第五章
少女の物語①
狭心症、たしか正式名称は、冠攣縮性狭心症だったはず。
私が最初に患った病で、小学二年生の頃に発覚した。子供がこの病気に罹ることは非常に珍しいらしく、生まれながらに心臓が人一倍弱いらしい。
胸が痛い。呼吸がしづらい。そんな症状で朝方に目を覚ますことが頻発した。
両親の話によれば、冠動脈が異常に伸縮することで、胸が締め付けられるらしく、胸が熱く焼けているようだった。
胸が苦しい。走った後のドクンドクンと脈打つ類の苦しさとは違って、心臓を悪魔にでも直接握られているような苦痛というのだろうか。何度か激しい症状が連続して現れたときには、死を覚悟したこともある。
後に聞いた話によれば、母には毎晩のように「私、死ぬの?」と際限なく尋ねていたらしい。
病気による物理的な痛みは確かに私を追い詰めた。しかし、どちらかというと精神的なストレスの方がまさっていたと思う。
発作は十五分以上も続くこともあり、生物としての反応なのか、瞳にはうっすらと涙を浮かぶ。次の瞬間には、心臓の音が止まっているかもしれないという恐怖は、十歳にも満たない少女のの心をえぐる凶器としては十分すぎるほどに鋭利だった。
苦しみは、夜が明け始める時間帯に症状が現れ始めるため、次第に眠ることに対して、恐怖するようになった。
だが、幸いにも薬物療法で状態は改善されて、学校に通うこともできた。大事をとって体育等の授業は見学となった。
友達は私の病気を知っても変わらずに接してくれた。優しい子たちなので子供ながらに私を気遣いながら接してくれた。
小三の頃にクラス替えがあった。仲の良かった子たちと離れ、そのことがきっかけで、一度だけトラブルになったことがある。
病気に罹った私は口数も減って、暗くなっていたこともあり、周りからはあまり良いように思われなかったのだろう。体育の持久走を病気を理由にサボっていると難癖をつけられたことが原因だった。
だから私は、猫を被って生活を送った。
周りから元気で明るく、根は優しい子だとそう思われるように立ち回ることにした。新しい友達も増えて、私の周りに揶揄うような輩はいなくなった。
偽物の笑顔を振りまくことで、みんなが気持ちよく過ごせるならそれで良い。
『茅乃ちゃん、身体の具合は大丈夫?』
『全然平気! アミは優しいねぇ、きっと将来は優しいお嫁さんかな?』
『もぅう、変なこと言わないでってば!』
いつしか私は人の目ばかりを気にするようになっていた。
『茅乃、今日も学校は大丈夫だった?』
『うん、大丈夫だよ。お母さんも、心配してくれてありがとね』
人の不幸自慢ほど、つまらないものはない。子供ながらに身をもってそれを体感した私は自身の症状を人に隠すようになった。
『週末、みんなで遊びに行くんだけど茅乃はどうする?』
『いくよ、いくいく! 私を抜きにして、遊びに行ったら寂しくて死んじゃう』
『いや、ウサギかよ』
『でもいいよね。動物より艶のある髪の毛にもちもちのほっぺた。私が男子だったら絶対飼いたいもん』
『ちょいちょい、そこは百歩譲って、付き合いたいにしてってば』
中学生になる頃には狭心症の症状も落ち着いてきて、病気が治ったのだと錯覚し始めた。だが、私の病気は心筋症だけではなかった。
特発性拡張型心筋症。私が患ったもう一つの病名。
私はもともと心臓が弱かった。だから、こうなることは分かっていたのだ。
————違う。それは、嘘だ。
分かってたって、そう自分に言い聞かせないとどうにかなりそうだった。
どうにかなってしまいたかった。泣いた。毎日隠れて泣いていた。
私専用の部屋があったのが幸いだった。夜な夜な涙を流しても、声を抑えていれば両親に聞かれることはなかった。
