現実への帰り方

 私たちは朝食の後すぐに、買い物へ出掛けた。

 向かった先は、つい二週間ほど前に行った東京駅で、私も冬用の服を数着買い込むことにした。せっかくだし、アヤセくんの服を選んであげようとしたが、なぜか丁重にお断りされてしまった。


「んっ、あれ食べたいっ!!」

「あ、おい、あんまり動き回るとハグれるぞ」


 昼時には浅草まで遠出をして、浅草寺の参道を見て回った。仲見世通りの出店は、夏祭りを想起するほどに賑わっていた。試しに「デートみたいだね」とアヤセくんに伝えると気まずそうに頬を掻いていたのは、ちょっぴり面白かった。


 夕方には東京スカイツリーへ赴き、展望デッキに登った。フロア450までの天望回廊からは東京近郊を一望できて、遠目だが雲海の向こうの富士山を拝むことができる。

 アヤセくんはどこか虚な眼差しで、その先にある景色を眺めていた。何が見えていたのだろうか。


 道中で寄った書店にて、アヤセくんの記憶に基づいた参考書を数冊購入した。どうやら勉強の話はマジだったようだ。


「すごく綺麗な場所だな」

「うん、私のお気に入りのとこだからね」


 その帰り道、私たちは皇居の東側に位置する和田倉噴水公園という場所にいた。

 夏空がオレンジ色と群青とその中間色に染まり始める頃、私の提案でこの場所を訪れた。ベンチに並んで腰を下ろして、アヤセくんは満足そうに息を吐く。

 中央の噴水から湧いた水の一滴一滴を、斜陽が夜空の星のように、鮮やかに煌めかせていた。厳かでシックな黒色を基調とした噴水を前に、自然と感慨に浸る。


 アヤセくんの話では、もう泡沫を見ることはないそうだ。私の記憶を覗き見されるわけだし、こっちとしては一安心だろう。はたして、なにを知られてしまったのだろうか。興味はあるけど、聞かないでおいた方が私のためかもしれない。うん。


