第21話 悪の秘密結社、血に沈む

「さあ、我らの血に沈みなさい」


 突如として地面から湧き出した血はどんどんとその水位を上げていく。一瞬で視界に収まる範囲の地面は真っ赤に染まり、我々がこの身の毛もよだつ現象に肝を冷やしている間に、水位は足首まで上昇していた。

 エアトリーチェの魔法による明かな攻撃であると判断した私たちは、急ぎ滾々と湧き出す血の池から逃れるために魔女教会へと移動することにした。しかし、どろどろとした赤い水は液体という物質の形状からは考えられないほどの硬度を誇っており、どっぷりと浸かった足首から下を離す気配は全くない。

 水位の上昇は止まることを知らず、このままでは数分としないうちに私たちは血に沈むだろう。そうなれば窒息死は免れない。

 回避不能の死に正気を保てずにメイプルがやたらに暴れて血からの脱出を試みている。


「やめろ。やたらに動いて体勢を崩してみろ。死期を早めるだけだぞ」


 ハゲの言うことは尤もだが、この中で身長が最も低いメイプルは真っ先に血の池に沈むのだ。彼女が怯えるのも無理はないだろう。

 メイプルの様子を見かねて、アウナさんがしゃがみこんだ。「大丈夫です。私も一緒ですから」そう言ってメイプルの小さな手を握った。やさしさに溢れる行為であるが、それはもはや現状の打破をあきらめたようにも見えた。

 一瞬で我々の中の希望の類を悉く奪い去った恐ろしい魔法はインバトの街を阿鼻叫喚の血の池地獄に変貌させた。その光景を空中にいるミチが見逃すはずもなく、身体を翻して我々の下へ向かおうとした。私の命を守るというのが彼女の最も優先すべき命令事項だからだ。


「よそ見はダメよ」


 街を満たす血だまりが一瞬で吹き上がり、その中から血で形作られた巨人のようなものがミチの背後に現れた。

 今までは力の大半をこの大規模な魔法の発動の為に回していたのか、先ほどまでの攻撃とは速度も規模も違いすぎた。

 反応することも叶わずに巨人の拳の直撃を受けたミチは、そのまま血だまりの中へ叩きつけられた。


「ミチィー!!」


 あってはならないその光景を目にしてしまった私は、思わず彼女の名前を叫んでしまった。

 湧き上がる血と一緒に絶望も湧き上がる。私は少しでもの延命のための深呼吸も忘れて、そのまま血の池に飲み込まれた。

 精々息を止めていられるのは一分程度だろう。目と口をぎゅっと瞑って、間もなく訪れるであろう終わりに気が狂いそうになるのを必死に堪えた。

 ふと、瞼越しに光を感じた。

 血に満たされた空間に光を放つ物体など存在するのだろうか。私はその正体を確かめるためにも目を開けようとした。


 私の両の眼に飛び込んできたのは赤一色の地獄ではなかった。

 血だまりは我々の事を嫌うかのように円形の領域を区切っている。その中央にはミチが立っていたが、様子はいつもと違っていた。

 背中から突き出ていた十本の突起物がなくなり、その代わりに細いアームのようなものが左右に一つずつ生えていた。そのアームの先端には人の手を模したようなユニットがついており、それぞれちゃんと五本指が生えている。背中から突き出ていた突起物の正体はこの指だったらしい。

