もしも記憶が戻ったら
夏祭りとはこんなに人が溢れかえるものなのかと俺は驚いていた。
厳密に言えば、人ではなくニヒルだが屋台を挟んだ通路を埋め尽くしたニヒルの列が何処までも縦に伸びていた。
何処からか聞こえる和太鼓の胸を打つような律動。厚い鉄板の上を秘伝のソースが踊りながら漂わせる食欲を刺激する匂いに砂糖を溶かしたときに放たれる特有の甘い香り。
太陽が沈みきった月夜に道中を照らす華やかな提灯や電灯がぼんやりと浮かび、幻想と現実の狭間のような空間を演出していた。
一通り屋台を回り、腹を満たした茅乃はお面屋の近くで座り込むと、黒い狐の半面を手に取ってそれを手渡してくる。
「アヤセくん、一緒にこれ付けてよ。ほら、似合ってる似合ってる——ってどうしたの? ぼけっとして」
「いや、茅乃のセンスだし、もっと壊滅的なのを選ぶと思ってたから」
「ひど。まぁ私もお揃いでつけるから、可愛いのがいいかなって」
「おい」
茅乃も狐面を選んだようで、紅の半面を顳顬から側頭部辺りに斜めに付けると「どう?」と感想を要求する。
ニヒルも大勢いるため、どうしても間近での上目遣いになってしまうという不本意な状況に自然と緩む口元を隠しながら「いいと思う」と俺は返した。
「そう」と一言だけ呟くと、茅乃はさっと大通りの方へと歩き出してしまう。
逸れないように追いかけようとするも、狐の半面のせいで視界が狭く、茅乃をニヒルの中で見失ってしまいそうだ。
ニヒルの中を掻き分けて進んでいくも茅野の姿は遠のくようで、
「アヤセくん」
「かや、の——」
ふと茅乃の声が聞こえたかと思うと、伸ばした右の指先に何かが触れる感触があった。
ニヒル、じゃない。
人の体温だ。わずかに時間が経ってから、何が起こったかを把握した。
茅乃に手を握られている。
指先に絡む茅乃の柔らかな感触に自然と指が震えていた。
「こうしてないとハグれるから」
「——そう、だな」
何とも形容し難い思いに身体中がじんわりと熱くなるのを感じた。
しばらくして、茅乃はゆっくりを歩みを進めた。
眼前の小さな背中はニヒルにより時々、隠されてしまうけど、握られた手は間違いなく茅乃を追いかける。すると、沿道へ差し掛かったところで後方から嘘みたいに鮮やかな光が灯り、爆音が鳴った。打ち上げ花火だ。
日本の花火はその色の多様さと丸い花のような形が特徴的だと云われている。実際に半透明のニヒルに降り注いだ様々な色の光がそこだけ宇宙のように反射して照らした。
元の世界ではここで歓声や「たまや」「かぎや」と掛け声が上がるのだろうが、生憎とニヒルは喋ることができない。次の花火が上がるまでのわずかな刹那に訪れる静寂に俺たちの目は夜空に残された一発目の火花へと釘付けになっていた。狐面もここでは外さなければ、花火職人に失礼というものだ。
二発目の花火が上がると、次はその全貌をこの目に収めることができた。
よく晴れた夜空に数秒間だけその命を咲かせて、残滓とともに消える儚い光は夜を灯して落ちていく。
茅乃と繋がれた手には自然と力がこもっていた。
緊張と興奮、茅乃に触れていることへの喜びと手汗や震えへの不安。一言ではとても形容し難い感情が実感となって脳から全身に伝わる。
茅乃は今、どんなことを考えているのだろうか。
茅乃のことを知りたいという欲が頭の片隅にはあって、それでもこの感情と似たものを抱いていて欲しいと俺は密かに願っていた。
ꕤ
静かな沿道。渋滞した車が鳴らす駆動音とずっと遠くから微かに聞こえる笛と太鼓の演舞。駅までの道のりにはニヒルもいたが、彼らはずっと静かだ。
「花火、綺麗だったね」
茅乃は噛みしめながら呟いた。
「ああ。記憶にある限りあんなに綺麗な花火は初めて見たよ」
「だって、アヤセくん記憶喪失だもんね」
「それもそうか」
花火大会に行った記憶はない。しかし、過去の響谷アヤセには、花火を見てあまり感動できなかったという曖昧な感覚があった。
ならなぜ、茅乃と見たあの花火は目を疑うほどに綺麗だったのか。そこにあえて理由を求めるほど俺も鈍感ではない。
「ねぇ、アヤセくん」
隣を歩く茅乃が少しだけ真剣な面持ちで立ち止まった。
「あのね、一つ訊きたいことがあるんだけどさ」
「訊きたいこと?」
茅乃の改まった口調に少しだけ身体に緊張が走ったのを感じ、俺は身体の向きを茅乃に向ける。
