少女の物語②

 私がこの世界に来ておよそ一ヶ月が過ぎた頃だ。

 いくつかのルールを見つけた私は、ノートにそれをまとめてみることにした。


 1、この世界には、透明な壁があること。

 2、この世界には、テレビ放送があり、全てが再放送であること。

 3、この世界には、白紙の本がたくさんあること。

 4、この世界には、変な味の食べ物があること。

 5、この世界には、貨幣の概念がないこと。

 6、この世界には、半透明なぶよぶよとした生物がいること。


 最初は自由に毎日を過ごしていて、楽しい日々が続いていた。まるで私がこの世界の中心になったようで、そんな愉悦に浸っていたんだと思う。


 心のどこかでこんな冒険をしてみたいという思いがあったからか。毎日色んな場所に行っては、走ったり叫んだり独り言を呟いたりした。


 ここでは誰のことも気遣わなくていいし、身体も自由に動かすことができた。


 季節は夏になった。この世界に来て半年以上が経とうとしていたが、私の活力は衰えることを知らなかった。


 ゲームセンターに行った。クレーンゲームを極めたり、前は病気でできなかったダンスゲームに挑戦してみたり。

 あとは、色んな国の料理も作ってみた。幸いなことに料理番組は昔見ていた料理番組の再放送があったため、知識がなくともなんとかなった。色んな料理を作ったが、味はどれも普通だった。なぜだろう。


 他にも運動したり、夜更かしして漫画を読み返したり、カラオケでオールしたこともあった。本は読んだことがあるものなら、白紙ではなかったし、身体を気遣っていた頃と違って、それなりにはしゃぐことができた。


 以前にはなかった、一人でなんでも出来ることへの喜びと挑戦することへの充実感が私を満たしたのだろう。


 だけど、その『喜び』も時が経てば『退屈』へと変貌していた。


 すでにこの世界に来て二年が経過していた。

 一人の世界は退屈だった。腹が捩れてしまうくらいに笑える動画も身悶えてしまうかわいい猫の画像もそれを共有する仲間がいなければどこか虚しいのと同じで、今の私は只々、孤独だった。


 カラオケに行った。選曲して、いつもと同じ曲を歌う。理屈は分からないが、知らない曲は歌えなかった。

 曲が始まって数秒、マイクをソファへと投げ出すと私はため息を溢した。


「つまんない」


 この頃には私の独り言がかなり増えていたと思う。底の見えない寂しさを埋め合わせようと自分自身を騙していたのかもしれない。

 きっと、私という人間は誰かと一緒でなければ、楽しさを実感できないのだ。

 誰かに会いたい。喋りたい。日に日にその感情は強くなっていった。


 この世界に来て、三年目。

 境界線の法則が分かってから、私は行ったことのある場所を手当たり次第に回った。誰もいない世界を闊歩すれば気分も晴れると思ったが、至る所にいるぶよぶよのせいで、孤独感が一層強まった気がした。


