名刺代わりの歌
増田朋美
名刺代わりの歌
少しあたたかくなって来たなと思われたが、また寒い日がやってくるというのが、冬から春に変わるときの、恒例の行事のようなものだ。そういう事を繰り返して春になっていくのだろう。人間もそんなふうにいいことと悪いことを繰り返して、変わっていくのである。それが、自然なのである。少なくとも、何でも順風満帆に行けるということは、ない。
その日は寒かったので、杉ちゃんたちは、雑炊でも食べようかと言って、熱い雑炊を食べていたところだった。やっぱり寒いときにはこれがいいねなんて言って、製鉄所の利用者たちと美味しそうに食べていたその時。
「こんにちは、浜島です。ちょっとレッスンをお願いします。」
あのサザエさんの花沢さんによくにた声の、浜島咲が、製鉄所にやってきた。製鉄所と言っても、鉄を作るところではなくて、訳アリの女性たちに部屋を貸している福祉施設であり、中には、水穂さんのように、間借りをしている人もいる。
「はあ、はまじさんだ。一体何をしに来たんだろうね。ちょっと、行ってみるわ。」
杉ちゃんが、直ぐに車椅子を動かして、玄関先へ行った。
「ああ杉ちゃん、右城くんいる?ちょっと彼女にレッスンしてやってほしいのよ。名前はえーと、」
と咲が言うと、歩行器を操作しながら、一人の女性がやってきた。いわゆるお年寄りが使うような歩行補助機ではなくて、ちょっとおしゃれなデザインの歩行器を使っているところから、まだそれほど歳の女性ではないことがわかった。
「田村梢です。よろしくお願いします。」
そう言って彼女は杉ちゃんに挨拶をした。別に歩行が不自由であるという点を除けば、彼女は特に悪いところもなさそうであるが、言葉の発音がちょっと変で、静岡の人では無いと言うことがわかった。
「はあ、お前さん、どっから来た?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「うちは、大阪から参りました。」
と、彼女は答えた。
「そうなんだ。大阪も広いからねえ。その方言が抜けないって言うのもあるよね。じゃあいいよ。入れ。寒いだろ?」
杉ちゃんに言われて、二人はお邪魔しますと言って、製鉄所の中に入った。歩行器を使用している梢さんでも、段差がないので、直ぐに入れるところが、製鉄所のいいところであった。
「それで、田村梢さんって言ったけね。何をレッスンするのか、教えてくれ。」
杉ちゃんが歩行器を動かしている田村梢さんにそうきくと、
「はい、うちが今回習いたいと思ってきたのは歌なんです。ピアノではないんですけど。歌の先生は、近くにいなかったんで、咲さんに相談してみたんですが、そうしたら咲さんが、右城先生であれば誰でもレッスンしてくれるから、ぜひいったらええと。」
と、梢さんは言った。
「それで、はまじさんにつれてきてもらったのか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「へえ、そういうことです。うちは歌がとても下手なんですさかい、琴の歌い方はどうしてもできなかったんですけんど、咲さんが、西洋の歌を習えば、また変わってくると言ったものですから。」
梢さんはそういった。その発音の仕方とか、言葉の使い方など全く田舎者だ。西洋音楽を習うのであれば、大体の人が共通語を喋るようになっているはずなのだが。
「それでお前さんは大阪の出身だと言うけど、一体どこの出身なんだよ。」
杉ちゃんが言うと、
「うちの出身は木津川です。」
と、梢さんは言った。
「木津川って、どこだろう?」
杉ちゃんも首をかしげるほど、ほとんど知られてない場所である。
「へえ、大阪でも、時間が止まったようだと人によく言われる駅です。ひどいときには、地球が破滅したときのような荒れ果てた場所だって笑われたこともありました。たしかに民家もないし、乗っかる人も少ない駅ですが、電車はちゃんと、一時間に二本走っております。最近では、木津川駅そのものを見に来る、海外からの観光客さんもおりませえ。」
梢さんは説明した。
「なるほど。そういう秘境駅がまだあるんだねえ。そんな電車があるなんて知らなかった。それじゃあ、水穂さんは、こっちの部屋にいるから、思いっきりレッスン受けてこいや。」
杉ちゃんは、そう言って四畳半のふすまを顎で示した。それと同時に咲が、四畳半のふすまを開けて、
「右城くんいる?この人、田村梢さんって言って、事情があるけど、歌はすごいうまいのよ。だから一回聞いてやってちょうだいよ。私と苑子さんのお琴教室に来てくれたんだけど、琴の発声より、西洋の発声のほうがうまく歌えると思ったのよ。」
