『これまで』と『これから』
私の中で、アヤセくんは既に掛け替えのない大切な存在になっていた。
その事に気づいたのは、病院からの帰り道だった。
彼に全てを打ち明けた日の夜。
ベッドの上で寝転びながら、天井の曖昧に光を放つ電球を眺めて、私は彼のことを思い出していた。
一日目。
アヤセくんとスタバに行ったときのこと。
彼が記憶喪失だと分かったときに、私はあることを思いついた。
『一週間くらい前のことかな。私も君と一緒で気づいたら、ここにいた感じだからさ』
彼に嘘を吐いて、私の我が儘に付き合ってもらうということだ。
どうせ死んだのだから、ちょっとくらい許して欲しい。喫茶店の一席。初めはそんな軽い気持ちで、私はここに来てからの日数を偽った。
その後、私はアヤセくんに二人で行動することを提案してみた。私としても誰かといることは、ほんとに久しぶりでちょっとだけわくわくしていた。
彼が路地裏で境界線を見つけた。
私はその法則を熟知していたが敢えて知らないフリをする事にした。心の中にある蟠りがさっきよりも大きくなった気がしたが、偽ると決めた以上は従うしかない。
ゲームセンターで一緒に遊んだ。
最初は乗り気じゃなさそうだったけど、ダンスゲームを一緒にやって楽しんでくれた。ヴァイオリンのキーホルダーを取ってくれて、なんだか嬉しかった。
アヤセくんが私の家にきた。家族や親戚以外の男の人を家にあげるのは初めてで、ちょっぴり緊張したが、大人な対応をしてみせた。
冗談にもちゃんと反応してくれるため、面白い人だと思った。
テレビの西暦でここが私の世界だと気付かれそうになったが、再放送だと勘違いしてくれた。アイスを食べてテレビを見た。不思議な感じがした。
ベッドの中でアヤセくんのことを考えた。なぜここにいるのか。色々と考えていたら結論が出ないまま次の日になっていた。寝れなかった。もともとこの世界は睡眠や休息をあまり必要としないため、体調は平気だったが翌日、アヤセくんが私を心配してくれた。
嘘を吐いていることの罪悪感がさらに強まったような気がした。
二日目。
手料理を振る舞った。
勉強の成果もあってか、褒めてもらえて大満足だった。
美術館に行った。孤独少女の前で立ち尽くしている私をアヤセくんが見つけてくれた。以前に美術館に行ったときは、一人だったからなんだか安心した。
絵の解釈についてアヤセくんが教えてくれた。
この瞬間にアヤセくんは絵の中に佇む一人の少女だけでなく、私をも救ってくれたんだと思う。
彼の見ている世界をもっと知りたいと思った。
その晩。
ヴァイオリンのキーホルダーを眺めながらアヤセくんのことを考えた。
この世界についてを隠していることへの申し訳なさや罪の意識で胸が苦しくなった。もっとアヤセくんのことを知りたいという想いから目を逸らすことで、気持ちが楽になった。
七日目。
アヤセくんと色んな場所に行った。
中学校に行ったときに、心臓の病気を患っていたことがバレてしまった。本当はもう手遅れな私の病状を治ったと嘘を言ってしまった。さらに胸が苦しくなったような気がする。
十四日目。
神社に参拝した後に夏祭りに行った。
アヤセくんと初めて手を繋いで歩けたことが嬉しかったが、罪の意識が一層強くなった気がした。
花火が上がった。私の悩みを夜空に散ってゆく火花が爆音とともに消し飛ばしてくれるようで、花が咲いているそのときだけは全てを忘れて幸せだった。
帰り道でアヤセくんと記憶の話をした。どうやら、アヤセくんは自分自身を軽視しているようで、胸が痛くなった。
十五日目。
辿り着けるはずのない場所に行けてしまった。アヤセくんの母校だ。驚きで我を失っている私を彼は元気付けてくれた。
体育館でスポーツ勝負をしたが、3勝4敗で負けてしまった。
なんでも一つ命令できる権利を使って、アヤセくんは何を望むのだろう。
アヤセくんが記憶を取り戻した。離れていても、感覚的にそのことは分かった気がした。
多分、彼の心臓の鼓動が私にも伝わる現象に似ていた。
