第四章

彼は誰時の追憶現象

 水の音。

 もっと適切に表現するのであれば、水の流れる音と表現すべきか。

 事実として、水自体に音はなく、ぶくぶくともじょぼじょぼとも聞こえる音の正体は泡の音らしい。


 それはこの世界に来て、ちょうど二週間目の早朝に起こった。


 せせらぎのような耳心地の良い音が眠っていた俺の鼓膜を静かに揺らした。

 初めはやけに鮮明で明晰な夢だと思った。思考も景色もはっきりとしていて、そこが追憶の中だと気づくのにあまり時間はかからなかった。


 俺は意図せずに、茅乃の記憶の世界に迷い込んでいた。レム睡眠下で聞こえた水音は間違いなく、記憶の泡沫から発せられたものだったのだと知る。


 追憶の茅乃はすっかり大人びて、中学三年生になっていた。そのときも夏日で燦々と照らす太陽に嫌気が差すほどだった。


『久しぶりの家だぁ。こわ、なんか懐かしさすらある』


 玄関口から快活な声音とともにリビングに姿を現したのは言うまでもなく、紡希茅乃だ。氷の入ったコップに麦茶を注いで、ごくっと飲み干した。


『茅乃、せっかく退院できたんだから、あんまり激しい動きはしないの』

『はいはい、自分の身体なんだし、よく分かってるって』


 今度の舞台は紡希家というわけだ。もしかすると、寝てる間に家に現れた泡沫に触れていたのかもしれない。

 茅乃の記憶を見ないと決意した手前、罪悪感が押し寄せていた。


『さてっと——』


 茅乃は自室のベットに寝そべると何かを思い出して、その体勢のまま近くにあったカバンを手探りで漁る。中から取り出したのは英単語帳だ。付箋やマーカーで印がされ、勉強の跡が見られた。


『学校にも行けず、勉強にも遅れたらもう戻れなくなりそうだしなぁ』


 仰向けに寝そべりながら単語帳を抱えて、一人ぼやいていた。


 ザーッとノイズが流れる。さらに時は流れて、景色が暖色に染まり、冬を迎えて落葉が始まった頃になった。

 茅乃の容態が急変し、再び、入院生活に戻っていた。しかし、茅乃の願いもあり何とか受験に漕ぎ着けた。

 そして、受験合格発表の日。


『っ、やったぁ、受かった』

『おめでと、茅乃』


 テーブルの上のパソコンには『合格』という二文字がでかでかと映し出され、今までになく嬉しそうに笑みを浮かべる、茅乃。胸中は飛び跳ねてでも喜びを表現したいだろうが、今の茅乃の身体に負荷をかけること自体、命取りだ。


