ひどく儚く、届かない願い

 記憶の泡沫と追憶現象。

 アヤセくんはこの泡と現象のことをそう呼んでいた気がする。私の記憶を覗き見た破廉恥なものだが、今回のはアヤセくんの記憶だ。


「今のって——」


 微睡みが終わる。背中にはずしりとナニカの重みを感じた。ニヒルだろう。

 どれくらい経ったか。数秒か。それとも、もっとか。

 私は唇を噛みしめながら、全身に力を込めた。大丈夫、力は入る。むしろ、記憶を見たこともあり、さっきよりもずっと漲っていた。


 行かなきゃ、行かなきゃ。


「行かなきゃ——っ!!」


 ニヒルを押し退けるように腹部あたりに小さなスペースを生み出すと、私はコートの袖から腕を抜いた。そして、ニヒルの掴むコートや靴を脱ぎ捨てると、身体を前に弾き出す。

 さっきよりも力が篭ったこともあり、するりと抜け出すことができた。


 すべてが繋がった。そんな気がしたのは絶対に間違いじゃない。


「ッ——待ってて!!」


 何度も躓きそうになりながら、私は必死でその場所へ向かう。靴下ごと脱いで裸足になったせいか、足裏にはひんやりとした地面とゴツゴツと刺さるコンクリートの感覚があった。

 だが、指先が凍りそうなほどに冷えても、どれだけ息が上がっても、絶対に彼に会うと心に決めて一直線に進むだけだ。その決意はさっきよりも、したたかなものになっている。


 私の心臓がアヤセくんのだということ。


 彼が死際に握っていた、臓器提供意思表示カードを見てその事実に気付いた。


『元の世界に帰れるとしても、それは茅乃だけだ』


 このことを彼も、知っていたのだろう。おそらく記憶を取り戻したときに。

 私は走りながら、彼の残した手紙の内容を思い出していた。


 アヤセくんは私のドナーとして、心臓を与えてくれた。心臓移植の拍子にアヤセくんの魂や記憶が私の精神世界に迷い込んだ。


 そう仮定すると辻褄が合った気がした。合ってしまった。

 だからこそ、アヤセくんが死んでいるということも合点がいく。


 目前に迫る秋葉原駅の改札口、私はさらに足を加速させる。

 そこを抜けて、追ってくるニヒルを振り払えば、あの場所の入り口にもう少しで辿り着く。

 行けるかも分からない如月駅。


 受け入れられない、受け入れたくない。

 でも、考えるのはあとでいい。今は、会って伝えなきゃいけない。


 この想い、心、願い。

 全部全部全部、余すことなく彼に、

 アヤセくんのもとへ届けたい。


 だから、

 彼のいる場所へもう一度、

 もう一度だけ、私を。


 連れてって——ッ。


 そう心の中で叫びながら、

 乞い願うようにして伸ばされた指先、その先端が揺れ動いた。


 ジ、リジリ、ザッ————……


 直後、けたたましい音とともに軋み始める、世界。

 全方位から聞こえるノイズ音。

 辺りの無機質なタイル床や駅舎の壁はは色を変えて、走査線が刻まれる。

 暗転。視界に映ったのは、どす黒い闇だ。

 如月駅に行くときに起こる転移の現象。

 時間にして僅か一秒にも満たない間に、これらの現象が起こった。


 瞼を閉じて、それが終わるのをじっと待つ。

 如月駅に彼がいることを願って胸を抑えながら。


 瞬間、音が消えた。


 閑静な空間。

 その場所はとても静かだった。ノイズ音も車の駆動音も、物音もしない。

 まるで世界が切り取られたような場所、如月駅。

 私は改札を抜けたあたりに立っていた。

 絵画の中の幻想的で厳かな風景がそのまま具現化したような空間。

 だが風景には一切、気を取られず私は視界の先のある人物だけを見つめていた。


「ァ——ヤセ、くん」


 息切れ混じり、私は彼の名前を呼んだ。

 数メートル先にいる少年に向かって。

 私は心の底から安堵していた。もう一度会えたのだと。

 アヤセくんは私に気づくと、両眼を白黒させて茫然自失としている。よく見れば、彼の左目はニヒルの紺碧色に似たものに変色していた。その様は宝石のラピスラズリを彷彿とさせる。