と、水穂さんに説明した。水穂さんは、相変わらずご飯を食べていないせいか、痩せて疲れてしまっているように見えるけれど、咲や、杉ちゃんの説明で、布団に起きてくれた。
「そうですか。じゃあ、一度、歌ってみてください。歌うときは、アカペラでは難しいでしょうから、伴奏譜があれば貸してください。」
「わかったわ、じゃあこれをお願いします。」
咲は、水穂さんに楽譜を渡した。タイトルは横文字でLascia chio pianga、つまり、日本語になおすと私を泣かせてくださいという意味である。ある映画の主題歌にもなった非常に有名な歌だった。水穂さんは、ピアノの前に座ると、その曲のイントロを弾き始めた。梢さんはちょっと緊張したような感じで、大きく体を振って歌い始めた。
「Lascia chio pianga
Mia cruda sorte
E che sospri
La lieberta」
なかなかな、歌唱力であった。しっかり高音も伸びているし、きちんと歌えている。たしかに邦楽の発声というより、オペラ歌手としたほうが向いている発声で、咲が西洋音楽のほうが向いていると言ったのはなるほどだと思った。
「E che sospri
E che sospri
La liberta」
繰り返しの多いところであるが、きちんと歌えていた。
「Lascia chio pianga
Mia cruda sorte
E che sospri
La lieberta」
「なかなかうまいじゃないか。」
杉ちゃんがそうつぶやくと咲が彼を肘でつついた。
「Il duolo infranga
Queste ritorte
De miei martirii
Sol per pieta
De miei martiri
Sol per pieta
Lascia chio pianga
Mia cruda sorte
E che sospri
La lieberta」
歌い終わると、杉ちゃんも咲もブラボーと言って拍手をした。
「なかなかいい歌だったぞ。これを、コンクールでも出せば、どこか賞でも狙えるんじゃないか。きっと、もっとうまい先生のところに持っていけば、すごい大物になるぞ。誰か、声楽をしている知り合いいないのかよ。」
「そうよ。杉ちゃんの言う通り、なにか記念になるものを残せるわ。それでは、自身持って、もう一回歌ってよ。ほんと、コンクールに行って見たら、審査員も顔負けすること請け合いよ。」
杉ちゃんと咲はそういうのであるが、
「どうですかね。出身地が、木津川で、なおかつ歩行器に乗っているような女性では、安全なところから離れないほうが良いと思いますよ。だって、音楽を演る人って、それなりに、プライドが高い女性が多いから、そういう田舎者は、格好のいじめの標的になってしまうことでしょう。」
水穂さんは心配そうに言った。
「また右城くんはそういう悪いことばっかり言う。それよりも、彼女の歌はどうだったか、音楽の専門家として、褒めてやってよ。」
咲が直ぐにそう言うと、
「そうですね。たしかに、歌声としては、良い声質ですし、オペラの発声を習えそうな素質があると思いますが、それがすべてでは無いですからね。」
と、水穂さんは言った。
「右城くんは、彼女と、自分の事を重ねてみてるから、そういう後ろ向きな評価しかできないのよ。でも、少なくともあたしは、その歌声はとても良いと思った。他にもイタリア歌曲は知ってる?例えば、ほら、ああ私の優しい熱情がとか、もしあなたが私を愛してくれてとか、そういう大曲をやってもいいと思うの。」
咲が嬉しそうにそう言うと、
「うち、そんなの知らないです。ただ、この曲は、うちのおばあちゃんが持っていた本に書いてあったから、覚えてしまったようなものです。」
と、梢さんは答えた。
「へえ、お祖母様が、歌の先生だったの?」
杉ちゃんが聞くと、
「そういうわけでは無いんですが、ばあちゃんは、すごい西洋かぶれでした。だから、西洋アンティークとか、そういうものがうちにはいっぱいあるんです。でも、それともお別れです。母が、それを売って、お金を作ることのほうが大事だって、うちに言うものですから。だから、本だけは、うちが持っていたいっていうて、うちが持ってるんです。」
と、梢さんは言った。
「はあなるほど、それじゃあお祖母様も喜ぶわね。そうやって、自分の残していた本を有効活用することができたんだから。それなら、あたしはなおさらあなたにコンクールに出てもらうことをすすめるわ。コンクールに出て、いろんな人達に批評してもらえば、あなただって自信がつくでしょうからね。そうすれば、歩行器に乗ってても、世の中へ出られるんだって、すごい大きな足がかりになると思うわよ。」