元の人格が戻ったことで、今のアヤセくんが消えちゃうと不安になったけど、アヤセくんはやっぱり変わらず、優しくてかっこよかった。
アヤセくんに全てを打ち明けた。
病気のこと。私がここに来たときのこと。
胸にずっと溜まっていた嘘を吐いていることへの申し訳なさが消えていくようで、話してすごく楽になった。怒らずに話を聞いてくれたアヤセくんには感謝しかなかった。
人生で初めて、私の本当を見てくれてくれた気がして、胸が熱くなっていた。
嘘を吐いたことで、抑えられていた感情のリミッターが外れたような気がした。
アヤセくんのことを、好きだと自覚したというのだろうか。
単純すぎる自分の思考回路についつい笑ってしまうけど、この気持ちは私にとって決して偽物ではないと、脈打つ心臓が主張している。
一つ、二つ。そして、三つ。五つ、六つ、七つ、八つ。
瞼の裏側の世界で、私はこれまでのことを思い出して、満たされた気持ちの中で眠りについた。
ꕤ
その翌日は、早朝からの凍てつく寒さで目が覚めた。昨日まではセミの声が身体に染みる真夏だったので凄まじい変化に身体が敏感に反応していた。
日本では冬の厳しい寒さを冬将軍なんて表現するが、どうやら将軍様は私とアヤセくんを凍死させるつもりらしい。
むくりと身体を起こしてから窓の外の光景を見て唖然とした。茫然自失と立ち尽くす私の姿が窓硝子に反射して薄っすらと映る。あまりに突飛なことで脳の処理が追いつかなかったが、考えられる原因は二つだ。
私のせいかな。
昨日、病室で今の季節が『冬』であることを教えてもらった。
アヤセくんの学校がこの世界で生成されたように、アヤセくんの記憶、或いは発言がこの世界に甚大な影響を与えたと考えることもできる。
やはり、私とアヤセくんの記憶によって世界が造られているのだ。ここが私の精神世界でないにしろ、それだけは確かなことだ。
何にせよ、起こってしまったことにとやかく言っても仕方ない。受け入れてちゃんと考えようと思えた。いつもよりちょっぴり前向きだ。
ꕤ
リビングに下りると頬杖をついて窓の外を静観した。寒くないように厚着のパジャマを羽織っていて、アヤセくんが起きるのを待っていた。
私の生活音がアヤセくんにも届いたのか、すぐに階段を下りている足音が聞こえてきた。どうやらアヤセくんもこの寒さで目が覚めたらしい。
妙に身体が強張った気がしたが、きっとこの寒さのせいだ。そうでなくとも、そういうことにしよう。平常運転。綻んだ表情に喝を入れて、いつも通りの私を意識しながらアヤセくんを見つめる。
「おはようアヤセくん、外すごいね」
「そうだな。昨日の今日だし、こんなに変化があるとは思わなかった。せっかくの夏服も無駄になったし」
「だね」
アヤセくんは外の様子を眺めていた視線を私に戻した。凛々しい眼差し。思わず目線が奪われた。しばらく見つめていたので、アヤセくんは眉根を潜めたがすぐに話題を切り替えた。
「茅乃、今日は俺が朝ご飯を作るよ」
「えっ?」
「いつまでも茅乃におんぶに抱っこじゃいられないって、前にも話しただろ」
「そう、だっけ」
朝食を作ることが、いつもの日課になりつつあったこともあり、言葉にはできない妙な気分だった。
彼は台所に立つと、冷蔵庫から有り合わせの食材で手早く料理を済ませる。私よりも慣れた手つきなのがちょっとだけ腹立たしかったが、彼の料理を口にして私は思わず感嘆の声が漏れてしまった。メニューはただの和食だけど、魚の塩加減や出汁の取り方が違うのだろう。同じ食材でもこうも明暗が出るのかと、まるで魔法にように感じられた。
「アヤセくんって料理が上手なんだね」
「親の帰りが遅かったから自炊することが多かったんだよ。あと、不服そうな顔をしないで言ってくれ」
「ごめんごめん」
私はアヤセくんが記憶を取り戻していたことを思い出す。私よりも料理が上手なのはちょっぴり癪に障るけれど、それを含めてもアヤセくんの料理は美味しい。でもやっぱりムカつく。
「御両親はどんな人だったの?」
「まぁ、仕事第一の人だったよ。帰りが遅いから子供の頃は家政婦が来てくれて、料理はその時に教えてもらったというか」
