約束
如月駅、そのホームに横並びに二つあるベンチ。
二人、肩を寄せ合いながら、座って空を見上げている。
茅乃が裸足に薄着だったこともあり、俺のコートを羽織っていた。その分、ちょっとだけ寒さが厳しいが、茅乃の体温をより深く感じられるので気にならない。
雲が晴れ、夜空が広がって数時間、俺たちはお互いに手を握りながら、色んな話をした。
昔のこと、つい昨日のこと。
今日のこと。
そして、茅乃に待っている明日の話。
茅乃の服のセンスや小悪魔みたいに揶揄ってくるのは、わざとやっているのか。
俺がとぼけるときにやる癖や、実は茅乃に匹敵するほどの負けず嫌いだということ。
あのとき何を考えていたのか、とか。何を感じていたとか。お互いの好きな所や尊敬している部分など、そういう他愛ない話。
これから今生の別れだというのに実に呑気な話だが、何物にも変えがたい大切な一時だ。
アヤセくんと離れたくない。ここにずっといたい。
茅乃と離れたくない。ここにずっといて欲しい。
話の最中、お互いの胸に秘められた想いを二人が口にすることはなかった。
『芸術ってのは、伝えること。誰かに見てもらい、解釈されて、初めて芸術になるのかもな』
『見てもらってか。なんか人間みたいだね。人と人も伝え合うことにより、真に繋がるからね。一人じゃ生きていけないってのは、ちょっと分かるかも』
茅乃が言っていた真に繋がっているかどうかは分からないけど、抱えていた気持ちを全て打ち明けたことで、前よりも二人の距離はずっと近づいたのは確かだ。
絡め合うように握られた二人の指先に触れ合う肩部の触感。
時折、頭を撫でたり惜しむように口付けをしたりする。
「もう、朝になっちゃったね」
朝日が差し始め、空が白み始めると、どうしても終わりの時を予感してしまう。
触れた茅乃の指先に力が入り、弛緩させようと髪をさする。潤んだ瞳を隠すように顔を逸らして、茅乃は涙を拭った。
「ねぇ、アヤセくん。さよならするときは、笑顔でしようよ」
茅乃は繋いでいない方の手を朝焼けに翳しながら話す。
「笑顔、か。ああ、そうだな。茅乃の旅立ちなわけだし」
「うん、それもあるんだけどね。私たちの出会いって決して悲しいだけのものじゃなかったでしょ。嬉しいことも、楽しいことも、ドキドキすることだってあった。勿論、辛いことも悲しいこともあったけど、総合的には幸せの勝ちだよ」
「茅乃」
今更になって色々と考えてしまう。
もっと早くこのことを打ち明けられていたら。
もっと上手いことやれていれば、と。
けど終わってしまったことを後悔したって仕方がない。
総合的に幸せなら勝ちという茅乃の言葉を聞いて何だか胸中の靄が晴れたようだった。
「だからね。笑って別れられたら、きっとこれは喜劇になるんだって思う。終わり良ければすべてよしだね」
「喜劇か」
「うん。だからくよくよせず淡白に、笑って別れよう」
「そうだな」
くよくよせず淡白に、というのは茅乃なりの心構えなのだろう。
「っ」
直後、地面を揺るがすような振動と共に龍のような汽笛が鳴り響いた。最初にこの場所で目を覚ましたときに聞いた音と同じもの。思い返せば、すべてはここから始まったと言える。
もくもくという表現をするべきなのだろうか。白煙を天へと伸ばす、蒸気機関車とそれに連なる車両。駅に近づくにつれて徐々に速度を落とし、駅のホームで静止する。客車からは蒸気暖房と呼ばれる煙も出ていた。
「ほんとに来たね、列車」
駅に着く車両を眺めながら、ちょっぴり残念そうに呟いた。
「ああ、来なきゃ困る」
「私としては、どっちでも良かったんだけどな」
「そうかよ」
俺だって来なくてもいいと思ったりしたが、敢えて口に出したりはしない。
「あ。そういえば、茅乃に言っておきたいことがあるんだ」
「ん?」
口を膨らませて、いじけている茅乃の横顔。
そこで、俺はあることを伝え忘れていることに気づいた。
「その、なんだ。死ぬまで生きろよ。その時に出せる最大出力で生きれば、後悔は残らないからな。まぁ、未練は残るかもだけど」
「あはは、なにそれ」
横断歩道を渡る子供を助けたこと。茅乃と出会ったこと。
ニヒルを使って茅乃を捕まえようとしたこと。
響谷文世という少年が観察者を捨てて生き始めてからの選択すべて、未練はあるが後悔はない。だからこそ、茅乃にはそれを伝えておきたかった。
茅乃は難しい顔をしていたけれど、納得したように微笑んだ。
「まぁ、アヤセくんの命令ならそうしないとね。命令権は私が破っちゃったわけだし」
「いや、これは命令権とかそういうのじゃないけどな」
「そっか。んー。ならなんだろ。約束、とかかな?」