 でも、アヤセくんだ。

 なんだかすごく久しぶりな気がして、


 ああ、やっと会えた、と。


 アヤセくんの姿をその双眸に映しながら、

 私は込み上げる感情に自然と笑っていた。


   ꕤ


 空には、月が登っていた。

 如月駅は雄大な自然に囲まれていてるが、その夜、星は見えなかった。

 東京の街を彩る煌びやかなの電飾のせいではない。

 空が曇っていて見えないのだ。


 駅のコンクリートにめり込みながら屹立する大木は、北欧神話のユグドラシルを彷彿とさせるほどに立派で、その木下で、俺は茅乃を見つめる。


 茅乃は泣いていた。

 笑いながら、泣いていた。


 めちゃくちゃな顔だ。だけど、その瞳だけはこちらを優しく捉えていて、胸に手を当てながら笑った。


「この心臓、アヤセくんのなんだよね」


 その一言で、俺は全てを察した。

 心臓移植のことを知っていると、そういうことだ。知られたくなかったが、もう遅い。

 追憶現象だろうか、それとも自力で考えに至ったのか。いずれにしてもだ。

 あの現象は自分のことを知って欲しいという気持ちが、この精神世界で象を結び、形になって現れると考えていた。だからこそ、茅乃に伝わらないよう必死で抑え込んでいたが、無駄だったのだろう。


「言いたいこととか、伝えたいこと沢山あるんだよ」


 茅乃があまりにも真っ直ぐに見つめてくるから、俺は線路側へと視線を逸らしていた。

 一歩、また一歩と歩み寄ってきて、彼女との距離が少しずつ近づく。


「感謝とか、行かないでとか、なんで勝手に居なくなっちゃうかな、もうほんと色々」

「……」

「なのに何にも言えないまま、手紙だけ置いて勝手にいなくなっちゃうし。ずるいよ」


 拗ねたような口調なのに、その声色は優しく胸に直接響くようだった。

 指先が、唇が震えてもなお、茅乃は俺に向かって歩み寄ってくれている。

 そんな少女に俺は一体、何を返せばいいのだろうか。

 予め答えは決めていた。


「ねぇ、どうして何も言わないの? 私、アヤセくんに——」

「茅乃」


 俺は茅乃の言葉を遮って、名前を呼んだ。

 そして、手のひらを茅乃に差し向けると、それを握る。するとその動作に合わせて、服の中に隠れていたニヒルが飛び出し、茅乃と俺の間の地面に線を引いた。

 茅乃と俺を断絶するような効力はないが、目に見えて二人の距離を断つような何かが欲しかった。


「それ以上、近づかないでくれないか?」


 ひどい言い草なのは自分でも分かっていた。

 茅乃はちゃんと目を見て、向き合おうとしてくれているのに俺はさっきから彼女の方すら向いていない。

 でも、せめて態度で示さないと心は騙せない。茅乃の胸には俺の心臓が埋まっている。だからこそ、騙すためにはこうでもしないといけない。


 嫌われるだろうか。

 でも、それで最悪のシナリオにならないのであれば、よかった。

 心臓移植であることを茅乃が知った時点で、俺の行動はそればかりを考えていた。


「私ね、言いたいこといっぱいあるんだけどね。一番言いたいこと、まだ言えてない」


 だが、茅乃は一切、顔を顰めずに変わらず優しい声音で話しかけてくれる。

 その優しさが痛かった。


 茅乃は一息ついた。そして、覚悟を決めたように拳を握って、


「私、アヤセくんのこと好きだよ」

「————ッ!!」


 抱えていた想いを言葉にのせた。なんの捻りもなく、使い古された言葉だったが、閉ざした胸に刺さり浸透していくようだった。

 嬉しさと辛さが同時にこみ上げてきて、めちゃくちゃな感情に押し潰されそうになる。


 茅乃はさらに近づいて、俺の引いた線のところまで歩み寄ると、立ち止まった。


「私。アヤセくんに会えてよかったって、心の底から思ってる」

「……そんなの」


 俺だって同じだった。

 茅乃に出会えてよかったって、心の底から思ってる。

 けど、今はその思いに顔を背けることしかできない。


「前に言ったこと覚えてるかな。アヤセくんは、取り繕わない、演じていない本当の私を見てくれたって言ったこと。私すごく嬉しくて、嬉しくて泣きそうで、孤独だった私の心を救ってくれたんだよ?」


