2「レザージャケットの女」:第1章

 荒野を駆ける一台のバイク。


 握ると猿がぶら下がったような格好に見えることから『エイプハンガー』と呼ばれる、ハンドルの位置が高いバイク。

 このバイクはサドルシートが通常より若干低くされており、殊更にハンドルが高く見える。


 このまま北北東へまっすぐ進めば、そこは『金と快楽と暴力の街』“ニュータウン”。


 少し違和感のあるリズムで、バイクは低いエンジン音を吹かす。

 急ぎ過ぎないペースで進む単車は、昼前の快晴を浴びて車体を焦がしていた。


 それに乗るのは黒髪の女性。

 耳が見えるショートヘア。

 ゴーグルタイプのサングラスをかけているのでハッキリとはわからないが、歳は見た所二十半ば頃。


 丈が短い黒のジャケットは、冷感仕様のフェイクレザー。

 暗めな色のスキニージーンズは、デニムの耐久性と柔軟性を従来品より向上させた製品。

 インナーは淡い白のタンクトップ。

 パンツの裾を仕舞っているブーツは、少し底が厚く、踵が少し高め。


 彼女のコーディネートは全て老舗ブランド『RaVEN’s』のものだ。

 身につけているアイテムは随分昔に発売されたものばかりで、古着っぽい印象を受ける。


 女性は荒野の逆風に眉を顰める。

 今日は風が強く、少し乾燥気味で、正面から受ける風圧の中にたまに砂埃が混ざっていた。



 ────暑さを言い訳にフルフェイスを嫌ったが、流石に今日この道を行くならノーヘルは失敗だったか。


 そんな後悔をしたところで今更だ。

 普段から窮屈がって埃を被らせているヘルメットは、ガレージにある工具棚の上に……いや……確かコートラックの一番上にかけっぱなしだっただろうか。────



 エンジンは止めず、程よい岩場を日よけにしての小休止。

 ソフトパックの煙草を、ジャケットの胸ポケットから取り出す。

 入れ物を軽く振り上げ、その勢いで煙草を取り出すと、そのまま口に迎え入れて咥える。


 振った時に違和感を覚えて、眉を顰めるようにして中を見つめる。

 