 ミチの変化はそれだけではなく、間違いなく背が伸びて身体や顔立ちが少しばかり大人びている。まるで短時間で歳を取ったかのようだ。

 私はこのミチに訪れた変化を知っていた。


「第二形態……」


 私が呟いた言葉にパランが不思議そうな顔をした。

 ミチは穏やかな笑みを浮かべて振り向いた。


「この中にいてください。絶対に安全ですから」


 言うと同時に背中の手ユニットから親指が一本落ちて地面に突き刺さる。親指ユニットはわずかに振動して光を放っていた。


「ミチ、行くのか?」


「はい。あの人をぶっ飛ばせと命令を受けていますから」


「……ああ。ああ、そうだな。思いっきりぶっ飛ばしてこい」


 この領域から出ることも能わない私たちは、ミチが飛び立つのをただ見送ることしか出来なかった。


「ミチちゃんはどうしちゃったの?」


 パランが当然の質問をする。


「なんて説明すればいいかアレだけど、大丈夫だよ。とにかくパワーアップしたんだ」


 私の返答はなんとも要領を得ないものだったらしく、パランは更に深く首を傾げた。

 深く説明しようにも私もよくわかっていないのだから仕方がない。

 私が知っていることは彼女がパワーアップしたという事実と第二形態までなら著しくコントロールを失うようなことはない、この二点ぐらいだ。

 今はそれで十分だ。あの形態のままミチがエアトリーチェをぶっ飛ばせるのなら。


 ミチの変化についてはエアトリーチェも目ざとく気づいたようであった。しかし特別対応を変えるようなことがなかったのは、彼女もまた、先ほどまでより強くなっているからだ。

 つい先刻にミチをぶん殴った血の巨人を再び使ったのは、ミチの力を試す目的があったのだろう。

 その巨体に似合わぬ俊敏さで一瞬にして背後に現れた巨人は、これまた素早い動きでミチに殴り掛かった。


 先ほどは強烈な拳の一撃を貰って血の池に叩き込まれたミチであるが、今回は殴られてもビクともしなかった。厳密にいうと殴り掛かった血の巨人の腕が雲散霧消して飛び散ったのだ。

 我々を取り囲む血を寄せ付けないのと同じく、おそらくあの指が血を弾き飛ばすバリアのような物を発生させて巨人の腕を粉々にしたのだろう。

 衛生管理に余念がない新機能の登場により、血を操るエアトリーチェは一気に不利に陥ったように思えた。

 血の飛沫が街中に降り注ぐ中、ミチの背中から生えた手のユニットから九本の光の線が飛び出した。どうやらそれはミチが先ほどまでぶっ放していた光線ではなく指ユニットそのものを飛ばしたようだ。

 各指ユニットはまるでそれぞれが意思を持っているかのようにエアトリーチェの周りを飛び回り、各々が好きなタイミングでビームを放った。わかりやすく言えばファンネルとかビットとかドラグーンとかファングとかガンビットとか、とにかくそういうやつだ。脳波コントロール出来るやつだ。


 今までエアトリーチェの周りを飛び回っていたのは一匹のハエだったが今度は九匹だ。九倍だぞ、九倍。なんだかキリが悪いな。

 さしものエアトリーチェと言えども、九匹の殺人ビームバエを相手に可憐なステップをきかせ続けるのは至難の業だろう。サイコミュ的な精神波の流れを感じ取る指が奏でる死のワルツに足がもつれて、うっかり倒れこんでしまったところを熱線に焼かれるのがオチだ。

 そう思っていたのだが、期待通りにはならずに血の雨を降らす不潔な淑女は、その中を可憐に舞い続けた。

 魔女的動体視力の高さには度々驚かされるが、今回はフィジカルを遺憾なく発揮しているだけでは避けきれる代物ではない。彼女のその優雅な踊りにも似た回避モーションに目を奪われがちだが、真に特筆すべき恐ろしい魔女パワーは放たれたビームをピンポイントで防ぐマイクロな血の盾の存在である。

 あらゆる物体を問答無用で突き破る光線を血の盾が受け止めることは叶わずとも、受け流すことが可能であることは既に証明されている。エアトリーチェは自身の身体を動かして回避を行うのと同時に、血の盾によりビームの軌道を逸らすことによって光線地獄を生き残っているのだ。