 茅乃は噛み締めるように、一言一句に全ての感情をのせている。

 すべてが本心からの言葉だとわかる。だからこそ辛いのだ。恐れているのだ。

 茅乃への感情が胸に灯る使命感に勝る事が。


「あの夏祭りの日、自分のことを大事にしないアヤセくんのことを怒ったけど、私思ったんだよね。アヤセくんって誰よりも優しいんじゃないかなって」

「……」


 茅乃は一歩踏み出した。既に線を越えている。

 だが、俺の身体は動かない。動けない。


「みんな自分のことで精一杯で人のことを自分のようには思ってあげられない。なのにアヤセくん、記憶を失う前の自分や私のために頑張っていて」

「……」


 さらに一歩、徐々に近づく二人の距離。

 離れようとも拒絶しようともせず、身体は動かないままだ。


「ねぇ、一つ教えて。今、アヤセくんがやろうとしていることって、もしかして、私のため、なんじゃないの——?」

「……」


 指先に力が込もった。表情が変わる。

 茅乃は瞳を潤ませながら懸命に思いの丈をぶつけてきた。

 だからこそ、紡がれる言葉の一つ一つがどんな台詞より重く、ナイフのような切れ味で心に刺さり、弾丸のように胸を抉るようだった。


 俺は、これ以上、茅乃のことを無視したところで、諦めることはないと察した。だとしたら、納得してもらう以外の道はない。


 唇をかみしめると、鉄の味が舌の上で転がった。けど必死に作り笑顔を作って、茅乃に向き合う。


「茅乃、俺は大丈夫だから、構わないでくれないか」

「っ——!」


 嘘の笑顔、嘘の表情、取り繕った仕草や言動。

 茅乃にとって今の嘘まみれの俺は、ひどく不快に映ったのだろう。


 茅乃の表情が強張って、目尻に溜まっていた涙の滴が落ちた。 


「嘘つかないでっ!!!! そんなひどい顔で大丈夫なんて、言わないでよ!!」


 茅乃は涙声で必死に糾弾する。

 俺はそれに反論するどころか、次に続く言葉すら考えられなかった。


「アヤセくん、私に言ってくれたよね。表情とかそういうのって考えたり、作るものじゃないって。無理に笑ったりするんじゃない、茅乃のことが好きだよって言ってくれたよね。私も、アヤセくんのそんな顔——いや、だよ」


 いつの間にか茅乃は線を越えて、触れ合える距離にまでなっていた。


「わ、わたし、アヤセくんともっとずっと一緒にいたいよ」


 優しい指先で茅乃は俺の頬に触れた。

 胸が締め付けられるように痛くて、痛くて堪らなかった。茅乃の目尻には涙の粒が溜まっていて、それでも必死に気持ちを言葉にしてくれていた。


 肩に茅乃の体重が掛かる。

 寄りかかるようにして、しばらく黙ってから、茅乃は顔をあげた。


「ねぇ、ここにいればずっと一緒にいられるんだよね。だったらわたし」


 それは俺が一番、言って欲しくて、

 一番、言って欲しくなかった言葉だった。


「それはダメだっ!!!!」


 俺は茅乃のその台詞を声を荒げてでも否定した。

 感情が昂り、抑えていた感情のブレーキが効かなくなるほどに動揺した。


 俺が考えていた、最悪の結末。

 それは茅乃が、この世界に残るという選択を取ることだった。


 この世界に来て十六日目のこと。

 和田倉噴水公園で現実への帰り方を話したときに、現実世界の響谷文世が死んでいることを伝えようと思っていた。


『でもそっか。良かった。これで帰れるんだね、私たち』


 そう言い放ったときに、茅乃が一つ、大きな誤解をしていることに気づいた。

 現実に帰れるのは茅乃だけだ、と。

 すぐに伝えようと思ったが、上手な言葉選びができずに悩んでいた。


『なぁ、茅乃。実は——』

『ねぇ、アヤセくん!』


 しかし、俺がしどろもどろに話を切り出そうとすると、茅乃がなんとも気迫の篭った目で何かを訴えようとしていた。

 色んな後ろめたさを秘めた俺が茅乃の話を優先するのは、必然だったのだろう。


『あのさ、私から一つだけお願いがあるんだけど、もしさ、現実世界に帰れたら、私のお見舞いに来てくれないかな?』

『見舞い? ——それは、茅乃のってことか?』

『うん。現実に戻っても、私の病気って治ってないから、多分だけど闘病生活になるんだよね。だけど、割と暇だからさ』


 茅乃に返す言葉が見つからなかった。気づけば、俺が死んでいて元の世界に帰れないという話をすることも、茅乃が心臓移植により病気を治すことができるという話を切り出すこともできない状況になっていた。