両親は自分たちを責めていた。丈夫な身体に産んであげられなかったのだと謝っていたが、「そんなことはないよ、私は生まれてきただけで嬉しい」と彼らに抱きしめられながら伝えた。
中学二年生になって発症したこの病気は原因が不明で、薬物療法だけでは改善が見られなかった。
『茅乃、学校に行くのはしばらく控えてみるのはどう?』
『え? 大丈夫だって、お母さん。私、意外と元気だから』
入院することが増えた。授業日数を気にして、症状を偽り、無理にでも学校にいくことさえあった。
中学三年生になると、入院しても症状が回復することはなく、人工心臓というものを使ってやっと生きながらえているような状態だった。人工心臓は体外にある小型冷蔵庫ほどの機械から血液循環を強制的に促すようにする装置だ。ポンプ機能の弱った患者に使われているらしい。
ただ、人工心臓もポンプ機能を代行するだけの機械であり、病気を完全に治療する方法は一つだけ、心臓の移植手術しかない。
三年から五年。
移植手術を受けられるまでにかかる日数だそうだ。手術を受けるためには臓器提供者が必要ですぐには受けられないと説明を受けた。ただ、その年月が経つまでに不整脈や心不全などで命を落とす可能性は決して低くなかった。
心臓の鼓動に誰よりも敏感に、そして真剣に向き合った。
その反面、私は自分の中にある、とある感情を隠しながら、病弱を隠して元気に振る舞う自分を演じていた。
三年生になっても病気は回復しなかった。呼吸をすることへの息苦しさと胸部を締め付けるような動悸。呼吸困難でもうダメだと思ったこともあった。
夜が来て、眠るたびに明日は目覚めないのかもしれないと不安になって、いっそのこともう死んでしまいたいと思ったこともあった。慢性的な病気で辛いのは、終わりが見えないことだと身を以て実感した。
三年の冬。ついに、私の意識はある瞬間に途絶えた。病気は治ることはなく、私は深い眠りについた。
次に目が覚めたのは、今から四年半ほど前だと思う。如月駅でだ。
ちゃんとした日数に関しては曖昧だが仕方がなかった。ずっと一人で誰とも会話することなく過ごしていたから、時間の感覚なんてとっくに狂っていたから。
いつにもなく、静かだな。
ある朝、目を覚ましてそんなことを思った。いつもであれば、この時間帯は看護師が慌ただしく、朝支度をしている頃なのに。
奇妙な世界の異変に気づいたのはそこからだ。
不思議と、胸が軽かった。呼吸もしやすい。
普段であれば身体をベットから起こすただそれだけの行為で息苦しくて辛いというのにおかしい。真っ先に私の身体に変化が訪れたのだろうかを疑った。
だけど、その期待は別の形で裏切られる。
「さぁむっ」
びくっと身体を震わせた。真冬の朝。ひとたび、その寒さを感じると、不思議なもので身体は寒さを知覚し始める。もう一眠りでもしようかと考えていたけれど、それもいかない。とてつもなく寒かったから。
パッと勢いよく身体を起こして、寒さの原因を探る。窓でも開けっぱなしで寝てしまったのだろうか。眠りまなこを擦りながら、周囲を一瞥してその異変に気付いた。
「病院じゃない——?」
普段であれば、そこに広がるのは淡白で味気のない病院の一室。隣のベットとはカーテンで仕切られていて、人の気配もほとんどない。病床横のテーブルに置かれた小型テレビにお飾りの花瓶。602号室の窓際のベットから見える景色などその程度だ。
しかしたった今、眼前に広がるのはそれを嘲るかのようなどこまでも続いていくような風景。淀んだ雲に覆われた空は雪で白んだ山々との境界線を曖昧にして、大自然の雄大さを体現したようだった。私の自由を奪う人工心臓もない。
——雪?