咲はそう言って、水穂さんに目配せした。水穂さんは、彼女をコンクールに出させるというのはちょっとという顔をしたが、
「今は、誰でも音楽を楽しんで良い時代だぜ。身分がどうのというのは、ちょっと時代遅れだ。」
と、杉ちゃんが言うので、
「そうですね。コンクールに出るのもいいけれど、どうせなら、誰かと歌声を共有するというのもまた楽しいのでは無いでしょうか。それでは、地元の合唱団とか、そういうところに参加してみたらどうですか?」
と、水穂さんは、静かに言った。
「幸い、合唱団の多くはウェブサイトを持っていますし、そこからどんなのを歌ってきたのか知ることもできると思いますので、どんなところなのか知ることができますよね。」
「そうか!私も賛成。合唱団に入ればずっと楽しいわよ。富士のコーラスの集いとかそういうものにも出られるし、毎日練習もして、毎日が楽しくなるんじゃないのかしら。ねえぜひ楽しくやってみてちょうだいよ。そういう事をして、楽しんで良い世の中なのよ。」
水穂さんのしてくれた提案に咲は乗った。そういう事をして、できるだけ彼女には前向きにしてくれるようにしてもらいたかった。直ぐに咲は、スマートフォンを出して、合唱団の在り処を調べてしまった。
「ほら、こういうふうに、青いバラ合唱団とか、有名なところはちゃんとあるわよ。ぜひ、こういうところに入ってみてちょうだいよ。きっとね、生き生きしているところを見せれば、変わってくることができるわよ。私、心から応援するわ。梢ちゃんはきっとやれるわよ。ちなみに、青いバラ合唱団は、富士の文化センターで、練習しているそうだから、見学に行っても良いんじゃないかしら?」
咲はそう言って合唱団のウェブサイトを見せた。水穂さんが、
「確かに青いバラといえば、富士市内でも有名な指揮者がやっている合唱団ですね。確か、一度、共演させてもらったことがありました。割りと、穏やかな人が多いかもしれないです。」
続けていってくれたので、
「わかりました。うち、そこへ行ってみます。今まで何も自信がなかったけれど、こうやってうちのことを、よいしょよいしょしてくれて、一緒に考えてくれる人がいるなんて嬉しいです。うちは、いつでも、必要とされることなんてなかったですから、こんな偉い方が、こうしてうちの事を考えてくれるなんて、本当にうちは嬉しいです。」
と、梢さんは決断してくれたようだった。なんだか咲も、そういう事を言ってくれて、本当に嬉しいなと思った。困っている人が、前向きになってくれるというのは、どんな人にも嬉しいものであるのだろう。
それから数日が経って。その日は水穂さんも調子が良かったので、久々にピアノの前に座って、簡単な曲を弾いたりしていた。今日はあったかくて良いななんて言いながら、杉ちゃんは縁側で着物を縫っていたところ。
「右城くん、杉ちゃん、また相談があるのよ。ちょっと聞いてくれない?」
また花沢さんのような声がして、咲がやってきた。またキャスターを引きずる音も聞こえてきたから、多分田村梢さんも一緒に来たのだろう。
「ああ良いよ、今日は、水穂さんも布団から起きてるから、なんぼでも相談に乗るよ。」
と杉ちゃんが言うと、咲と梢さんは、じゃあ入らせてもらうわねと言って、製鉄所の中に入ってきた。
「それで、相談って何の話だよ。」
とりあえず、水穂さんも杉ちゃんも、みんな縁側に集まった。
「実はねえ、あの、青いバラ合唱団に入るって言ったでしょ?その先生が、声楽の指導を専門的に受けたことがないっていう人は、家の合唱団には入らせないって言うのよ。だから、どうしたらいいか、相談に来たわけ。三人よれば文殊の知恵よ。まさかと思うけど、右城くんは、そうなって当然だなんて言わないであげてね。」
と咲は、事情を説明した。たしかに梢さんはちょっと落ち込んだような顔になっている。それが動かぬ証拠であった。
「はあ、そうなんかあ。あれほどいい声をしているのに、それで断るなんて、変な合唱団もあるものだね。」
杉ちゃんがそう苦笑いをしていった。
「例えば音楽学校を出ていないとか、そういうことで入団できないと言われたんですか?」
水穂さんが、そう梢さんに聞くと、
「わかりません。ですが、口が悪いので、うちの合唱団には入らせないって、怒ってました。」
と、梢さんが答える。