『だから、だめかな?』


 震える唇に訴えかけるような眼差しで、俺は覚悟を決めた。


『ああ、分かった。茅乃のこと心配だからな。ちゃんと見てるよ』

『っ。うん。ありがと』


 茅乃に嘘をついて、現実世界に帰ってもらう覚悟を。


 方法はあった。

 四十九日目に如月駅に来る列車に乗れば、茅乃の意思に関係なく元の世界に帰ることができる。そのため、茅乃には申し訳ないが、ニヒルを使い捕まえてから、意識を奪って送り出そうと考えた。


 茅乃の過ごした一ヶ月弱の間。

 幾度となく、すべてを正直に話してしまおうかとも考えた。

 だが、心臓移植の責任を感じて、元の世界に帰りたくないと言い出す心配もあった。もしかすると、上手いこと俺を欺いて、この世界に残る選択肢を選ぶことも考えられる。

 何よりも茅乃に向き合えるほどに俺という人間は強くなかったのだ。


 だからこそ、茅乃がこの世界に残るという、最悪のシナリオを回避するためにも、こうするしかなかった訳だ。


「分かってくれ、茅乃。茅乃は現実世界に帰らないと、ダメなんだ」

「ねえ。なんで、よ」


 どうしようもなく弱々しい声で、茅乃は想いを吐き出した。


「茅乃には未来があるんだ。病気だって治る。待っている人だっている。これから大人になって、成長して、幸せになるんだ」

「でも、わたし、アヤセくんがいないと——っ」


 だが、茅乃はそれ以上、言葉を続けなかった。

 続けられなかった。俺が目の前の少女を抱きしめて言葉を遮ったから。


「俺の方こそ——!! 俺の方こそ、茅乃に救われたんだ。いつも理屈ばっかりで、当事者意識が薄くて、でもっ、記憶をなくして茅乃と出会えたことで、初めてこんなに人のことを好きになれた。初めて、だったんだ」