「ん……。ふー……」


 鼻から抜けるような深い溜息。

 出した時にべこべこと入れ物が平たくなっていて、嫌な予感はしていた。

 ……どうやらこれが最後の煙草だったらしい。


 ソフトパックの悪いところが出た。

 中身がどれほど入っているのか、一目では判りづらいのだ。


 入れ物を睨みつけながら、デニムパンツの右ポケットからジッポライターを取り出す。

 スキニーは突っ張って、ポケットから物を取り出すにも少し苦戦する。

 なんとか取り出して、そのまま煙草に火をつける。


 取り出せさえすれば慣れた動作だ。

 手元を見ることもなく着火した。


 その間も、左手に摘まんだ空の入れ物を睨みつけたまま。

 はじめのひと吸い。

 肺まで入れた紫煙を吐き出す為に、左手で煙草を摘まんで口からどかす。


 だからくしゃりとソフトパックを潰して、そのまま後ろに投げ捨てる。


 捩れた入れ物は木陰に使っていた岩にぶつかって、見事に彼女の左の足元まで戻ってきた。


「…………。

 ……こんな所に墓標か。……珍しいな」


 一度は舞い戻ってきた紙屑へと視線を向けたが、しかし目を逸らすようにしてそのまま何を見るでもなく左へ顔を向けた。

 そこで偶然目に入ったものへ、意識を傾けてみる。


 墓標の文字は掠れている。

 定期的に手入れはされているようだ。

 しかし、流石に長年荒野にポツンと置かれていては、劣化するのも無理はない。


 苗字も没年も掠れて読めない。

 ただ『Mar』の文字だけは読み取れた。


「ふぅー……」


 その深く吐いた息は、煙を吐き出したのか、それとも溜息だったのか。

 しばらく足元のごみを見つめると、更に深く息を吐く。

 煙草の火を地面で消すついでに、それを拾った。


「旅は身軽がいいってね」


 言い訳を呟きながらバイクに乗りなおす。


 人気のない荒野。

 誰に向かって言うでもない、自分自身の浅慮への言い訳。

 強いて言うならば、巻き上がる砂埃で少しひりついた、自分の右頬の痛みに対する言い訳である。


 そう言いながらも拾ったゴミは、丈の短いジャケットの、あばらのあたりに付いたポケットへ。

 如何ともし難い苛立ちと一緒に、くしゃりと乱雑に入れていた。


 バイクは更に北へ、北へ。

 目指す街は“ニュータウン”。

 彼女の日常を塗り替える為の旅路である。


***


 地球とは違う惑星。

 あるいは違う宇宙。

 もしかしたら違う次元。

 違う世界でのこと。


 この惑星ほしの人間が“死”を克服してから、五百年以上の年月が過ぎた。


 『審判の年』だとか『進化の犠牲』だなんて呼ばれる、“ある一年”があった。

 その年、この惑星の人間は例外なく変化を迎えた。


 『不死か、死か』。


 その年、この惑星の人間の内、約三割が死亡した。

 記録に残っていない人間を含めれば、数はもっと増えるかもしれない。


 死にゆく人間は、あるいは病にかかったように、あるいはスイッチが切れるように唐突に────しかしなんの外傷も病原体も見つかることはなく、死んだ。


 そしてその不審死が初めて確認されてから丁度一年がたった頃、死者はぱったりと途絶えた。

 “不審死を遂げた死者”ではなく、文字通り“死者”が途絶えたのだ。



 五十億を超える人間、その誰一人として死ぬことがない一日。


 はじめはそれに気が付いた人間が、面白がって“めでたい一日だ”とネット上で騒ぐ程度のことだった。

 しかしその“めでたい”日が、二日、三日、一週間────カレンダーが次の月に変わる頃には、その“めでたい”騒ぎは、ほんの少しの恐怖と共に、人々に混乱を与えた。


『とある大火災があった。

 現場から救助された、全身大火傷を負った患者が、一月後には痕すら残さず完治していた』


『高所より、頭から人が落ちる事故があった。

 目撃者が、即死は免れないだろうと恐る恐る下を覗くと────そこには死体はなく、あるのは謎の“赤い箱”だけだった』


『車に思い切り撥ねられ、運悪く捜索困難な崖下に吹っ飛んでしまった人間がいた。

 捜索が打ち切りになるかというような時間が経ち、行方不明者本人から“迎えに来てくれ”と電話が掛かってきた』


 そんな不可思議な噂話が次々と現れた。

 

 ────それから数日後、政府は『人類は不死性を手に入れた』と発表することになる。


***


 日差しの強い荒野。

 ようやく見えた街の陰。

 しかし目的地は未だ、遠い。


 女はバイクをのろのろと押し出して進む。


 エンジン音は聞こえない。


「あああ……!!!

 どうしてこう……!私は……!!!」


 苛立ちは汗と共に服に張り付く。

 日光を遮る物がないのはあまりよろしくないな、とは思いつつ。

 しかし既にジャケットは脱いでおり、荷物と一緒にバイクに括ってある。


「嫌な予感はしてたさ……!!

 だけど今日このタイミングで……、“先立たれる”とは、思わないだろ……!!!」


 直接肌を焼く日光も、熱のこもった車体も、無駄に高いハンドルの位置も、全てが彼女の体力を奪っていく。


 煙草休憩の後から、岩陰などの日差しを遮るものは辺りに一つもない。


 カラカラに干からびていく体に絶望を感じながら、それでもなんとか遠くに見える街の影を支えにして進む。


「クソッ……!

 そこに見えているのに、目的地が遠い……」


 ああだこうだと愚痴をこぼしても進むしかない。

 それに今下手に足を止めてしまえば……次に歩き始める気力を集めるのに、一時間はかかる気がする。


 軽自動車を軽く超える排気量を誇るこの大型バイクは、“荷物”と言うには些か重量が大きすぎる。

 長年の相棒だ。

 彼女にとってはスキップするくらいには自然に、上手く押し歩くことなんて簡単だ。


 しかし、体への負荷を減らして運ぶため、三百キロ弱の巨体を“腰で押し込む”ようにして進まなければならない。

 そのため、車体の熱は彼女の全身を溶かしていく。


 一歩一歩進むごとに、首から、あるいは肩から、重力が強くなっていくような感覚がした。

 まるで自分とバイクの体重が混ざり合っていくかのようだ。



 もうすぐ昼を迎える。

 日は更に昇り、気温は上がり続ける。

 進み続けてはいるものの、一向に街の気配が近づいているように思えない。


「…………――――――」


 もう愚痴も口から出てこないほど疲弊した女。

 体力には自信があったが、数十分前からもう、心は折れかけていた。


 たたらたたらたたら……。


 随分と長い間、風の音と、たまに響く鳥の鳴き声しか聞いていなかった。

 だから、初めは意識までその音は届いてこなかった。


 ぶろろろろろろろろ……。


 少し間をおいて、その音が耳にわかりやすく、エンジンの鳴る音だと気づく頃。

 初めて、彼女は表情を変えた。


 焦ったような心地になって、けれどその表情が浮かべたのは不思議と『喜び』ではなかった。

 彼女の顔は、目を見開いて顔を引き攣らせた、『恐怖』の顔と言った方が正しいようなものだった。


 急いでバイクをその場に自立させる。


 思い切り後ろを振り返り、遠くに見える汚れた白いトラックに手を振った。

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