第8話

 ちょっと待って、今のは美咲が力を入れたから無効でしょ?


 そう弁明しようとしたのを遮って美咲はそのあまりにもひどい有り様の割り箸を僕の手からひょいと取り、じっくりと観察した。


 そして何も言わずに僕の手に返して、自分の分を箸立てから取って割った。

 ぱきっと歯切れのよい音がして、美咲の箸は綺麗に2本に別れた。


「陸、それ大凶だよ。しかも女難の相が出てる」

「いやそれは……」

「まぁとりあえず食べよ、のびちゃうもん。あ、そのお箸食べにくそうだし、こっちと交換してあげよっか?」

「いや、いいよ。ありがとう」


 美咲はいつものように麺に息を吹きかけて冷ましてから食べ始めた。

 僕は釈然としない気持ちを抱えたまま、しかし自分にはこれが美咲との最後の食事になるかもしれず、半ば放心状態ともいえる状況で味もよくわからないままラーメンを食べすすめていった。

 今なにを言えば関係が改善できるかを考え、でも全然なにも浮かばず、ただ無言で、麺をすする音だけが僕らの間に流れた。


 僕らが食べ終える頃にはちょうどお昼の時間帯になったのか、店は満員近くになっていた。


 周りを見渡した美咲は「行こっか」と言って立ち上がった。

 そして「ごちそうさまでした」とキッチンに声を掛けると、ラーメン屋の赤いのれんをくぐって外に出て大きく伸びをした。


 最後の食事が行きつけのラーメン屋か……まぁ僕らっぽいといえばそうかもしれないけど。


 ここで「じゃあね」と別れるのかと思っていたら、意外にも美咲は川沿いの道を指差して「あっち歩こうよ」と言ってきた。


 1月の風は冷たくて、僕はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、美咲の少し後ろを歩いた。


 冬の差し込むような光が川の水に照らされて眩しかった。

 まだ正月の雰囲気は残っているようで、普段は散歩コースになっているこの道にも人はほとんどいなかった。


 しばらく歩くと、美咲は僕の方を振り向いて「さっきの話だけどさ」と白い息とともに切り出した。


「半分は正解だったよ。私、陸にはなんだか興味持たれてないのかなって思って、寂しくなってたんだと思う」


 美咲はそこで話を切って少し立ち止まり、僕から目を逸らしてゆっくり歩き始めた。 


「だからね、なんだか私ってすごく性悪なんだけど、急にね、本当に急に『別れよう』って言ったら陸は私のこと引き止めてくれるのか、どうしても確かめたくなったの」


「えっ」


「めちゃくちゃめんどくさいよね、私。でも陸はさ、そんな私のことなんかお見通しなのか全然引き止めてくれないし、連絡もくれないし。……私1人で勝手に別れを切り出して、このまま連絡がなかったらどうしようって勝手に不安になってた。そしたらさ、偶然、本当に偶然なんだけどね、駅で山口チーフに会ったの。それで『陸がゾンビみたいになってしょぼくれてた、何か知らないか』って言われて、それで陸がショックを受けてるって知ったの」


 チーフ、あの後美咲に会ってたのか。

 いや、それよりこの告白は正直なところかなり意外だった。

 美咲は自分を引き止めてほしくて嘘をつくようなことは少なくとも今まで1度もしたことがなかったし、それこそあの夢に見た時のように『私のこと大事?』と尋ねられたことだって、多分あれが初めてだったように思う。


「ごめんね」

 美咲は僕に向かって頭を下げた。

「あ、いや。僕の方こそ、連絡しなかったりして……あ、そもそも美咲に寂しい思いをさせてしまったことも、悪かったよ。ごめん」


 と返してそこからまた頭の中で美咲のことばを反芻した。美咲の気持ちやことばの意味を考えてしばらく歩いた後、僕はこらえきれずに「えーっと、じゃあ美咲は、そもそも僕と別れるつもりなんてなかったってこと?」と尋ねた。


「うん。まぁ、あの時はね」


 あの時は、ってどういう意味なんだろう。

 うつむき加減で歩みを進める美咲の顔には、残念そうな色が見えた気がした。


「正直、陸が私のことを想っていてくれたんだってわかって、嬉しかったの。……でもさ、普通に考えてさ、相手に『別れよう』って言って、ショックを受けさせて、迷惑かけてたのにさ、自分はそれを見て嬉しくなってるなんてさ、めっちゃひどいじゃん、私」


 美咲は自分がやったことが許せない、といった口調だった。


「それにさ。きっと私、たぶん、また不安になっちゃう。同じことして、迷惑かけて、陸に愛想つかされちゃうかもしれない。だから……」


 僕はその先にくる言葉がわかった瞬間、それを遮って言った。


「それでも、僕は美咲と一緒にいたいよ」


 美咲ははっとしたような、でもどこかやりきれないような顔を僕に向けた。

 その時ふと頭にある言葉が蘇った。

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