「そういえば、俺がここに来て、もう二週間以上も経つのか」

「だね」


 夕空の下で、アヤセくんは感慨深く、そう呟いた。


「まぁ、茅乃が来てからだと1,864日って事になるんだがな」

「うっ、そう言われると膨大すぎて実感ないかも」


 私の体感では四年半だけど、アヤセくんの来た日付と私が倒れた日付から計算すれば、滞在期間は、およそ五年だ。四年半にしろ、膨大な日数になるのだから苦笑するしかない。


「短かったけど、色んなところに行ったよな」


 隣に腰をかけるアヤセくんがずっと遠くの方を見ながら呟いた。


「そだね。色んなところに行った気がする。秋葉原でゲームしたり、美術館で絵画を見たり、夏祭りで打ち上げ花火も堪能した、水族館やテーマパークにも行ったよね」

「茅乃は楽しかったか?」

「うん、どれも楽しかったよ」

「それはよかった」


 風になびく髪を私は耳にかけながら、そう答える。

 ここ数週間の彼との思い出は、全部が昨日のことのように思い出せた。


「もし、茅乃がしたいならこれからもそうしようか」

「これからって?」

「茅乃はこの世界に来てから、辛かったり嫌な思い出がたくさんあるだろ。なにせ、長い年月をずっと一人で過ごしたわけだし」

「まぁ、ね」


 この世界に来てすぐの頃はよかった。

 心臓も痛まないし、身体のことを気にせずに動き回ることができたわけだし。けど、退屈は人を殺すという言葉もあるように、私はいつしか、自身の命に無関心になっていた。


「だから、元の世界に戻ったときにこの世界でも楽しいこともあったなって思い返せるくらいになって欲しいってのが今の心情かな」


 アヤセくんは優しい。気配りとかそういうことじゃなく、私にとってこの世界がいい思い出になるようにしてくれるらしい。けど、一つだけ引っかかる。

 私は唇に指を這わせながら、空を見上げた。


「んー、今朝も思ったんだけど、まるで戻れるみたいな口ぶりだね」


 元の世界に帰った時のために勉強をするという話も、彼は戻れる前提で語っていた。


「まぁ、ずっと戻れないなんて思いながら過ごす日々よりも、戻れるかもしれないっていう希望を持っていた方がいいだろ」

「つまり、心の持ち様ってこと?」

「まぁな。それに」


 勿体ぶるように間を開けて、アヤセくんは息を吐きながらこう続けた。


「戻れる方法は、あるんだ」

「え——っ。もど、れるの? でも」


 なんだか、一気に風景が暗くなったような気がした。

 ちょうどのタイミングで日が落ちたのだろう。

 表情に影が差し込み、彼の表情はわからなかったが、それどころではない。

 何をどうやったら帰れるのだろうか。

 色んな考えが頭の中をよぎったため、返事をすることを忘れていた。


「現実世界の茅乃は、ちゃんと生きてるよ」

「そ、そうなの?」

「ああ、だから帰れる」


 私の仮説では、この世界に来る前に現実の私は死んでいる。

 だからこそ帰ることを諦めていたのだが、生きているとなれば話は別だ。


「え。でも、どうやれば」

「如月駅だ。帰るための鍵はあそこにある」


 如月駅。

 あの場所に現実世界へ帰るための手掛かりがあることは私もある程度は、予想できていた。彼も私も、目が覚めた場所が如月駅という共通点は同じだからだ。


「まず、俺がこの世界に来てから、四十九日後、今からだと三十三日後にその駅へ行く。そして、そこに来る列車に乗れば、現実世界に帰ることができるはずだ」

「そう、なんだ」


 私は彼の話を半信半疑で聞いていた。

 アヤセくんの言葉を疑っているのではなく、単に信じがたいことだったからだ。

 話の詳細があまりにも明確で、自然と疑問も湧き上がる。


「でも、どうして」


 どうして、そんなことがわかるのか。

 私が尋ねると、彼は苦い顔を浮かべながら、説明を始める。


「感覚的に分かるっていうのかな。記憶が戻ったときに、一緒に思い出したんだ。これからどうすべきか、何が起こるのか。それらを感じ取ることができる。まるで生得的に備わっていたみたいに」

「私がアヤセくんのいる場所を感じられる、あの現象みたいなもの?」

「詳しくは分からないけど、かなり近いと思う」


 私はアヤセくんがこの世界に来たとき、彼が如月駅にいることを本能的に分かっていた。

 何かに導かれる感覚。彼にもそんな何かがあるのだろう。


「あはは、根拠としてはわりと薄いね」

「そうだな」

「うん、でも信じるよ。アヤセくんの言葉だし」


 私の言葉に彼は、顔を逸らして表情を隠す。恥ずかしいことを言ってしまった事で、私も隣を見れなくなってしまった。暫く俯いて、それでも嬉しくて顔を上げて前を向いた。


「でもそっか。良かった。これで帰れるんだね、私たち」


 信じられない事なのになんだかすとんと胸に落ちた気がする。きっと、アヤセくんの言葉だからだろう。

 私は帰ってからのことをちょっとだけ想像してみた。

 現実の私は今は、二十歳になるのだろうか。成人になり、お酒もタバコも吸える年齢だ。あんまり興味はないけど。

 生きているけど、入院生活にまた戻るのだろうか。家族や友達は元気だろうか。

 色んなことを考えて、一つ、ある想いが胸にある事に気が付いた。


 現実に戻っても、アヤセくんに会いたい。


 これを彼に告げるのはちょっとだけ緊張するけど、ここは勇気を出して言ってみるべきだろう。


「…………」

「ねぇ、アヤセくん!」


 もじもじと躊躇する自分自身に喝を入れると、彼の名前を呼ぶ。

 ぽつりとアヤセくんが何かを呟いた気がしたが、今の私の耳には届かなかった。


「どうしたんだ?」


 私の熱意に押し負けたのか、アヤセくんは硬い表情で尋ねる。


「あのさ、私から一つだけお願いがあるんだけど」

「ああ」


 緊張に口が乾き、指を合わせながら覚悟を決めて言葉を捻り出す。


「もしさ、現実世界に帰れたら、私のお見舞いに来てくれないかな?」

「見舞い? ——それは、茅乃のってことか?」

「うん。現実に戻っても、私の病気って治ってないから、多分だけど闘病生活になるんだよね。だけど、割と暇だからさ」


 現実世界に戻っても彼に会う方法は幾らでもあるが、自然な話の流れでそれを伝えるなら、お見舞いという状況は私にとっても都合がいい。


「あっ、でも待ってね。私って五年間くらい寝てるんだよね。骸骨みたいに肉が落ちてたらどうしよう。やっぱり、回復するまでは待ってて欲しいかも」


 現実的なことを考えると、急に不安が押し寄せてきた。

 ちょっとでも、可愛いと思ってもらいたいから、できれば身体を元の体型にするまでの時間くらいは欲しい。

「それに」と私は、指先に力を入れて、顔を足先へ向けた。


「暇だからって理由だけじゃなくて、アヤセくんが一緒だったら、心強いというか。入院生活って多分、思ってるよりもずっと心細いんだよね」


 落とした視線を彼に戻して、首を傾げた。


「だから、だめかな?」

「茅乃」


 アヤセくんは考え込むように静止した。

 私は苦悩する彼を見て、不安になる。

 アヤセくんから見た私は、たまたまこの世界で一緒になっただけの存在なのだ。帰るために協力関係を結んでいても、元の世界ではまた別だ。私にそこまでする義理だってない。

 私が口をへの字に曲げていると、彼は考える素振りをやめて、覚悟を決めたように口を開く。


「ああ、分かった。茅乃のこと心配だからな。ちゃんと見てるよ」

「っ。うん。ありがと」


 とても優しい口調だった。私の心配は杞憂で終わったらしい。

 ほっと胸を撫で下ろして、彼の双眸を見つめる。


「なら後で、連絡先の交換とかしちゃおうよ。元の世界に帰れたらお互いに電話するっていうのはどうかな?」

「そう、だな。分かったよ」


 アヤセくんは私の笑みにつられて表情を綻ばせた。

 彼が私の提案にすぐに返事せず、悩んでいたことはちょっぴり癪だけど、これからもっと私のことを知って、好きになって貰えばいいだけのことだ。そう思う事にしよう。


「そっか、帰れるんだ」


 彼に届かない声量で呟いた。

 現実世界に帰れると分かると、なんだか胸が軽くなった気がする。

 帰っても彼に会える。その喜びが私を安堵させ、そして、盲目にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る