 そして、四年目のある日、私は美術館に行った。

 街を歩いているとたまたま見つけた広告を見てその足で向かった。館内に入るとすぐに特有の刺激臭が襲ってきた。

 久々に新しい刺激があってほんのわずかに新鮮さを感じた。

 絵がうまい。

 豪奢な額縁に納められた中世の絵画を眺めながら、そんな小学生並みの感想しか見当たらないのだから困り物だ。


 これ以上、ここにいても退屈が紛れそうにない。私はそう判断して美術館を後にしようと踵を返した。その時だった。


 まるで足元が地面に縫い止められるようにその場から動けなくなった。

 一枚の絵——孤独少女。


「君も私と一緒なんだね」


 劇場に映った孤独な少女の姿は、まるで自分と重なるせいで胸が締め付けられるようだった。

 一人ぼっちって、こんなに辛いことだったんだ。

 それなら、いっそ。


「あはは、いや。ダメだよ、そんなこと」


 頭に浮かんだ間違った考えを振り払って、私は一度その場を後にした。


「結構、長居しちゃったな」


 美術館から出る頃にはもう日が暮れ始めていた。

 夕焼けのせいで茜色に染まる街。私以外の人の姿はないこの街。

 まるで、私だけが世界から取り残されたようなひどい孤独感と疎外感に、私の中の何かが瓦解する音がした。

 美術館を後にした私は走っていた。

 走って家に帰った。走って走って、息が切れても走って、家のドアを蹴り破るように開けて、台所へと向かっていた。

 私がその行動を起こすまでは、意外と早かった。


「こんな世界で生きるくらいなら、別にもう死んだっていいよね」


 走って家に帰った私は、自暴自棄になっていたのだろう。走った事によるアドレナリンの分泌のせいか、それとも久しぶりに心が動いたことへの興奮のせいだろうか。

 生きていることへの実感が持てなくなった私はついに——それを握っていた。

 ナイフ。食材だけじゃなく、命を断つこともできる日常に紛れた凶器。

 先端から幹にかけての光沢が恐怖心を煽るので、考えが変わらないうちにやってしまおうと思った。


 ただ、目の前の包丁を狂気的に振るだけ。


 割り切るように言い聞かせて、私はそっと首筋にナイフを向けた。

 声にならない声帯の震えとともに喉元目掛けて放たれた刃は本能的な躊躇を振り切ってただ真っ直ぐに、狂うことなく首筋へと近づいて、

 刃先と喉元の距離がおよそ数ミリほどのところで静止した。


「ぁ」


 声にもならない喉の震えが呻きとなってこぼれる。


 ビビったのだろうか。今更になって死ぬのが怖くなったのか。刃物で死ぬことを躊躇していたのだろうか。

 どれも、違う。止められていた。

 私のナイフは他でもない——半透明なナニカによって、静止させられていたのだ。


「ぁ……ッ!!」


 ふと、我に返った。そして、私は即座に自分がしようとした行いを悟る。

 私は咄嗟に両手にしっかりと握られていた包丁を遠くへと投げ捨てると、逃げるように部屋の隅に蹲った。抗いようもない恐怖に全身が震える。


「はぁ、はぁ」


 やけになっていたとはいえ、その行為に手を染めたことに驚きが隠せない。まるで、喘息を患っていたときのような息苦しさに魘された。

 ゼーゼーと空気が気道にある僅かな隙間を通る音が漏れる。全身は冷や汗でびっしょりだった。

 死ねないことへの落胆と死ぬことへの想像を絶する恐怖。


 だがこれは、久々に私が生きてることを実感した瞬間でもあった。


   ꕤ


 その日から、食事を断った。

 食べるのが億劫だったということもあるが、食事という生命維持活動を断つことにより、この地獄を楽に終わらせてくれるのではないかと考えた。

 この方法なら、あのぶよぶよにも邪魔されることはないと思った。

 しかし、結果的には意味がないことだった。


 最後に食事を取ってから、三日が過ぎたが体調に変化はなかったのだ。おかしい。何かがこの世界と元の世界とでは根本的に違う。

 私はこの世界のルールがまとめられたノートに


 7、この世界には死の概念がない。


 という項目を追加しながら、ある確信を持つこととなる。


 この世界は、私によって生み出された精神の中の世界なのだと。

 現実の私は死んで中身だけがここにあるのか、それとも植物人間状態なのか、いずれにしても現実の肉体の方は恐らくすでに取り返しのつかないことになっている。病気のこともありそう考える方が自然だった。


 ここが私の精神世界だとすれば、この世界の全てのことに辻褄が合った。

 自殺をすることができないのも、なぜそれがぶよぶよに止められるのかも。

 境界線はおそらく私の記憶から生み出されたものなのだろう。だからこそ、私の知らない風景や知らない場所には立ち入ることができないのだ。

 1、この世界には透明な境界線がある。きっと、私が行ったことがないから。

 2、この世界のテレビは再放送だ。きっと、私の記憶によってできているから。

 3、この世界の本は白紙だ。きっと、私の読んだことがないからだ。

 4、この世界の食べ物は時折、味が変だ。きっと、私が食べたことがないから。味を知らないから。

 5、この世界に貨幣の概念はない。きっと、精神世界だからお金がなくとも自由なのだろう。

 6、この世界にはぶよぶよとしたナニカがいる。きっと、この世界でソレは、生命維持装置のような役割を果たしているのかもしれない。

 7、この世界に死の概念はない。きっと、現実世界の私が生き続けているからだ。本体の私は点滴か何かで栄養を摂取し続けているからこそ、餓死をすることもない。


 ここが精神世界だと考えるだけで、凡ゆることに合点がいくのが分かった。

 ただ、同時に悲しくもある。心臓の病気が治ったことも偽りで、もう二度と自力で元の世界に帰ることはできない。私は諦念のように悟ってしまった。


 それから、私はずっと自室に篭っていた。

 この世界に来てどれほど経過しただろうか。時間の感覚も曖昧で、今がどの季節なのかも分からない。私はずっと部屋に篭っていた。閉められた分厚いカーテンから漏れる光の柱。朝なのか夜なのかの区別すら、それ頼りだ。

 生きる意味も、意義も、気力も何もかもを失くしてしまった私は既に何もかもを見失ったのかもしれない。


 余計な思考をすべて捨て去り、時間が過ぎるのをただ待っていた。布団に寝転がって過ごしていたせいもあり、寝癖も酷いあり様だろう。

 永遠に続いているこの日々にいつか終わりが来ると信じて、私はただその時を待つだけだった。


 ああ、なんで生きてるんだろう。

 違う。私は生きてなどいないのだ。永遠と過ぎる時間を只管に待つだけの生など、生きているとは呼べない。だったら私はもう死んでいるのだ。

 思い返せば物心ついたときから、私という存在はすでに死んでいたのかもしれない。そう考えると、気持ちが少しだけ和らぐようだった。


 私はあのぶよぶよのことを——ニヒル、とそう名付けた。

 ニヒルとは、ラテン語で虚無を意味している。

 死ぬことのできないこの世界での生はまるで虚無的で、その状況を作り出す元凶のあのぶよぶよとした生き物をニヒルと呼ぶことにした。

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