 心の奥に封じ込めていたはずの茅乃への感謝。まるで自分の口とは思えないほどにぺらぺらと饒舌に在るが儘、本心を喋り出していた。

 抑えようとしても、一度零れてしまった感情の波は簡単に押し留められない。


「俺だって茅乃と、もっとずっと前に出逢いたかった。そしたらさ。そしたらきっと、俺ももっと前を向いて生きられたのかなって、思って」

「アヤセくん」


 声に覇気がなくなっていき、涙声のまま、必死に茅乃に想いをぶつけた。

 イタくて、柔くて、女々しくて。

 ああカッコ悪い、と嘲笑されてもおかしくない言葉を俺は心の底から吐き出して。


「でもダメなんだ」


 最後に苦し紛れの念押しをした。

 どの口が言うんだ、って思われても仕方がなかった。けど、


「茅乃は元の世界に帰らないと、ここにいちゃダメなんだ」


 頬に手を当てて、笑みを浮かべた。

 茅乃はちょっとだけ寂しそうな表情をして、何か言いたげな顔を浮かべると、胸板に寄り掛かった。


「いや、だよ。アヤセくんと、離れたく、ない」

「……」


 そして、顔を俯かせながら、涙声で訴える。


「さよなら、なんて、したくない」

「……」

「なんで、っ」

「……」

「そんなの、いやだよ」

「……」


 服を握る指先に力が入って、今度は茅乃が俺を抱きしめる。


「っ——。私も、ずっと、ここにいたい」

「……」

「いたい、よ」

「……」


 だんだんと消え入りそうな声になり、その身体はとても小さく思えた。

 こうして抱きしめていると、茅乃だって一人の少女だと思い知らされる。


「けど——」


 茅乃は何かを決意したように呟いた。


「——でも、さ。ダメ、なん、だよね? アヤセくんがそうまでして、私のことを思ってるだもんね」


 顔をあげて真っ直ぐと見つめてきた。俺はそれに頷く。

 しばらく視線が交わって、茅乃は涙を拭うと、


「アヤセくん」


 俺の名前を呼んだ。


「ここで、無理にでも私がここに残るって道を選んだら、アヤセくんの好きな紡希茅乃じゃないんだよね?」


 茅乃は、震えた唇を精一杯、動かして納得させるように訊いてくる。


「そんなことは——ない、けど」

「ん。そこは、嘘でも『そうだ』って言わなきゃダメだよ」

「ごめん」


 一頻り泣いたことで、茅乃も軽口を叩けるくらいに心が落ち着いてきたのだろう。

 茅乃は息を吸い込んで、冷静な眼差しで空を見ながら、空気と一緒に吐き出す。


「あぁもう。やっぱり、やだなぁ。そんなの」


 茅乃の紛れもない本心。現実世界に戻ることとここに止まることの二つを、天秤に掛けて出した結論。

 これ以上の説得は俺にもできないと、諦めたが、茅乃は微笑んだ。


「でも、さ。行くよ、私。それがアヤセくんの望むこと、なんだもんね?」

「っ——ああ」


 そして、俺は頷いた。決してそうしたかったわけでもない首を何とか上下に動かして。

 茅乃にそんな俺の痩せ我慢が伝わったかは分からない。けど、茅乃は顔をあげて真っ直ぐにこっちを見つめていた。

 潤んだ淡褐色の瞳から滴が流れて、


「うん。そっか、分かった」


 言い聞かせるように頷いて、


「でも、さ。これだけは、許してよ」

「かや——」


 そう呟いて、頬に優しく手を当てると、茅乃を唇を突き出した。

 重なる二人の唇。身体は冷えているのに、命を共鳴させるように熱を帯びていて、柔らかくて、震えていて、心做しか熱かった。


「んっ」


 まるで身体の芯から通じ合えるような口付け。暫く二人のシルエットは重なり、徐々に震えた指先から力が抜ける。

 そして、ゆっくりと顔が離れると、茅乃は笑みを浮かべていた。


「あはは。ちょっと、後悔。バカだなぁ、私。キスなんてしたら、余計離れたくなくなっちゃうのにね」

「茅乃」

「でも、幸せ。すっごく、幸せ、だよ」

「ああ」

「だから、さ。この涙は、違くて——っ」


 茅乃は泣きながら、笑っていた。

 そして、胸板に顔を埋めると堪えるように肩を震わせる。

 だが、咽び泣く声も次第に大きく抑えの効かないものになり、

 泣いて、泣いて、泣いていた。


「ア——ヤセ、くん。や、だよ」


 泣き崩れて小刻みに震える小さな少女のことを、

 俺は、そっと抱きしめることしかできなかった。


「大丈夫、茅乃なら大丈夫だからッ」


 茅乃という少女は強い。

 たとえ五年のブランクがあったって、今から人生をやり直したって遅くない。

 失った青春を謳歌して、大学に入ったりして、大人になって好きな人を見つけて、命を紡いで長い長い人生を幸せな時間と共に過ごしていく。


 そんな情景を思い浮かべて、涙腺が熱くなるのを感じた。

 それは、ひどく儚く届かない願い。限られた時間しか残されていない俺にはその光はどうにも眩しすぎて、胸の奥に秘めたものが溢れ出そうになる。


 茅乃とずっと一緒にいたい。

 できることなら現実世界に二人で戻って、今さっき思い描いた実現しない未来を二人で一緒になぞりたい。


 だが、俺はそれを必死に押さえ込んだ。

 溢れてしまわないように、零れてしまわないように。

 この身勝手な気持ちが、俺の願いが茅乃の決断の邪魔にならないように。


「ありがとう、茅乃」


 そう囁いて、俺も泣いた。

 茅乃を抱きしめながら、止まることのない涙は続いた。


 胸に穴の開いたような喪失感と深い悲しみ。それらを埋めるように茅乃の熱を焼き付ける。

 心なんてものがあるから、失うことが怖くなる。

 ならそんなもの、流した涙やこの熱で麻痺させてしまえばいい。


 気付けば、冬空の暗雲は晴れていて、

 短くも長い時間の間、涙を流して別れを惜しむ二人のことを月光のささやかな光がいつまでも優しく、照らしていた。

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