 ならば十匹目のハエならどうだ。そう言わんばかりにミチ本人が突撃した。

 指ユニットによる誤射の心配など全く気にしていないのか、光線飛び交う領域をただまっすぐにエアトリーチェへと目掛けて突き進む。手首からビームサーベルが伸びた。近距離で今度こそ切り刻むつもりのようだ。

 回避し続けることを余儀なくされ、非常に不利な状況に陥っているかに思われたエアトリーチェだったが、彼女がただ踊り狂った挙句にみじん切りにされるようなあっけない終わりを迎えるはずもなかった。

 エアトリーチェはエアトリーチェで、この瞬間を待っていたようだ。


 今度現れたのは巨人ではなく竜であった。

 形状にどれだけの意味があるかはわからないが、ファンタジー世界のドラゴンと言えば強大な力を持った大ボスという印象で、精々中ボス止まりの巨人と比べると気合の入り方が違う印象を受ける。

 もしやこのままペロリと平らげられるのではないか。そんな私のいらん心配をよそに、血のドラゴンも巨人と同じように指が放つバリアに行く手を遮られて大粒の水滴に形を変えた。やはり形にはあんまし意味がなかったらしい。

 ミチを止めることが出来なかった以上はこの戦いに決着がついた事を意味する。可憐な舞踊を披露し続けたエアトリーチェも九本のビームと二本のサーベルを避け続けることは出来ずに敢え無くミチの光の剣により袈裟切りにされてしまった。

 …………分身の方が。


 目の前でドロリと血の塊に変貌する元エアトリーチェに現を抜かしている間に、飛び散ったドラゴンを形成していた血の飛沫が集まって今度こそ本物のエアトリーチェを形成した。その手には凝血で作られた悍ましい剣が握られていた。

 一転、二転、三転とコロコロ攻守が入れ替わってきたこの戦いにもついに決着の時が訪れた。

 勝者は最後まで隠していた分身をここぞという肝で持ってきたエアトリーチェ。……の小賢しい術を全てビックリドッキリメカで粉砕してきたミチであった。


 エアトリーチェは完全に空中で静止していた。

 重力や慣性だのと言った物理現象を大胆に無視して彼女はまるで時でも止まったかのように剣をミチの背中に突き立てるポーズのまま固まっている。エアトリーチェの左右には指を飛ばして手のひらのみになった手ユニットが不気味に浮遊していた。

 手ユニットの手のひらには目玉のような球体上のパーツが存在し、それが赤い光を放っている。どうもあれがエアトリーチェを制止させた元凶らしい。

 ミチはそっとエアトリーチェの身体に触れた。


「さようなら」


 私には聞こえなかったがミチはそう言った。


 空中でとんでもない規模の光が弾けた。まるで太陽でも爆発したかのような光の洪水に私たちは目を背ける以外は出来なかった。

 暫くして光が収まるとエアトリーチェの姿はどこにもなく、街を沈めていた血がすっかり引いていた。まるで何事もなかったように痕跡すらそこには存在しなかった。

 私は上空から降りてきたミチに駆け寄った。

 その時には既にミチは第一形態、つまりいつもの姿に戻っていた。


「よくやってくれた。みんな助かった」


私がそう褒めるとミチはこくりと頷いた。

 第二形態の時はペラペラ喋っていたが、身体が大きくなっているだけではなく精神的にも少し成熟しているのかもしれない。


「ミチちゃん! すごいや!」


 はしゃぐパランの後を追って続々と皆がミチの下へ駆け寄ってきた。周囲もにわかに喧噪を取り戻しつつある。街を血の海に沈めるエアトリーチェの魔法の規模の大きさには驚かされたが、もしかしたら殺傷を目的としたものではなかったのかもしれない。

 大量殺戮の暴挙にしろ、それ以上の奸計にしろ、ミチが食い止めてくれたのには変わりはない。

 私は「よくやった」と労いの言葉と共に肩を叩いた。これぐらいのスキンシップならセクハラとして訴えられはしないだろう。ミチも心なしか笑みを浮かべているように見えたし。

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