赦なく睨みつけてくる。

 言葉は出てこなくても、それくらいは朝飯前なのだ。


「まあ、今のシーカならわかるでしょ。

 この地図で約束の地へ。

 ってやつかな?

 ……後は君に任せた。

 せっかくだから――――勝利で終わろうぜ?」


 最後の言葉だけ、シーカの耳元に近付いてから小声で話す。


 それを不審に思ったのか、流石に口髭の男が待ったをかけた。


「エイジ様。

 今渡された物は――――」


「あー!違う!違うって!

 “アイテム”じゃないよ!

 これはそこらで売ってるただの地図!

 仕事に成功したらここへ遊びに行こうって約束してたんだ!

 マーキングまでしたんだよ!?

 僕の分まで楽しんで!くらい言ってもいいじゃない!」


 エイジは左手のパンフレットを上に掲げて、もう片方の手でズボンの右ポケットに入れていた黒いケースをちらりと見せた。


「左様でございますか……。

 ですがそろそろ、お時間宜しいでしょうか?」

 

 不承不承といった表情を作りながら、パンフレットの受け渡しくらいは認められる。

 その腹いせというわけでもないだろうが、流石にその後、口髭の男はエイジを急かした。


「おっけー!

 ありがとうね!時間を作ってもらって!


 ――――シーカ。後は君次第だよ。

 ……正直、何も気にせず、君は好きにすればいいと思う。

 元はと言えば僕が『大きなお世話』で勝手に連れてきただけだからね!

 だから、これから君が今日一日を無かったことにして、またあの公園で灰色に戻っていたとしても、僕は何も言わないよ」


 エイジは、一度は口髭の男の方へ向かうために歩き出して、その後くるりと振り向いて、後ろ歩きになりながら語る。

 シーカは髪を振り回すように大きく首を横に振る。


 そうしてすぐに少女はくるりと振り返り、走り出す。



 出口まで駆け出した少女を見送ると、口髭の男はさして興味もないといった感じでエイジの傍に寄る。


「あの少女。

 灰色ではなかったのですね。

 でしたら、人質役として残っていただいても良かったかもしれません」


「……ヘソを曲げて暴れまわるよ?

 それに、何もしなくてももう君の仕事は終わるよ。

 僕は素直に付いて行く。

 おたくの企業に、アイテムの用途を尋ねにね」


「……なるほど。

 でしたら、余計な荷物となりますね。

 あなた一人なら、私から逃げ出すことはまず不可能でしょうから」


 エイジは自分を誘拐した男に連れられて行く。

 エントランス正面すぐに見えるエレベーターを素通りして、奥の非常口のような扉を抜ける。

 薄暗い廊下。

 その更に奥に進めば、エントランス正面にある大人数用のものよりも、随分と小さなエレベーターが見えてくる。

 口髭の男が呼び出しボタンを押せば、扉はすぐに開いた。

 中に入れられ、奥の壁際まで誘導されると、上の階へ向かうボタンが押される。


 そしてエイジの乗った、狭い狭い箱の、扉が閉まる。

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