「へぇ、家政婦さん。ね」
アヤセくんは私の問いかけにかなり渋い笑みを浮かべた。
鈍感な私にも彼の触れたくない話題に触れてしまったのだと分かる。
あまり訊くべきではないが、私だって彼のことは気になる。いつかちょっとずつ話してもらうのもいいかもしれない。
「ところで、茅乃。これからのことなんだけど」
私が物思いに耽っていると、ちょっとだけ深刻そうな面持ちで、アヤセくんはそう切り出した。
「これから?」
「この世界のことだ」
「あっ、そっか」
私はアヤセくんの言葉にハッとさせられた。
この時の私はすっかり元の世界に帰ることを忘れていて、彼が言い出さなければ、私は考えることもなかっただろう。
アヤセくんだって記憶を取り戻したわけで、帰りたいと思うのは自然な流れだ。私の精神世界だと思っていたけど、別の可能性だって見えてきたわけだし、何か新しい手がかりがあるかもしれない。
まぁ。私の場合、帰ったところで、なのだが。
「たしかにそうだよね。なら、帰る方法を——」
「それだけど、この世界の調査をするのは、しばらくやめよう」
「や、やめる?」
ついつい間抜けな声が出てしまった。アヤセくんはくすりと笑っていたが、私が驚くのが分かっていたはずだ。記憶を持ったアヤセくんの根っこは変わらないが、心做しか大人っぽく意地悪になった気がする。なんかズルい。
「それで、今日は出掛けないか? 行ってみたい場所があるんだ。それに冬服も買っておきたいし」
「あ、そっか。ところで、行ってみたい場所って、アヤセくんの知ってる場所?」
「昔に何度も通った場所だな。自分の世界は退屈って言ってたわけだし、気分転換にはいいんじゃないかなって」
「なるほど」
と、私はそこでアヤセくんに仕返しをする良い方法を思い付いたので、さっそく実行することにした。
ここらで、アヤセくんの照れた顔を拝ませてもらおう。
その意気込み自体に問題はなかったが、
「ま。まぁ、私はアヤセくんとなら——」
どこでも楽しいけどね。用意していたはずの台詞に異様なまでの小っ恥ずかしさを感じてしまい、悟られないように明後日の方向を向いて表情を隠した。
「何でもない! 食べ終わったなら、食器片そうよ」
机に手をついて勢いよく立ち上がった私は、そそくさと食器を重ねて運ぶ準備を進める。アヤセくんは呆気に取られた顔で私を見ていた。あぁ、恥ずかしさで消えてしまいたい。
「それと、もう一つ」
私が台所に食器を置いて水を流し始めたときに、アヤセくんは口を開いた。
「茅乃。勉強しないか? 数学とかの」
「べ、勉強!?」
またしても、頓狂な声をあげてしまった。
「茅乃って勉強は高校受験の範囲で止まってるんだよな。だったら、高校の範囲もやっておいたら得かなって、元の世界に帰ったときのためには」
「んー。まぁ、それはそうだけど?」
アヤセくんの言葉からとても真剣だということは伝わったけど、何度考えても発言の意図が分からなかった。
「えっとね。昨日も言ったけど、私は元の世界に帰っても病気でいつ死んでもおかしくないわけだし、高校も行けるかどうか分からないよ?」
「けど、教えたいんだ。寝る前にちょっとだけ教える程度でも。だめか?」
「い。いや、ダメじゃないけど」
アヤセくんの情熱に押し負ける形で流されるままに頷いてしまった。とはいえ、やはり何がしたいのかは掴めない。
まぁ、私は私で意中の相手に勉強を教えてもらうというシチュエーションには内心では胸を躍らせてたわけなのだけど。
朝食の食器を片してから、玄関で再集合した私たちはまず冬服を買うために東京駅へ向かった。アヤセくんは私が貸した父のセーターと最初に着ていた冬用の黒コートに身を包んでいた。
素直に似合っていることを伝えようとしたが、言葉に詰まったのでやめた。
というか、私。今朝から変だ。どうにも空回りしているような感じがする。
気を張って表情には出さないようにしているけど、疑う余地なくアヤセくんへの感情に振り回されていた。
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