置き手紙

 彼と二人。

 それから二人で出掛ける日々が毎日続いた。

 一日の流れを簡単にまとめると、こんな感じになる。


 早朝。

 朝は七時になったら、朝食の支度を始めるという規則正しい生活をアヤセくんと二人で考えた。ただ、私の方が深く寝ていることが多く、アヤセくんが時々、起こしに来てくれた。

 どうやら、私は寝起きが悪いらしくその度にアヤセくんに「あと五分だけ」とアヤセくんの腕を掴みながら、せがんでいるらしい。アヤセくんに後から聞いた話だと、寝起きの私は「わぁ、なんでいるの?」と子供っぽい声を上げながらアヤセくんに抱きついたこともあるようだ。まるで覚えていないけど。

 だが一度だけ、私のその習性を利用して、アヤセくんをベッドに引き摺り込もうとした。だが思ったよりも緊張してしまい、途中で恥ずかしさに耐えきれずに顔を俯かせていると、アヤセくんに「起きてるだろ」と怒られた。失敗した。布団の中まで誘い込むまでは上手くいったのに、心の準備が足りなかったようだ。


 食事は基本的には交代制で、アヤセくんが作った翌日には、私が作ることになっている。初日の朝食は質素なものばかりを作っていたが、アヤセくんの料理に対抗意識を燃やした私が、どんどんと手の込んだ食事ばかりを作るようになった。アヤセくんもそれに気づくや、すぐに得意料理の黒酢酢豚やメンチカツで対抗してきたので、食事の量が増えて食べるのに苦労するようになった。太らない世界だということがせめてもの救いだ。


 午前中は、色んな場所に出掛けることが日常化していた。アヤセくんの世界である池袋、後楽園、上野や私の世界である渋谷、銀座、有明などの街へ出掛けた。まるでデートをしているみたいで楽しかった。毎日が幸せだった。


 昼ごろ。昼食はその場所近くの店で食べることが多かった。ただ、記憶にある店にしか入れないため、店の数は非常に限られていた。その為、お弁当を作ってベンチやテラスで食べることもあった。店での食事は注文したことがなくとも、味が予想できるものなら、そのまんまの味で提供される。アヤセくんが言うには、記憶を補完するようにそのもののイメージ(食べ物の場合は味のイメージ)が形となって具現化されるということらしい。ふむふむ。


 午後も午後とて、遠出先でのデート——じゃなかった、散策を楽しんだ。街中を散歩するだけの日もあったけど、退屈さなど微塵も感じないほど充実していた。


 家に帰るとアヤセくんの記憶から、引っ張り出した映画を鑑賞することが多かったと思う。テレビ正面に構えられたソファに二人で腰を下ろして、映画館さながらの暗い空間を満喫した。ポップコーンが自宅で作れることには驚かされた。

 寝たフリをして肩に凭れ掛かってみると、アヤセくんは動揺していた。動悸がはやくなれば、それが伝わってくるため平然を装っていることはすぐに分かった。ただ、私も緊張で心臓の鼓動が加速するため、たまにどっちがドキドキしているのか分からなくなる。なんだかとても幸せだった。


 夜。眠る前には、アヤセくんから勉強を教えてもらうことになっている。この前買った数学のワークや英語の文法などを教わった。リビングで勉強をするのだが、食事の時は向かい側に座るアヤセくんが勉強中は隣り合わせに座るため、その距離の近さにどぎまぎした。時々、肩が触れることもあり、その度に平常心を失いそうになるため勉強どころではなかったわけだが。


 そして、人生で一番早かった一ヶ月弱が終わり、四十五回目の夜が来た。


「あと四日か。なんか長いようで、短かったよね」

「そうだな」

「んー、なんで私たちがここに来たんだろ」


 見上げた夜空に浮かぶ冬の月が暗雲に姿を晦ました。

 コンビニの前で並びながら私たちは、近くのガードパイプに腰を据えて話をしていた。私の手にはちょうどかったばかりのホットココアが握られている。アヤセくんはアイスコーヒーを頼んだみたいだ。


 最近は元の世界に帰れると分かって、こういった話はしていなかったが、残り数日ともなると、この世界に来た意味について、気になってしまうものだ。


「さぁな。神様の気まぐれとかだったら勘弁して欲しいけど」


 凛々しい声が隣から聞こえた。アヤセくんはちょうど真隣で、街行くニヒルに目を呉れながらアイスコーヒーに口を付けた。


「あはは、珍しく非現実的なことを言うんだね」

「非現実的というなら、ここがまさにそうだけどな」


 ニヒルを捉えていた目線を空へと流して、一際大きなため息を吐いた。


「ねね、アヤセくんはどうしてここに来たか心当たりはあるの? ほら、私の場合は、心臓の病気でぽっくりと」

「ぽっくりって」

「まぁでも、現実世界の私は五年間も眠ってることになってるわけだし、周りからしたらぽっくりなんだよね」


 私の問いかけにアヤセくんは動揺とも困惑ともとれるような、形容し難い表情を一瞬浮かべて、すぐに顔を逸らした。


「どうだか。あんまり覚えてないんだ。記憶を取り戻したけど、直前のことは思い出せないというか」

「もしかしたらさ。ここに来るきっかけか共通点みたいなのがあるのかもって、思ったんだよね」

「共通点か」

「例えばさ、私の場合から考えて——」


 直後、私は自分で最悪な想定をしてしまっていることに気づき、それを掻き消すために勢いよく立ち上がった。


「ねぇ、アヤセくんが死んでるなんてそんなはずないよね?」


 震えた言葉が喉から発せられる。言葉にすると何故だか現実味を帯びたようで、隣から「大丈夫だよ。茅乃」とアヤセくんの声が鼓膜を震わせた。


 私はこの世界に来てずっと考えていた。

 なぜ私なのか、なぜアヤセくんなのか。

 もしかしたら、ここは私の最初の読み通り、天国なのではないか。もし、ここが死んだものの魂が訪れる場所だとしたら。もし、アヤセくんが実は、既に死んでいるとしたら。

 胸のどこかがチクリと痛む。これは私の痛みなのか、それともアヤセくんの痛みがリンクして私に届いたものだろうか。


 色んなもしもの想定が頭によぎって不安が全身を駆け巡る。私は嫌な汗が背筋に分泌されたような気がして、隣のアヤセくんの手を握った。


 ぎゅっと握り返された指先に熱がこもって心が安らぐ感じがした。


「あっ。ならさ、明日は私の好きな場所に付き合ってよ」

「明日か」


 アヤセくんは優しげに微笑んでそれに頷いた。


「そうだな、そうするか」


 彼の手を取ると夏祭りの時とは違って、ドキドキよりも安心感で胸が一杯だった。抱きつきたい衝動を抑えながら、私はホットココアを飲むことに意識を集中させる。


 元の世界に帰れる。そのことに対して、日に日に寂しさが強まっている気がした。


「帰ろうか、茅乃。もう暗い」


 暫くして、彼は私が飲み終えたのを確認すると、ゴミ箱へと二つ分のカップを捨てた。

 いつの間にか繋いだ手は離れている。


「あっ、うん。そう、だね」


 呆気にとられている私にアヤセくんは曖昧な笑みを浮かべた。

 その笑顔は、心做しかいつもと違う、違和感のある笑顔に見えた。いや、最近の彼の表情は思い詰めたような顔が多く、こういうのをデジャビュというのだろう。彼の作ったその表情に心当たりがある気がした。


「茅乃」


 直後、彼と目が合った。ゆっくりと手が髪へと伸びてきて、私の頭に触れそうになったとき、彼は動きを止めた。そして、また辛そうに笑うと、手を引っ込めて歩き始めた。


「アヤセ、くん?」


 追いかけるように私はアヤセくんの隣まで早足で向かう。


「変なの」


 なんだか、今日のアヤセくんはどこかおかしかった。

 いや、間違いなくそうなのだろう。

 だが、私はその意味を深く考えることも、疑うこともなく、日々を過ごしていた。

 きっと私の中に、現実に帰れるという油断があったからだろう。


 もしここで、彼の変化をそのときに見抜けていれば。或いは、アヤセくんのあの作り笑顔が過去の周りの目を気にしていた私と重なると瞬時に見抜けていれば、この先の展開は変わっていたのかもしれない。


 ただ、それに気づくこともなく、街灯の照らす車通りの少ない沿道、私は違和感の正体を気のせいだと割り切った。


   ꕤ


 その翌日。それは、灰色の冬空と枯木が一層際立つ、凍てつくような朝だった。

 朝、目を覚ますとアヤセくんの姿はもうそこにはなかった。

 彼は姿を消していた。

 彼の部屋、リビング、キッチン。トイレ、ベランダに和室。

 家中どこを探してもその姿は見つからなかったが、代わりに『茅乃へ』と書かれた紙切れが一枚だけテーブルの上に置かれていた。


 冷たい指先で手紙を掴み、逸る気持ちでそれを読んだ。

 文量は大してなかったため、ものの一分ちょっとで読み終えた。

 そこで私は、何を感じたのだろう。

 悲嘆、不安、恐怖、怒り、驚き。

 アヤセくんへの止め処ない感情が幾重にも重なって溢れてくるものだから、感情に名前なんてつけられない。


 けれど、私はすぐに走り出していた。靴を履き、家の扉を蹴り破るように開けて、冬空の下、冷え切った空気をかき分け、白い息を吐きながら私は走った。


 この世界のどこかにいるはずのアヤセくんの影を探して。


 もう一度、君に会うために駆け出していた。

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