散々な一日の終わりに

三鹿ショート

散々な一日の終わりに

 今日ほど、己が不幸だと思った日は無い。

 幼少の時分は、収入が母親の薄給だけだったために裕福な生活を送っていたわけではなく、そのときに比べれば、現在は余裕のある日々を過ごしている。

 だが、金銭的な不安が存在していなかったとしても、それ以外の点で、自分が不幸だと感ずる場合があるのだ。

 例えば、大事な会議に出席しなければならないときに限って、公共交通機関の大幅な遅延に遭遇してしまった場合である。

 例えば、昼食をとっていた飲食店で火事が発生してしまった場合である。

 例えば、今日までに片付けなければならない仕事を忘れて帰宅してしまった後輩の尻拭いをしなければならなくなってしまった場合である。

 例えば、疲労困憊の状態で電車に乗っていたところ、酔漢に絡まれ、衣服に嘔吐物をぶちまけられてしまった場合である。

 例えば、駅前に駐輪していた自転車が盗まれていた場合である。

 一つだけならばともかく、これらが全て一日の中で起きていたとなると、自分が呪われているのではないかと考えてしまう。

 この状態では、住んでいる集合住宅が火事に見舞われているのではないかと疑いながら歩を進めていたが、集合住宅は無事だった。

 安堵しながら部屋へと向かったが、其処で私は、思わず足を止めた。

 何故なら、見知らぬ女性が、私の部屋の扉の近くで、眠っていたからである。

 傍らに酒瓶が置いてあることから、酔っているために自分の部屋と私の部屋を間違えたのだろう。

 迷惑なものだと息を吐きながら、私は彼女の肩を叩いた。

 しかし、どれほど呼びかけたとしても、彼女が起きることはなかった。

 このまま放置しては風邪をひいてしまうのではないかと心配してしまうあたり、自分でも損な性格だと思っている。

 仕方なく、私は部屋の中へ入り、毛布を手にすると、外に戻り、眠っている彼女にかけた。

 私の部屋の中へ連れていくことも考えたが、正気を取り戻した彼女からあらぬ疑いを持たれることを避けるために、彼女には外で眠ってもらうことにした。

 それでも、彼女のことが心配だったために、私は数分ごとに外を確認した。

 案の定、寝不足と化した。


***


 目覚めた彼女に事情を説明すると、彼女は顔を赤らめながら頭を下げ、謝罪の言葉を吐いた。

 いわく、恋人に裏切られたために自棄酒を多量に飲んだ結果、前後不覚に陥ったということだった。

 私に迷惑をかけてしまったことに対する詫びとして、食事を奢らせてほしいと彼女が告げてきたために、私はどうするべきか悩んだ。

 見返りを求めて行動したわけではないということを伝えると、彼女は目を丸くした後、口元を緩めた。

「あなたのような男性と出会ったのは、初めてです」

 その言葉から、これまで彼女は碌でもない男性たちと交際してきたのかもしれない。

 同情してしまった私は、彼女の誘いを受け入れることにした。

 其処で、かつての恋人の愚痴などを聞けば、彼女の気分も多少は良くなるだろうと考えたからだ。

 私の言葉に対して、彼女は嬉しそうに頷いた。


***


 それから何度か食事を共にし、やがて休日に外出するようになったある日、私は彼女から想いを伝えられた。

 これまで碌でもない人間ばかりと交際していたのは、私のような人間がどれほど素晴らしき存在なのかを認識するためだったのだと、彼女は興奮した様子でそう告げた。

 その言葉を聞いて、私はかつての散々な一日を思い出し、あれほどまでに不幸な目に遭遇していたのは、彼女と交際するという至上なる幸福を味わうためだったのではないかと考えてしまった。

 あの一日の出来事と、彼女と恋人関係を築くことができるという幸不幸は、差し引きすれば、互いを打ち消すことになるのではないか。

 このような展開が待ち受けていたのならば、あれほどまでの散々な一日にも、意味が存在していたのだろう。

 私は口元を緩めると、彼女に対して首肯を返した。

 彼女は、涙を流して喜んだ。


***


「ようやく恋人関係に至ることができたのか。随分と時間がかかったものだ」

「出会ったばかりであるにも関わらず想いを伝えれば、不自然でしょう。だからこそ、私は時間をかけたのです」

「きみがどのような考えを持ちながら行動しているのかはどうでも良い。大事なことは、彼が遺産を手に入れるまでに、結婚しておくことだ」

「分かっています。あなたこそ、遺産を譲ってもらうことができるように、媚びを売っておくことを忘れないでください」

「忘れるわけがない。あの父親が彼の母親と関係を持ち、彼という子どもが誕生していたということを知ったときは、私の遺産の取り分が減ってしまうことを恐れたが、遺産を手に入れた彼ときみが結婚し、そして、彼がこの世を去れば、私ときみが遺産を手に入れることができるのだ。そのためには、この先も働いてもらうぞ」

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散々な一日の終わりに 三鹿ショート @mijikashort

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