少年の世界

 御徒町駅からはさらに西へと坂道を登れば、湯島天満宮が右脇に見えてくる。

 迷うことのない足取りに自分でも驚きつつ、小一時間ほどかけて、遂にその場所まで辿り着く。小石川の高校、その校門前だ。


「————うそっ。ほんとに来れちゃった」


 茅乃は校門から広がる校舎に目を丸くしていた。その眼差しは真っ直ぐに景色を見つめていて、さらに呟く。


 どうして、と。


 理屈はさっき説明したはずだが、頭で理解するまでに時間がかかるのだろう。


「よし入るか」

「え、でも門は閉まってるよ?」

「そんなの——っと」


 俺は校門に腕をかけ、脚を使い、そこを支点に身体を持ち上げる。幸いなことに校門の高さは身体よりも低かったので、難なく越えることができた。


「こうすればいいよ。俺はこの高校の生徒だし、それに——怖いことは何もない、だったか?」

「っ」


 初めて俺が紡希茅乃と出会った日のこと。


『なっ。切符はどうした? 無賃乗車だろ』

『え? ああ、いいのいいのっ。私はこっちから来たから。アヤセくんもはやくおいで。大丈夫、怖いことは何もないから』


 それは、二月駅の木製改札前で茅乃が口にした台詞だった。茅乃は何が起こったのか、暫く茫然自失と立ち尽くして、ぷふっと吹き出した。


「どうかしたのか?」

「うんん。なんでもない、なんでもない。ただちょっとさ」


 茅乃は納得したように笑って、校門に手を乗せる。


「さっきまでは、私らしくなかったかなって」

「——だな」


 俺は敢えて否定をしなかった。


「いけるか?」

「うん、多分ね」


 茅乃は可笑しそうに告げると、その華奢な体躯からは想像もつかないほどの軽やかさで、門へとよじ登りそれを越えた。

 さっきまでの茅乃はそこにはもういない。

 パサッと衣擦れの音を立てながら茅乃は、軽やかに着地をする。

 文字通り、衣服の有無を忘れさせる程の身のこなし。俺は咄嗟に視線を逸らした。一拍置いてから、茅乃が口を開く。


「————見えた?」

「何がだ」

「うんん、なんでも」


 茅乃は懐疑的な視線を向けてくるので、それを振り切るように俺は黙って歩き始める。

 桃色寄りの白か。


「あ。やっぱ、怪しい」

「……」

「ま、いっか。それより行こうよ」

「————だな」


 背筋に感じるじーっという疑いの眼に抗うように耐えていると、茅乃も諦めてくれたようだ。相好を崩すとポンと背中を叩いて、校舎の方へと歩き始める。胸を撫で下ろしながら、俺もその後を追った。


「やっぱり、ここにもいるんだね。ニヒル」


 校舎内では案の定、大勢のニヒルで溢れていた。ここまでの道中にもニヒルを見かけていたので、ある程度の予想はしていた。


「きっと、この世界での人間を模してるだろうな。だから、こういった人の集まる場所なんかには、無数のニヒルが存在している」

「私もそう思う。人間の生態にとことん似てるよね」


 ニヒルの背丈はおよその成人男性よりも、少し小さいくらいが殆どだ。教室内で大人しく椅子に座って机に向き合う姿は、まるで授業を模したようで、ふと考えてしまう。

 ニヒルとはなんなのだろうか、と。


「みてみて、授業してるよ。青春だねぇ〜」


 静まり返った廊下から教室を覗き込んだ茅乃は喜色を浮かべていた。心故しかいつもよりも饒舌だ。


「そんなに面白いか? 高校って言っても、小中とあんまり変わらないだろ」

「う〜ん、そうかな。すごく新鮮だと思うけど、広いし、なんかカッコいい。私が高校をあんまり知らないからかも? あとはね、アヤセくんが一緒っていうのもあるよ」

「……」

「あ、赤くなった」

「うるさい」


 顔を覗き込む茅乃から逃げるように、赤面してしまった顔を軽く横へ逸らす。たまたま教室へと向いた目線だったが、不意にそこであるモノを捉えた。

 ニヒル。

 教室に並ぶ椅子群の最後尾、窓際席から一つ隣の席に座っている。

 二年C組の教室だ。

 ん——? なんだ、あれ。

 それはまるでこちらを覗き込むようで、なぜだか目があったような気がした。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「そ? ならいいけど」


