彼のもとへ
逃げる。逃げる。逃げる。
なぜかそのことだけは、身体が理解していた。
もし今、ニヒルに捕まったらどうなるのか。どんな状況で、こんなことになっているのか。なぜ、どうやって。幾重にも疑問は連なり私の脳を混乱させた。
だが、私が走る足を止めることはない。
ここで捕まったら、二度とアヤセくんに会えなくなる気がしたから。
校舎から飛び出してもニヒルは私のことを追ってくる。全速力で振り切ろうとしたにも関わらず、どこからか現れて瞬く間に追いつかれるのだ。まるで意思を持ちながら、私を捕まえようとしていた。
どこに行けば逃げ切れるのか。
ニヒルから若干の距離をとると、私は校門前から周囲を見渡した。
太陽も沈み始めて、ふと見上げた空は紫色に染まり始めている。
人通りの少ない場所に行けば、ニヒルもいないだろうか。物陰にでも隠れれば、見つからないだろうか。色んな思案を巡らせたが、どれも違う気がした。
逃げ切る? 違う。会いにいくんだ。
アヤセくんのいる場所を、私は感じ取ることができる。だとしたら、彼のいる場所へ向かって走ればいい。幸いなことに、さっきアヤセくんの感情が伝わったときに、彼のいるおよその場所は掴んだ。
秋葉原。それも、中央改札を抜けた、総武線と山手線の交わる地点のさらに向こう側、如月駅に彼はいる。距離にすれば、三キロほどの道のりだろう。
「こっち——ッ!!」
私は目一杯、両足に力を込め、大地を蹴り飛ばした。
ニヒルも私の後を追うようにして、迫り来る。
息切れが激しい。
白い息を吐いては、追い抜いてを繰り返す。その度に胸が締め付けられて、冷たい冬の空気が肺に突き刺さる。呼吸だってままならない。
後ろを振り返る余裕もないため、只管に走っているが、さっきよりもニヒルの気配が近くなっている気がした。
数十、数百。そして、数千メートル。
どれほど走ったか分からない。風景が後ろへと流れていき、どこまでも続く道を進んでいく。
苦しくて苦しくて、堪らない。
凍てつく寒さに加えて、空気が乾燥しているせいか、涙が零れる。
うんん、違う。そうじゃない。涙が零れるのは、冬のせいでも乾燥のせいでもない。このまま彼に会えないままでいることが、辛いからだ。
アヤセくんを感じる。このずっと向こうに、彼の気配を。
洋服の袖で涙を拭いながら、私は走った。
ニヒルなんかに、捕まってたまるか。
懸命な想いを胸に宿して、ただ前に身体を押し出す。
住宅街を抜けて、道路を渡り、境界線を気にしつつ、考えられる最短距離であの駅へ向かった。
アヤセくんっ、アヤセくんっ、アヤセくんッ!!
心の中で彼の名前を何度も唱えながら。
だが、湯島神社を通過して半分まで差し掛かったときだった。
「あ、れ——?」
狭い道を抜けて、階段を三段跳びで駆け下りていると、身体の力がある瞬間にぐっと抜けた。
その刹那、身体が小さく浮遊したように感じられて、すぐに受け身の姿勢を取るも、前傾姿勢に地面へと落下。上半身から着地した。そのままは私は勢いのまま近くの沿道から道路に投げ出される。
転んだ? 私?
状況に頭が追いついたのは、数メートルほどの高さから落下して、夕空が視界一面に広がったときだった。
衝突する寸前にどこからか現れたニヒルが私の身体を守っていなければ、怪我どころじゃ、済まなかったかもしれない。だけど、
「う——そっ」
私を受け止めたニヒルが私の足を押さえ込むようにして、動かない。
うつ伏せになり立ち上がろうと力を込めるが落下の衝撃のせいだろうか。すぐには、力も入らなかった。この世界ではこういった怪我や傷は回復するとはいえ、数秒か数十秒は衝撃が残っていることがある。
それに、私を追っていたニヒルも視界の隅にいた。
目視できる距離、数十メートルか、そこら。
動け。動け、動けッ!! 私の身体っ!
全身に力を込めて、強く命令するもまるで言うことを聞いてくれない。
あぁ、もう、ダメ——なの?
私は絶望した。身体が動かない。指先に力が入らない。呼吸もまともにできない。追いついたニヒルは、背後から私のコートに掴みに掛かってきた。伸し掛かるようにして私を捕らえたニヒルは、ゆっくりと私を包み込む。
ニヒルに触れられると、抵抗する気力すら奪われていくようで、冷え切った横断歩道の熱や無機質な固さがやけに現実味を与えながら、私は空を見上げていた。
こんな、ところで。終わり、なの?
溢れる涙で世界が歪み、沈みかけの夕日のせいか、視界が橙色に染まった。
ああ。もう、私。力が入らないや。
ここ数日の疲労と絶望のせいで憔悴した心。そんな私の精神状態とは乖離して、その双眸には皮肉にも鮮やかに染まる街並みを映し出されていた。
夕空のせいでやけに芝居がかった送電塔から伸びる電線。
誰にも見向きされない信号機に黒いシルエットだけを残す建物の輪郭。
深い憂慮を秘めた西空の色は儚くも消えてしまいそうで、空にはシャボン玉のような泡沫がきらきらと瞬いていて、
「っ、こ、れって——っ」
ふとその異変に気づいた。
風景に溶け込んでいるが、明らかに異質な宙を舞う泡玉。誰がなんのために飛ばしたのか。子供のニヒルか、それとも別のナニカかか。
ただ、私は空に浮かぶ泡沫を見て、素直に綺麗だと思った。
あの泡に触れたい、と誰の意思でもなく感じさせるほどに。
人の脳は美しいものを見ると、心を奪われるという話を聞いたことがある。
黄金比、フラクタル、対称性など色や形、比率が噛み合ったパターンを認識すると脳はそれを美しいと感じるらしい。それほどの魔力。
空に浮かぶ、この世のモノとは思えないほどに美しい泡沫に私の目は、そして心は奪われて、気付けば触れたいと手を伸ばしていた。
さっきの衝撃で全身に上手く力が入らない。だけど、上半身を起こしてなんとかそれに向けて指先を伸ばす。これくらいなら疲弊した身体でも何とかなった。
あと少し、もうちょっとだから。
この泡沫に触れたところで、事態は何も変わらない。アヤセくんにだって届かないけど、私は懸命に泡沫が放つ光を掴もうと必死で。
「あ、やせ——くん」
掠れた声。伸ばした指先が徐々に泡沫へと近づいていき、
そして、触れた。直後のことだ。
泡沫が映し出す夕陽に私は飲まれた。
言葉には表せない不思議な感覚だった。意識が何処かへ拐われるような、微睡みのような曖昧さが私を襲ってくる。
直後、私の脳裏にナニカが刻まれるようで、
映像のような記憶。映し出されるのはこの場所で、一人の少年が子供を助ける情景だ。
誰のだろうか。
赤くて熱くて鋭く痛む真っ赤な視界。
握られた一枚のカードに並ぶ文字列。
薄れゆき朦朧とする意識の中で芽生えた彼の想い。
「——っ」
私の目から、自然と涙が流れていた。
ああ、そうだったんだね。アヤセくん。
このとき、私はすべてを知った。
これが彼の言っていた現象なのだと。
そして、今見た記憶が、響谷文世の死に際の瞬間の出来事だと。
それと同時に私はすべてを理解してしまった。
紡希茅乃と響谷文世の物語、その始まりと
——結末を。
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