『一週間後には卒業式もあるんだし、久しぶりにみんなにも会いたいなぁ』


 三月に入ってからは、病気の方も安定し始めて、学校にも通えていた。

 だが、夢はいつか覚めるのだと言わんばかりに、冷たい現実が突きつけられる。卒業式を間近に控えたときだった。帰宅した茅乃は玄関口で倒れ込んで動けなくなる。

 物音に気づいた母親が、駆け寄り名前を呼ぶ声を掛けられるも、意識はそこで途絶えた。

 三月十日のことだった。


『茅乃、しっかりして!』

『大丈夫です。心拍は安定してきていますので、時期に意識が戻りますから』

『茅乃ちゃん、大丈夫? 元気になるまで、学校で待ってるからね』


 朦朧とする時の流れの中で、疎らに聞こえてくる声。


「っ」


 見慣れた天井。目を覚ますと、そこは病院だった。

 聞く話によると、三日ほど眠ったままだったようで、通学はおろか、退院できるのもいつになるか分からないらしい。


『卒業式、結局でられなかったな』


 うつろな眼で窓の外に広がる灰色の世界を茅乃は睨みもせず、眺めていた。


『ま、しょうがないけどさ』


 ぽつりと雨垂れが水面に滴るように小さい悲鳴が誰もいない病室に響く。


『なんで私だけこんな——っ』


 押し殺したような力の籠もった声。溢れ出てしまった弱音を誰かに聞かれなくてよかったと安堵している紡希茅乃の姿は、今と何ら変わらなく見えた。


   ꕤ


 微睡みから覚めた時にあることを思い出した。


 ——彼は誰時。


 黄昏時が夕方を指す言葉であるなら、明け方を指すような意味を持つ言葉だ。

 夕暮れ同様に彼は誰だと訊かなければ、人の判別がつかなくなることが語源とされている。


 つまり、誰そ彼時とは対になる時間帯を指す言葉だが、意味するところは酷似するわけだ。


 誰そ彼、彼は誰——。

 こういった時間帯だからこそ、追憶現象は起こるのだろう。


 今回の追憶現象の始まりがこの家であったことからも、あの泡沫が現れた場所はこの家で間違いない。

 そして、泡沫は宙を舞いながら漂うことは幾度も観察してきた。何かの拍子に寝ている俺の身体に泡沫が触れたと考えると納得はできる。


『卒業式、結局でられなかったな』

『なんで私だけこんな——っ』


 まさに最悪の目覚めだった。窓から明け方の空を眺めたが、まだ太陽は完全には昇っていない。紫とも紅とも表現できる様な朝焼けに染まりかけの空。

 時刻はおよそ、四時すぎだろうか。こうやって目覚めた朝はどうも頭が冴えてしまうから困る。


 なぜ俺たち二人だけがこの世界にいるのか。

 茅乃の病気は治っていないのか。仮に元の世界に戻れたとして、茅乃に待っているのは冷たい現実なのではないだろうか。

 今回の追憶の紡希茅乃は明らかに俺の知る茅乃と背丈や容姿が近かったこと。

 茅乃の病気は既に末期にまで達していたこと。だとすれば、もう。


 パチン、と鞭を打つような音が響いた。


 赤くなった頬にヒリヒリとした刺激が走るが、腑抜けた精神を叩き直すにはいい刺激だったのかもしれない。俺はあることを閃いて、壁の隅に置かれたクローゼットに歩み寄った。ハンガーの擦れる音とともに顔を出したのは、この世界に来た日に着ていた制服だ。

 机の蛍光灯を点らせて、東京一帯の地図と制服を並び合わせた。


 無駄なことかもしれないけど、それをやらずにはいられなかった。


   ꕤ


 水平線上にあった太陽もその高度を上げて、すっかり頭上に位置している。気づいた時には昼頃になっていた。


 リビングに行くと茅乃はテレビの前のソファでくつろいでいた。俺が顔を覗かせたのを気配で感じ、腰を起き上がらせた。


「アヤセくん、いつもより寝坊助だね。起きてこないのかと思っちゃった」

「ちょっと調べ物をしてて、あんまり寝れなかった」

「調べ物?」


 どう説明すべきか。茅乃に何を伝えるべきなのか。リビングに隣接したダイニングルームの木製の食卓、その木目に指を這わせながら思考を巡らせた。

 すーっと肺の空気を吐き出して、覚悟を決める。


「今日の午後。ちょっとだけ、行きたいところがあるんだけど、いいか?」


 次の瞬間にはそう尋ねていた。

 覚悟とは、紡希茅乃という少女と向き合う覚悟だ。今まではずっと茅乃の秘密に触れることを避けてきたが、今はそれが堪らなかった。

 茅乃のことをもっと知りたい、近づきたいという感情に歯止めが効かなくなってしまっていた。


「行きたい場所? いいけど。初めてだね、アヤセくんがそんなこと言うなんて。何かあった?」

「いや、ただちょっとだけな」


 茅乃に関しての気持ちを伝えるとしても、今ではないことは明白だ。言葉を濁して、視線を逸らした俺に茅乃はそれ以上言及をしてこない。


「それで、どこに行くのかな?」


 JR山手線の内回り、最寄り駅のホームから列車に乗ると、茅乃は「そろそろ目的地を教えて欲しいな」とアピールする。


「茅乃は、さ。何歳のいつ頃にこの世界に来たんだ?」


 吊り革に下がった腕、窓の外側に流れる景色をじっと見つめながら尋ねた。


「何歳か、ね。それをアヤセくんに訊かれるのは三回目だ。話さなかったっけ?」

「曖昧に誤魔化されたんだ。変な記憶力はいいよな、茅乃」

「え、私すごい?」


 またしても、恍けて話を逸らそうとする茅乃だったが、小さく笑みを浮かべると「いいよ、教えてあげる」と口を開いた。


「えっとね、うん。たしか中学の終わりくらいだったかな。向こうの季節は冬だったっけな」

「冬、か。やっぱり」

「やっぱり?」


 茅乃は中学生とは思えないほど含蓄のある顔つきで、大人にも引けを取らないスタイルと人柄を持つ。だが面影というレベルではなく、中学の紡希茅乃は今の茅乃と重なった。

 追憶が見せる紡希茅乃が今の茅乃に近づくものであるなら、時期的にも今朝の追憶現象が最後だったのかもしれない。

 きっと茅乃がここに来る直前までの記憶だったのだろう。


「今から俺がこの世界に来て分かったことの結論を話そうと思うんだ。茅野は何も言わなくていいから聴いて欲しい」

「えっと? うん、分かった」


 聴くだけということに茅乃は疑問符を抱いただろうが、これは俺なりの配慮のつもりだった。これから、茅乃が隠していることを暴くことへの前振り。

 そして、俺は語り始める。


「まず、境界線に関して分かったことを伝えるんだが——」


 この世界に来て、分かったことの全てを。


「俺が思うに、ここは記憶・・によって生まれた世界なんだ」

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