 あくまで、気のせいだ。ニヒルに表情なんてない。

 ニヒルは基本的にこちらには無干渉なため、そんなことはありえない。今はそう思うことにした。


   ꕤ


 二階の校舎内を見終えたところで、手持ち無沙汰になった俺は頭を働かせてみることにした。


「そうだ。ここにいても見るものがないから、体育館でも覗いてみるか」

「おっいいね。でも、場所は分かるの?」

「まぁな。なんとなくだけど、見覚えがあるんだ。ああ、こんな場所だったなって、記憶が追いついてくる感じ——デジャブっていうんだか」

「なにそれ。なんていうか、アヤセくんってたまに賢いよね。なんか不服」


 茅乃は不服そうに唇を尖らせた。


「茅乃って負けず嫌いだよな」

「負けるのが好きな人っているのかな?」

「さぁな」


 真面目な話だったが、くすりと茅乃は笑ってみせる。

 体育館の場所は、記憶の保存された脳ではなく、俺の身体に焼きついた感覚が知っているのだろう。


「じゃあ行きましょうか、軍曹」


 はいはい、と俺は茅乃のジョークを遇らうと体育館へと向かう。


   ꕤ


 体育館には数分も掛からずに辿り着いた。パチっ、そんな軽快な音を吐き出して、次々と体育館の電気が一斉に点き始める。


「ニヒルは——いないみたいだね」

「体育の授業と被ってないんだろうな。鍵が空いたままで助かったな」


 一日のうちに幾度となく利用される体育館の鍵を毎度、閉めることもない。おそらくは、朝から放課後まで解錠されているのだろう。


「ねぇ、アヤセくん。バスケしたいね、やろうよ」


 俺が思案を巡らせていると、茅乃は藪から棒に提案する。


「それはまた、いきなりだな」

「さっきから思ってたよ」

「懐かしいな、そのくだり」

「でしょ」


 体育館を話題にあげたときから、こうなる予感はしていた。だが、ここまで一時間以上も歩きっぱなしだったので、然しもの茅乃も肉体的に疲れていると思っていたが、そんなことはないらしい。

 頭の中に辞書のようなものがあるなら、そこに休憩という単語を追加して欲しいものだ。


「バスケ、しようよ?」

「二回言わなくても、やるって」

「やった」

「それでボールはどうするんだ?」

「あっ」


 行き当たりばったりなのも茅乃らしいところではあるが。


「体育倉庫か——そういえば、あそこにあるな」

「ほんとだね。なら、ちょっと行ってくる」


 そう、言い残して茅乃は吸い込まれるように体育倉庫へと向かった。鍵に関しての心配をしていたが、杞憂だったらしい。鉄製の重圧感のあるドアを開けて、倉庫内に入っていく様子が遠目に見えた。


「さてと」


 この世界が茅野の、そして俺の記憶によって作られたという仮説は立証された。ただ、すべての謎が解明されたわけではない。

 依然としてニヒルや元の世界への帰り方は分からないし、ここが何処なのかもさっぱり不明だ。

 茅野はきっと何かを知っているのだろうが、それを洗い浚い、訊いてもよいのか俺はまだ測りかねていた。


「アヤセくん、パスッ!!」


 直後、茅乃の掛け声が鼓膜を震わせた。直後、こちらへ飛んでくるバスケットボールの影が一つ——。


「——ッ!! 茅乃、投げてからパスって言っただろ」

「あはは、ごめんごめん。ボーッとしてて、なんか眠そうな顔してたから、眠気覚まし、みたいな?」

「眠そうな顔はもともとだ」


 顔面直撃コースを寸前のところで止めた反射神経を称賛して欲しいくらいだ。


「それで?」とバスケットボールを抱えながら、分かりきったことを尋ねてみる。


「1on1だよ、アヤセくん。先に三本決めた方が相手になんでも言うことを聞かせられる権利——命令権ってのはどうかな?」

「命令権か。なるほどな。だが、それは俺が不利なのを分かってその提案をしてるのか? こっちは記憶喪失だぞ」

「それを言うなら、私だって心臓の病気で運動はしてこなかったわけだし、おあいこだよね?」

「いやまぁたしかにそうだけど——あぁ、分かった。やるか」


 ルールはともかくバスケをした記憶がない俺にとって、茅乃との一対一はまともな勝負になるかすら怪しい。だが、物は試し。負けた時のことはその時にでも考えよう。

 俺はバスケットボールを地面に打ち付けて、少しだけバウンドさせてみる。ドンドン、と床からの鈍い音が広い体育館の天井に反響しながら、ボールが返ってくる。予想外の感触。まるで、手に張り付くような手応えに思わず口を見開く。

 記憶になくとも、身体は覚えているらしい。

 俺はその場でボールをつきながら、茅乃の方へと視線を向ける。


「いくぞ」

「うん、いいよ。さぁ、こい!!」


 堂々と胸を張りながら、茅乃は軽く重心を落としてディフェンスの体勢を作り出した。その両手は進行方向を妨げるように広げられている。


「ッ————!!」


 直後、ドリブルをつきながら茅乃に接近する。茅乃はその速度が予想外だったのか表情を硬らせたが、すぐに片足を半歩下げて体勢を固めた。


 五メートルほど離れていたその距離は、俺が加速したことで一気に縮まる。

 その距離が数十センチまで近づくと、すでに茅乃もボールに手が届く距離だ。

 カットインに入る茅乃の手を躱すため、姿勢をさらに落として股下でボールを切り返す。レッグスルーという技だ。バスケットボールの弾む音の合間に靴が鳴らすキュッという甲高い音が体育館に響き渡った。

 意表をついたこともあり、茅乃も動きについてこれていない。俺はこの期を逃すまいと、ドライブで抜き去り、ゴールへと近づく——、


「えっ、うま」


 直後、耳元でそんな言葉が聞こえてきたような気がした。だが、その感想は俺も同じだ。バスケの実力が未知数である以上は、全力で挑むしかない。下手に手を抜くことはできなかった。


 茅乃の声を遥か後方に、俺はそのままゴール下へと駆けて流れるようにシュートを打つ。レイアップシュートという技。放たれたボールはバッグボードを経由して、一直線にリングのど真ん中へ、パサッという軽快な音とともに吸い込まれていた。


「……」

「…………」


 ドン、ドン、ドッ、ド、と。ゴールネットから真下へ落下したボールは小刻みに跳ね続けて、やがては静止する。その間、俺と茅乃はそんな味気ない光景を音が消えるその瞬間まで、ただ呆然と眺めていた。

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