「そうですか。やっぱり、そうなるんですね。そういう主催の人って、なんかやたらに気位が高いところがありますからね。それはどうしてなのかよくわからないですけど、主催の人のやりたい気持ちが、勝ってしまうのかな。あるいは、こういう合唱団にしたいとか、そういう思いが強すぎるとか。」
水穂さんがそう言うと、
「まあ確かに、音楽やってる人は、いろんなものごとに対して、感じすぎる傾向もあるからね。嫌な客への態度も強く出ちゃうんじゃないの?でも、諦めないで、他の所あたってみな。一度や二度で追い出されたって、それでいいやくらいで思ってればいいさ。どうせ合うところと合わないところとあるんだからな。」
と杉ちゃんは言ってくれた。
「私としては、すごくいい声してるから、自信持って入ってもらいたかったのよ。それは、いけないことかしら。彼女には、自信を持ってもらいたかったのに。少なくともこないだ、良い声してるって、右城くんだって認めてくれたでしょう?」
咲が、大きなため息を付いてそう言うと、
「まあ、合唱団とか、そういうところって、プライドがやたら高い奴らばかりのところだからねえ。それに負けちゃうやつも少なからずいるよね。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「でもあたしは諦めてほしくないわ。そういうプライドがやたら高くて、他の人を排除しようなんて言うところはろくなところでは無いわよ。あたしは、少なくとも梢ちゃんが、関西弁で喋ろっても、変な偏見を持つことは無いと思う。」
「いえ、咲さん、それは咲さんの解釈でしょう。まず初めに、あったことは、事実として受け取らなきゃ。それをごっちゃにしてしまうから、事実への対処が難しくなるんですよ。」
咲がそう言うと、水穂さんが言った。
「でもねえ、いくら関西弁を話しているからって、あたしは、それだけで梢ちゃんを、排除しようという精神が理解できないわ。なんで、あの先生は、梢ちゃんにもう来ないでくれって言ったのかしら。梢ちゃんは、一生懸命歌ったのよ。ちゃんと歌詞も間違えなかったし、楽譜を見ないで歌うこともできたわ。全く、あの青いバラ合唱団の先生は、そうやって人を選ぶから、歌はうまくても、人間的にはうまくないわよ。」
「いや、世の中はそういうものですよ、咲さん。特に音楽家なんてみんなそうですよ。そういう狭い門を難なくくぐり抜けてきた人は、自動的に、人をバカにしてしまいます。それは、しょうがないと言うかそういう扱い方しかされてないから、そうなってしまうのです。」
水穂さんは、咲の意見に直ぐ反論した。たしかに水穂さんのほうが正しいのかもしれなかった。だけど、なんとなく、悲しいいというか、辛い印象が残ってしまうのはどうしてなのだろうか?
すると、また製鉄所のドアがガラッと開いた。一体誰だろうと杉ちゃんも、水穂さんも驚いた顔をするが、
「あの、すみません。こちらに、田村梢さんと言う方はいらっしゃいますか?ご家族に話を聞いたら、多分こちらにいらしていると言うことでしたので?」
と、中年の女性の声が聞こえた。杉ちゃんがとりあえず、
「まあ、誰であるのか名乗って、部屋の中へ入ってきてくれ。」
と言うと、女性はわかりましたと言って、製鉄所の中へ入ってきた。
「田村さんの歌を聞いたとき、この歌声であれば私達の代表も喜んでくれるのではないかと思いました。私は、白糸合唱団の田川と申します。梢さんの歌を、ぜひ、私ども白糸教のメンバーに聞かせていただければと思いまして。よろしくお願いします。」
「白糸教。ああ、あの白糸の滝の近くでやっている、宗教団体だね。」
杉ちゃんが直ぐに言った。
「それでは社会からはずれるというか、そういうことになると思うけど、でも、良いんじゃないの?歌を歌えるわけだし。」
水穂さんは、複雑な表情をしていた。たしかに、白糸教というとちょっと過激な内容もあり、あまり人が寄り付きたくない宗教団体でもあった。だけど、一応、この女性の心に、梢さんの歌が届いたというのは間違いなかった。それで田川さんがここに来たのだというのも事実であった。
「事実として受け入れろといったのは、右城くんでしょ。」
咲が直ぐにそう言うと、
「うち、やります!」
と、梢さんが言った。水穂さんはなんだか反社会的な勢力にと言う顔をしてしまったが、梢さんは、
「せっかく、うちの歌を聞いてくださったんです。だったら、どんな人にも、お礼として返さなくちゃ。」
と笑ったのであった。
名刺代わりの歌 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます