第六章
少年の物語
響谷文世の人生は、観察の繰り返しだった。
自分を観て、子供を観て、同年代の友達を観て、大人を観て、社会を観て。
そして、それらの繋がりを観る。
自我が芽生えたときには、この世に溢れる色んな欲望を観ていた。
最初に観察したのは、両親だったと思う。幼稚園の頃だ。
父は金融関係の仕事に就いていて、母はアパレルの業界に勤めていた。決して不仲ではないものの家に帰ってくる頻度はお互いに少なく、家政婦さんが家に来ては食事や洗濯などの庶務をやってくれた。
ただ、息子の誕生日には、父と母が珍しく揃って帰ってきてくれる。ショートケーキに蝋燭を立てて火を灯す。二人の表情は暗くてよく見えなかったが、ある程度は愛情を注いでくれていたのだろう。
観察を続けると、ちょっぴり分かってきた。父と母は不仲なのだと。母親が早く帰ってきた日に父の話題を出すと、表情が曇った。父親に母の話題を出せば「そんな話はいいから幼稚園は楽しいか?」などと誤魔化された。
子供ながらにそれがとても、歪な関係のように思えた。けれど彼らの息子である響谷文世は、結婚という概念を正しく把握してなかったし、離婚という言葉も知らなかった。
いくら歪でも比較対象もなかったし、それが普通なのだ。
幼稚園に入園して、他の子供を観察するようになった。
幸せそう、楽しそう、愉快そう。彼らを観察していると、色んな感情が内側にあるのだと知った。両親を観察したときには、楽しそうや幸せそうなどといったものは見られなかったので、違う生物のようにも思えた。
幼稚園に通っている友達の両親を観察した。彼らに共通することは自分たちの子供を愛しているということだろうか。
幼稚園の先生と話している時も、子供のことを目線で追っていたし、子供が喧嘩で怪我をしたら、傷つけた子供の両親に対して怒りの感情を見せていた。
小学生になって、少年は自分の両親が普通じゃないことに気づいた。ただそれでも別によかった。分かったところで、何も変わることじゃない。
他所は他所、うちはうちという考えが子供ながらに身についていた。
そんな少年が変わったきっかけは同級生だった。
小学生の頃、この時期は実に情緒がうつろう期間で、幼少期には備わっていない人間らしさが身につく時間でもある。今までは独り占めしていたおもちゃも他者を労り分け合うようになるし、頭にあるロジックを言葉で相手に伝えることができるようになる。
何より、感情が豊かになり、それを言葉で表現して、正しく認識できるようになった。
少年は感動していた。これまで機械のように合理やら論理やら、ご都合主義やらで子育てやパートナーに向き合うことをしてこなかった両親とは違う、人間らしさを持った生き物としての人間に。
少年は感動していた。今までは動物のように自分のことばかりを考えていた子供が少しずつ他人にも優しくなれることに。人と向き合えるようになっていくことに。
ただ、学年が上がり、高学年になり、中学生になる頃には少年は落胆した。
いつだっただろうか。観察していたはずの同学年の子供たちは両親のように打算的に妥協をしつつ生き始めたことに気がついた。他人はおろか、自分に嘘を吐いても平気でいられるようになった。少年には、真っ直ぐだったはずの彼らの軸が歪んで折れ曲がっているように見えた。
少年は気づいた。
子供だった人たちもいつかは機械のような両親になるのだと。彼らは他人の痛みに鈍感になり、自分のことばかりを考えているように感じられた。
少年はこのとき、人の弱さに気づいた。人という生き物は薄情で、色んなことに向き合うことができる人はごく少数なのだと。
人は皆、優先順位があった。
家族や友人、親戚や同僚に対しての想いが顔も名前も知らない人間に向けられるものよりもはるかに大きいのだと知った。
他人。そう定義される相手への気持ちは家族や友人に向けられるものよりも、はるかに小さい。キャパシティとでも表現するのだろうか。大半の人が受け入れられる感情の器の限界が、生き物としての人の限界にも感じられた。
両親だってそうだ。彼らは仕事が何よりも大事だった。それに比べて、子育てや配偶者との時間は二の次どころか、三の次、四の次。その序列はかなり下だっただろう。
ただ、そこに可笑しなことはなかった。人はどこかで序列をつけている。子育てや配偶者が大事でないというだけで、やっていることは他の大人たちと変わらない。ちょっとだけ、順番の付け方が浮世離れしているだけだ。
薄情なのは、少年も一緒だった。
みんな余裕がないのだと分かった。当たり前に人の痛みに鈍感な社会に対して、不満を持ちつつも自分がその一員であることに対して、虚無感を抱いた。
苦悩の末に駅ホームで自殺する人。それを撮影して、ネットにあげる人。
親から愛されない子供、難病で苦しむ病人、社会から排斥された人々。
世の中は、見えにくい苦しみや悲しみで溢れていた。
子供のような純粋さは、社会生活により穢れて傷つき、薄れていく。
そこに残るのは、両親のような機械の心。
人は成長する。大人になるにつれて。
そしてその過程のほとんどを学校であり、そこで社会というものを学んでいく。これは飽く迄も一例だが、順位や評価もその一つだ。目で見える形で示された序列が人の真の価値であるかのように諭され、その価値観が当たり前となる。
きっと、社会生活のどこかで人はみんな狂ってしまうのだと思った。
他者を必要以上に気遣うことに疲れ果て、少しずつ利己的になっていく。それが十数年と続くのだから、大人になる頃にはとっくに手遅れなのかもしれない。
人って生き物は、わりと薄情だ。幾千幾万の見えにくい苦しみが溢れているにも関わらず、目を向けることなく自分の人生を歩んでいる。すぐそばの友人にさえ、その優しさが向けられることは少ない。
実際、観察者の少年も同様に、将来はとりあえず金払いのいい企業に就職して、飯を食っていこうとしていた。
取り繕った表面上の性格や態度を作れるようにもなった。
少年に他人を責める資格なんてなかった。
何かの本に書いてあったが、人は生まれながらに何が楽な道なのかを分かっているという。考えることは痛みと負荷を伴うため、人はその性質として楽な方へと流されてしまうらしい。
本当は苦しんでいる人に手を差し伸べたいと思っているけど、そんな力もなければ、余裕すらない。
だからこそ保身に走り、考えることをどっかでやめてしまう。
その方が楽で、社会を生きる上で賢明だからと納得させて、
本当にそれでいいのか?
疑問がどっかから湧いて出てきた。
だが、少年はすぐにそれでいいんだ、と湧き上がる衝動を納得させた。
少年は気づけば、観察者を気取って、社会を知った風に語りながら、薄情な人間としての自分を受け入れていた。
少なくとも、ある瞬間までは、受け入れられていたのだろう。
冬。高校の卒業式も迫るその日、少年の運命が変わる日が訪れる。
下校中に人混みの中から子供が一人、赤信号の灯る横断歩道へ飛び出したのだ。
トラックがクラクションを鳴らして、ブレーキ音を響かせたが間に合わないだろう。
誰か助けろよ。
少年の胸にふっと湧いたその思考は、とても薄情なものだった。観察者の少年らしい他人任せな考えだった。少年は顔を俯かせて、その瞬間をできるだけ視界に収めないようにスマートホンに視線を落とした。
電源の入っていない真っ黒な液晶は、曇り空の陽光を浴びて、鏡のように風景や人影を反射させる。刹那、そこに映る自分の顔が両親と重なった。
ははっ、笑える。
笑えるくらい、荒んでいて乾いた心が悲鳴を上げた。
その直後、少年が幼少の頃から抱えていた衝動が湧き上がる。
少年は、何もせずに観察だけする自分に対して、常に嫌悪感を抱いていた。そして、今この瞬間に観察者としての響谷文世に対する苛立ちが、目の前の子供一人を見殺しにすることで、守れるものよりも肥大化していた。
刹那、
情動的に目の前の子供を助けるために足が動いていた。
生きる意味を持たずして、ニヒルに生きてきた。けど、そんな自分自身が好きではなかった。飛び出した子供のためかと聞かれると、多分、俺のためだった。
ここで何もできないなら、俺は死んでいるのと同義な気がして、それを否定するために無謀にも少年を助けようとしていた。
響谷文世という少年が初めて自分を自分として、受け入れた瞬間だった。
この世界に来て、俺は茅乃と出会った。
茅乃はとても真っ直ぐな少女だった。
少女は何やら隠し事をしているようだった。
それだけじゃない。偽物のような『笑顔』を引っ提げて、適当なことを平然と嘯きながら演じていた。だけど、少女は時折、本物の表情を浮かべていた。
少女の中で、騙しきれない自分自身が俺と同じように悲鳴を上げていた。
人に惹かれるというのは、きっとその人に対してもっと知りたいという興味を持つことをいうのだろう。だとしたら、俺は茅乃に強く惹かれていた。
本物と偽物。子供心と機械心。
そのどちらも知っていて、それら二つの側面を使い分ける茅乃という少女に強く惹かれていた。
美術館で初めて見た、紡希茅乃の笑顔。
紡希茅乃という少女のことをもっと知りたいと思った。
観察者としての響谷文世を捨ててでも、茅乃と同じ目線で世界を見たいと思わせてくれた。だからこそ、茅乃と一緒にいるときは不思議と自分自身すら好きになれるようだった。
茅乃のことを助けたいと思った。
使命感とかではなく、俺がそう思ったんだ。
ꕤ
夜も深まった頃。
ベッドから抜け出して机に向き合うと手ごろな紙にペンを走らせた。
何も言わずに出ていくこともできたが、あまりに薄情だと思い、茅乃への手紙を残すことにした。
思いの丈のすべてを伝えたいと思ったけど、俺はこれからの茅乃の人生に関わることができない。如月駅から先へは行けない。残すところこの命もあと数日が限界だろう。
手紙を書き終えると、俺はリビングのテーブルに置いて静かに家を去った。
最悪のシナリオを回避するためにも、必要なことだった。
『茅乃へ
君に伝えておきたいことがある。
まず、現実世界において響谷文世という人間は既に死んでいる。
交通事故により、意識はおろか身体すら元には戻らない。
病床で眠っている茅乃とは明らかに違う状態だ。
だから元の世界に帰れるとしても、それは茅乃だけだ。
まず、先に謝らせて欲しい。
本当はちゃんとお別れをしたいけど、色んな感情が込み上げてきそうだから、こういうやり方しか思い浮かばなかった。
茅乃は目が覚めると、二十歳ってことになるんだよな。
五年間も眠っていたわけだし、身体もきっと弱っているはずだ。
でもちゃんとリハビリをすれば、身体機能は元通り以上になるだろう。
俺は正直に言えば、茅乃に憧れていた。
君のその真っ直ぐなところも、優しいところも、強いところも、時折見せる弱いところも全部だ。
だけど、この感情ももうすぐ消えて無くなる。
だから、お別れしよう。
今まで沢山お世話になったこと、心から感謝してる。
それと最後に、
随分と前の話だけど『何でも言うことを聞かせられる権利』を使ってお願いがある。
出来ることなら、もう俺のことはもう忘れて欲しい。』
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