少女の世界

 記憶によって生まれた世界。

 俺の表現を受けて、茅乃は諦念のような空虚な視線を落とした。


「へぇ、分かっちゃうんだね。記憶喪失でもさ」


 何も言わないでいいと伝えたが、茅乃はその仮説を否定しなかった。


「心当たりはあったんだな」

「隠すつもりはなかったんだけどね。最初に気づいたのは、割と早い段階だったよ。だって、私の知ってる場所にしか行けないから」


 冷静なトーンで語る茅乃はどこか遠い目をしていた。


 探し求めていた境界線の法則。

 それは、茅乃が行ったことのある場所という制限だ。記憶によってこの世界が造られると仮定すると、茅乃の家の周辺や大型施設、駅周辺に境界線がなかったことも納得できた。

 また、境界線が道順に沿って張られていることや、入ったことのない店、つまり記憶にない場所に行くことができないのも説明がつく。


 茅乃は俺と出会う前からこの世界で過ごしていた。何よりも茅乃自身の記憶に基づいたものであるため、気付くのはわりと早い段階だっただろう。


 自身の記憶に基づいていると分かれば、どこの区域に境界線があるのかをおよそ把握できるため、遠出をした調査でも境界線に阻まれずに探索できたわけだ。


「それで、これを見てくれないか? これからそこに向かう」


 俺は地図を取り出し、秋葉原より北西にあるマーカーの印を指差した。


「この丸のついた場所って、高校だよね?」

「ああ、実はそこは……——俺の通っていた高校なんだ」


 その事実を伝えると茅乃は眼を丸くして、小首を傾げた。


「アヤセくん、記憶が戻ったってこと?」

「いや、記憶じゃなくて、俺がこの世界に来たときに最初に何を着てたか覚えてるか?」

「——高校の制服だったっけ。あっ、そういうこと」

「ああ。その校章から学校の名前の場所を東京都内で調べていたんだ。どうやら、俺も東京に住んでいたことは間違いないみたいだしな」


 所々に聞き馴染みのある地名があったためである。地名から逆算で思い当たる高校を探してみると、一つだけあった。


「でも、この世界は私の記憶によって造られてるし、アヤセくんの高校には行けないんじゃないかな?」


 顔を俯かせながら呟いた茅乃の疑問は尤もであった。きっと俺よりもずっと茅乃自身が境界線のことを肌で感じてるからこそ、その言葉には重みがあった。


『JR東日本をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は山手線各駅停車秋葉原行きです。次は終点——秋葉原、秋葉原。お出口は左側です。総武線各駅停車……』


 山手線は東京の一部を囲むようにして、円形に敷かれている。つまり、終点という概念は存在しない。

 奇妙な車内放送にこの世界では、秋葉原以降の駅にこの電車が辿り着くことはないと割り切っていたが、実際は違った。


 きっと茅乃の知識はここで途絶え、秋葉原より先には行ったことがないのだろう。だからこそ、こうも考えられる。この世界が造られたとき、記憶にない地域を補完し、辻褄を合わせるために終点という概念が生まれたと。


 可能かどうかは棚に上げて、記憶によって生み出された世界であると仮定すれば、十分に考えられることだ。


『This is a Yamanote Line for Akihabara. The next station is Akihabara. JY3. The doors on the left side will open. Please change here for...』


 車内放送の英語アナウンスが終わり、左側のドアが開いたところで俺は立ち上がった。


「降りるか」

「ここ、秋葉原だね」

「ああ、俺たちが最初に会った場所だな」


 秋葉原は横に総武線、縦に山手線が交差する立体的な構造で、茅乃の家は駅より南方に位置している。つまり終点が秋葉原と言うことは、それ以降の御徒町や上野駅には電車で行くことはできない。

 今まで茅乃と探索した秋葉原も駅の南側だけだった。スターバックスもゲームセンターもどれもが改札口から南側に位置していた。つまり、北側はまだ未開の地だった。


「疑問があったんだ。どうして如月駅の出口が秋葉原だったのか」


 俺が初めてこの世界に足を踏み入れたとき、その場所が秋葉原であることを俺は知識として知っていた。きっと来たことがあるからだ。記憶にはなくとも、知識や身体がそれを覚えている。


「この世界は人の記憶によって造られている。ただ、もし仮にこの世界の境界線が茅乃の記憶に基づいて、決められてるとしたら、俺の記憶もそのルールに干渉できるかもしれない。そう思ったんだ」

「アヤセくんの記憶、ね」

「ああ。そして、秋葉原は茅乃の記憶と俺の記憶によって生まれる世界、その二つを繋ぎ合わせるような地点なんじゃないかって」

「つなぎ、あわせ——?」


 例えるなら、二つの円がどこか一箇所で重なっているイメージだろうか。校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下的な解釈で、その場所には明確な境界線がなく中立地点とも捉えることができる。


 秋葉原駅北側にはヨドバシカメラ秋葉原店や神田神社などが並んでいる。何れも知識に合った単語だ。そして、俺の通う高校はそこから更に北西にある。


「茅乃はこっち側に来たことはあるか?」


 中央改札を抜けて、北側へと足を進めた俺は改札前の茅乃に尋ねた。


「あるよ、だけどその先には進めない。アヤセくんの仮説通り、私は行ったことがないから、そこより先には壁がある」

「かもな」


 茅乃の顔からは感情が感じられなかった。いつもの遠い目をしながら、境界線の先を見つめている。

 この世界に存在する境界線のルール、それを知った俺はほんのわずかな可能性に賭けてみようと考えていた。


「ただ、これは直感だけど俺はこの場所に来たことがある。記憶じゃなくて身体がそれを覚えてるんだ、だとしたら——」


 俺は駅舎の暗影から陽光が照らすタイル床へと足を運ばせて、さらに先へと闊歩する。


「行ってみないか、茅乃。多分、ここより先は茅乃の知らない世界が広がってるはずだ」


 俺がさらに進むと、茅乃は後を追うようにゆっくりと歩き出した。駅が段々と遠かり、茅乃はその大きな両眼を疑うように見渡し始めた。まるで幽霊でも見たかのように自分の身に起こっている事実に驚嘆している。

 まるで借りてきた猫のように大人しいその様は初めて見る茅乃の一面だった。


 それに、二人の足並みはいつもとは違う。これまでは茅乃の隣や後ろを歩いていたけれど、今は茅乃よりも半歩先を歩いているのだ。


 空を覆って聳えるオフィスビル、街路樹の景観、高架下の街並み。

 進むにつれて景色が変わり、そのどれもが、失われた記憶と重なっていくような気がした。なぜだかどの道を進めばいいかを理解していて、持ってきた地図もその意味を成さない。


 俺は明らかにこの光景を知っていた。


 こうして俺たちは秋葉原からさらに北——終点の向こう側の御徒町駅へと辿り着いた。その間も、茅乃から戸惑いの色が消えることはなく、二人の間には静寂が流れていた。

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