そこで気づいた。
「あれ、なんで、私。こんなところにいるんだろ」
私が目を覚ましたのは、あの駅だった。アヤセくんと初めて会ったときのベンチに横たわって眠っていた。
立ち上がった私は裸足だったことに気づく。冷え切ったタイル床から伝わるひんやりとした感触に鼻をすする。全身に広がる冷気に曝されて、風邪でも引いてしまいそうだった。しかし、そんな心配事もこの体に起こっていることに比べたら、些細なことだった。
辺りを見渡しながら、私はあることを確信する。
ゆっくりと足を踏み出して、一歩一歩と前へと歩いていく。それだけ。
電車のくる駅のホームのすれすれに立った私は、風景を眺めて思いっきり息を吸った。目一杯、これでもかというほど。
溜め込んだ空気は凍てつくような冷たさだったが、身体の芯から溢れ出す興奮はそれを凌駕するものであった。
胸が痛くない。
息を吐き出した私はその興奮に酔いしれていた。
今までにない感覚だった。鼻を抜ける空気が心地よく、白んだ息が風に流されて、飛んでいく。
病気が治ったのだろうか。
いつもなら心臓の病のせいで、呼吸するだけでも一苦労だったのだが、今はそれが当たり前のようにできる。
みんなにとってはそれだけのこと。なんだかそれが可笑しくて、私は笑っていた。腹を抱えるようにして、しばらく笑ってからあることを思い出す。
「うぅ。寒い」
肺の空気が交換されたせいで、寒さが一層感じられた。鼻のあたりも赤くなっていることだろう。これ以上は生命の危機を感じるので、真剣に考えてみる。
ここはどこなのだろうか。
田舎なのは間違いない。しかし、記憶をいくら辿っても、この周辺に心当たりはなく、謎は膨らむばかりだ。ぐるりと見渡すもののここが駅であり周辺には山々が広がっていること以外の情報はない。
雪化粧のせいであたりから生命を感じられないせいもあり、少しだけ不安だ。
駅の中心に埋まった木の隣には駅の看板が設置されていた。二月駅。
「あはは、実はここ、天国だったりして」
笑えない冗談だ。撤回しよう。
駅ということはやはり改札もあるようで、駅のホームの隅に小さな建造物を見つけた。人がいるかもしれないので、私はとにかくそこへと向かった。
こんなに自由に歩けるのは久しぶりの感覚で、ひんやりと冷たいタイル床も生を実感できて、不快感はなかった。
「さてと。私、お金ないんだけど、どうしよっか。んー」
改札口には人はいなかった。目の前にあるのは改札とは呼べない木製の柵と人が通れるほどの隙間だ。
ちょっとだけ頭を悩ませたが、怒られたなら謝ればいいと割り切ることにしてそこを通過する。命の危険があるのだ。誠心誠意、謝れば許してくれるはずだ。
改札を抜けて周囲を見渡すも人の気配はなかった。ここは本当にどこなのだろうか。考えを巡らせていると、アレが始まった。
シャッと周囲に捜査線が走り、風景が歪む。
怖い。普通の精神状態であれば、そんなことを感じるのだろうか。だとしたら、きっと私はすでに不良品だ。
死の恐怖は既に日常茶飯だったこともあり、命の危険が脅かされる怖さは麻痺していた。
軋んだ世界は形や色を変化させる。何が始まったのか分からずに戸惑っていると、ソレは終わっていた。
そして、気づけば私はいつものベットの上にいた。
あれ、今のはなに? もしかして、夢だったり?
初めは夢を疑った。病気が治ることは良いことだが、それが夢なら間違いなく悪夢だろう。病気が治る夢を見て、現実を突きつけられる展開はもう御免だ。しかし、
「あれ、痛くない」
そう呟きながら私は胸を抑えた。さっきまでのは、夢だったのかもしれないが胸は痛まない。
身体もいつも以上に軽くて、私は立ち上がると身体に負荷がかからないようゆっくりと歩いて病室の扉まで辿り着いた。
「た、竹本さん?」
担当であったナースの名前を呼びながら、そっと引き戸に手を掛けた。しかし、廊下には誰一人として、人はいない。人は——。
「————」
無言でこちらを見つめるのは看護師——ではなく、半透明なぶよぶよとしたナニカだ。
あまりのことに息を飲んだ。
身体が異様なまでに拒絶反応を示して、逃げるようにその場から離れた。
まともに走るなんて久しぶりもいいとこで、途中で何度も転倒を繰り返しながら、何とかアイツらのいない病院の屋上まで駆け上がった。
「ハァ、ッハァ」
凭れ掛かるように屋上の鉄扉に座り込んだ、私は呼吸を整えながら曇り空を見上げた。
何あれ、なんかの生命体?
ちょっと前にゾンビ映画でも見たからだろうか。なにこれ、悪夢?
頭の中で繰り返される情報処理に脳が追いついていないのか、それとも何かのバグなのか。
理解不能、意味不明。天地がひっくり返った天変地異のなかで、なぜだか私の口角は吊り上がっていた。
ハァハァと私の息切れの音を全身で感じていた。いつもの死の足音のする最悪な息切れとは違う、命の叫声が聞こえてくるような息切れだった。
人は失ってからその大きさに気付く。
恋人と別れてからその大きさに気付くように。
病気に罹ってから健康体でいることの幸せに気付くように。
初めて運動による疲れを知って、生きてる、ということをより深く実感したのかもしれない。
私は、この世界に来て初めて本当の意味での生を体感できた。
病院の屋上で冷たいコンクリートに病衣のままへたり込みながら、私は満たされたように冬の曇空を仰いでいた。
これから起こることも知らずに。自分の身に起こったことにただ興奮していた。
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