「約束か、いいなそれ」
茅乃は褒められたことが嬉しくて頬を緩ませる。
「じゃあ、約束。私はこれからの人生、アヤセくんの心臓と一緒に精一杯生きるよ」
小指を向ける茅乃に俺も伸ばして、約束の印を結んだ。
「ああ、たった一度の約束だ」
文字通り、心も魂も預けることになる。
これからの人生で、茅乃には後悔して欲しくない。
「よしっ。なら、そろそろ行くね」
「ああ」
茅乃はそう呟くと、小さく手を振って裸足のまま客車に足を掛けて、
「っと。その前に」
と思ったら、踵を返して勢いをそのままに胸に飛び込んできた。
爪先と体幹で茅乃の身体を何とか支えると腕を回して締め付けてくる。
「おい、茅乃。苦しいから」
「あとちょっと」
「おい」
「んー、もうあと五年」
「別れは淡白にって言ってなかったか?」
「じゃあ、アヤセくんは嫌なの」
「そんなわけあるか」
まじまじと答えてから茅乃が赤くなっていることに気付いて、恥ずかしさに悶えそうになる。
「じゃあキスして、そしたら許す」
「おい」
茅乃は唇を突き出して、そのまま静止する。
さっきまで普通にキスをしてたのに、真面目なムードだったせいもあり妙に生々しさを感じて、躊躇してしまう。片目を開けてこちらの反応を伺う、茅乃。
「——んっ」
要求されてから、暫く。ようやく二人の唇が重なった。
我ながら思う。ほんとに大馬鹿ものだと。
こんなことをしたら別れが惜しくなるとさっき学んだというのに。
「じゃあ今度こそ、ほんとにお別れ」
唇が離れて、後退りしながら茅乃は腰あたりで手を振る。
くよくよせず淡白に別れると決めたから、二人の間に涙はない。
潤んだ瞳も見て見ぬ振りだ。
「別れるときは、綺麗にって決めたからね。列車に乗ったらもう振り向かないよ」
片足を列車に乗せながら、こちらを振り向いた。
「んー。最後は、なんて言えばいんだろ。ありがとう? バイバイ? 楽しかったよ、とか?」
「まぁ、行ってきます、とかでいいんじゃないか?」
「あっ、それだ」
茅乃は納得して、ぱっと晴れたような顔で笑う。
そして、小さく拳を握って覚悟を決めると、最後の言葉を口に含む。
「ばいばい、アヤセくん。今まですっごく楽しかった。幸せだった。だから、ありがと」
「こっちこそありがとうな」
「うん。それじゃあ、行ってきます!」
「ああ、行ってこい」
そう告げて、客車に乗り込む、茅乃。
直後、列車の扉が閉じた。駅舎中に響き渡る汽笛を上げながら。
「元気でな、茅乃」
吐き出すや否や、もう会えない。その実感が強まって、胸に大きな穴が空いたような喪失感が襲ってくる。
この想いは茅乃にも伝わっているのだろうか。
汽笛を鳴らしながら発車する、蒸気機関車。
窓越しにちょっとだけ見えた茅乃は、天井を見上げて肩を震わせていた。
涙を見せないように、俺も顔を天に向けながら、視線だけは列車を追った。
まだだ。まだ、ダメだ。
茅乃の姿が完全に見えなくなるまでは、泣いちゃだめだ。
自分の心に何度も言い聞かせて、俺は必死に涙を堪える。
三月二十日。俺は交通事故に巻き込まれた少年を助けるため命を落とした。
しかし、実際には、俺が子供を歩道へと突き飛ばしてから、ある程度の猶予があったことはあの場で、俺だけが知っている。
だが、子供を助けた後の俺の右足には、どうにも力が入らなかった。地面に沈み、地中深くに根が生えたかのように重く、まるで俺の生きようという意思をその場に縛り付けるようだった。
ああ、もう疲れたのかもしれない。
トラックに轢かれる直前、少年は薄い笑みを浮かべていた。
そして、強い衝撃と共に俺の意識が遠のいた。
最後の瞬間で、命を諦めたのだ。
だがもし仮に、そこで俺が逃げる選択肢を選び、生きながらえていたら。
俺も茅乃の隣で一緒に歩けたかもしれない。
考えたって仕方のないことだ。
俺があの場面で生きていたとしても、茅乃とは出会っていないだろうし、心臓移植だってどうなっていたかは分からない。
けど、想いを馳せずにはいられない。
「——ッァ、ッ」
俺は茅乃を乗せた列車が見えなくなると、その場にへたり込み泣き崩れる。
「くそ——ッ。くそォァ、ッ」
もう、いいんだ。
もう泣いていいんだ。
おいおいと子供みたいに声を上げて、悲しみに暮れたってもう誰も見てないのだから。
俺は、泣いて泣いて、涙の最後の一滴まで絞り尽くして、もう二度と涙腺が乾いたままになるくらい泣いた。
そこには、茅乃の前で強がっていた少年、響谷アヤセはもうなくて、
あるのはただ泣き噦る、俺の姿だった。
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