「もしアヤセくんの記憶が元に戻ったら、今のアヤセくんはどうなっちゃうとかって、考えたことある?」
茅乃は物寂しげな表情で尋ねた。
「記憶が戻ったら、か」
「うん、もし記憶が戻ったら、今までのアヤセくんはどこかへ消えて、記憶を失う前の自分になっちゃうのかもしれないなんてさ。私は考えちゃうんだけど、アヤセくんはどうかな?」
茅乃のそれは何とも返答のしにくいことだった。なぜなら俺の中でもはっきりと答えがあるものじゃないからだ。だが、いつかは向き合わなければいけないことも自覚していた。
俺は心地の悪さを感じて、頬を掻いた。
「なくはないよ。けど、やっぱり元の俺に戻るべきだと思うんだ」
「——、それは、なんで?」
薄暗いせいで茅乃の表情が読み取りにくいがその口調に異変を感じた。何か間違ったことでも言ってしまったのだろうか。
「なんていうか、俺は今は記憶喪失だし、わりと自分に関しては吹っ切れてるっていうか」
「吹っ切れてる?」
ぴくりと、茅乃の眉根が動いた気がしたが、構わず言葉を続ける。
「ああ、確かに記憶が戻って、今の俺が消えたらって考えると胸が苦しくなるけど、それで元の自分が戻ってくるなら、本望っていうのかな」
慎重に言葉を選びながら心の内を打ち明ける俺に茅乃の表情がやはり曇っていくのを感じた。
「あとは託したぞ、的な。まぁ、でも今はやらなきゃいけないこともあるし。だけど、それさえできれば、まぁいいかなっていうか」
そこまで口に出して、ついに、それは静止させられる。茅乃が両の手で口を覆ってきたからだ。何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「ごめん、ちょっと待って」
茅乃は俯いたまま、しばらく言葉を発しようとはしなかった。だが、なんとか言葉をひねり出して、口を開く。
「なんかそれ、やだ」
その発言に胸が痛むのを感じた。
「なんていうか分かんないけど、元の自分が戻るなら本望とかあとを託すとか、そういうのなんか——違う気がする」
何かに搾り取られているように胸が締め付けられ、ふと見やると、茅乃の指先から肩にかけてが小刻みに震えていた。いや、身体だけじゃなく茅乃の発する言葉まで震えていた。
茅乃の瞳からは涙で潤んで、その滴が無機質なタイルへと吸い込まれる。
「アヤセくんがいなくなるのはもちろん嫌だけど、そうじゃなくて。アヤセ君が今のアヤセくんのことを軽視してるのって、すごくいけないことな気がする」
かみ殺したような口調で、俺の口を覆う手を外すと、シャツにつかまって胸板に顔をうずめた。
そこまできて、俺はようやく茅乃のいやだと感じる気持ちを理解できた。それは俺にだって心当たりのあるもので、
『————まだ生きてるんだ、私』
おそらくは、幼少の茅乃の病室で言ったものと同じことを感じたのだろう。
自分のことを度外視しての発言。それは聞く側からしたら、なんとも虚しいものだとわかる。
「ごめん、茅乃。なんていうか、うん。よくなかったよな、悪い」
「……ぅん」
しばらくそうしていると、茅乃も落ち着いてきたようで、涙をぬぐうと強がりの笑みを浮かべた。
「帰ろっか」
「ああ」
茅乃の言葉に頷き、俺たちは、再び歩き始めた。
雨降って地固まるという言葉にもある通り、茅乃との仲が前よりも近くなった気がした。
ꕤ
その晩は、やけに静かな夜だった。
生暖かな空気を轟々と揺らし響いていた和太鼓のせいか。静寂がやけに懐かしい。それに夏の夜を彩る花火の情景が網膜に焼き付いて離れてくれない。こんな夜は考えたくなくとも、自然と頭も働くというもの。
『アヤセ君が今のアヤセ君のことを軽視してるのって、すごくいけないことな気がする』
自分の命に対しての執着が薄い。
茅乃に言われて気が付いたが、きっとこれは俺の性質なのだろう。もしかすると、記憶を失う前の俺は、自分の痛みに対してすごく鈍感だったのかもしれない。だからこそ、その性質が俺にも深く刻まれている。
そのことは、これほどまでに茅乃に咎められても、使命のことを一番に考えてしまう俺の思考からも、容易に分かった。
だからこそ、茅乃の言葉にどう向き合うべきか俺は分からずにいた。
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