赫い記憶
疲労感はあれど、筋肉や関節の痛みは感じない。きっとこの世界での疲労感とは精神的なもので、肉体的な疲労は存在しないのかもしれない。
境界線の法則が分かっても、未だにこの世界の細かなルールは捉えがたいことをぼやきながら、俺は自動販売機で飲み物を購入した。
ガタンと物々しい音を立てて落下するボトルを取り出すと、中庭で待つ茅乃の元まで歩み寄る。
四勝、三敗。初戦のバスケットボールにバドミントンのシングルス、バレーボールのレシーブ対決に卓球、ドッヂボール、校庭を使ったPK対決等、様々な勝負を経て決した戦績だ。
俺が勝つたびに負けず嫌いの茅乃が食らいついて戦績を引き分けにするため、なかなか勝敗がつかず、最後はジャンケンで勝負が決まった。その腹いせに飲み物をパシらされているのだから、茅乃の御転婆には敵わない。
「はぁ、疲れたぁ〜」
中庭のベンチに腰を下ろす茅乃は満足そうに空を見上げながら、額に溜まった汗を拭った。日も暮れて、橙色に染まった空に茅乃は疲労感を訴える。
遠くでカラスが鳴いて、俺は手に持ったボトル飲料を茅乃の頬に当てた。
「ほれ」
「う、冷たっ」
ビクッと肩を竦ませて「もう」と不服そうに頬を膨らませる、茅乃。
「眠気覚ましだ」
「眠くないしっ。まぁ、ありがと。やっぱ運動にはこれだよ。アヤセくん、わかってるね」
「いや、何となくで選んだんだけど」
「そうなの? んー。なら記憶じゃなくて、身体が覚えてるのかもね。アヤセくんが実はバスケが上手かったみたいに」
「そう、なのかもな」
身体が勝手に動くというのも奇妙な感覚だった。人が何年経っても、自転車の乗り方を忘れないように、水中での泳ぎ方を忘れないように。
非陳述記憶と呼ばれる、意味記憶やエピソード記憶とは別の部類に分けられる記憶は備わっているのかもしれない。
「ところでさ。勝負に勝った方が相手に対して何でも言うことを聞かせられるって話だったよね。アヤセくんは何に使うの?」
久しぶりに激しい運動をしたため、喉が乾いていた。握られたもう一本の飲料ボトルに口を付けて喉を潤すと茅乃の隣に深々と座り、夕空を仰いだ。
「そうだな、ならまずこの権利を——」
「あっ、増やすのはなしだよ」
「そうかよ」
やろうとしたことを察した茅乃は、俺が言い終えるに釘を刺す。半ば冗談のつもりだったが、この権利を俺は何に使うべきか決めかねていた。
初めに頭に浮かんだことは、茅乃の知っているこの世界のことについてを尋ねることだった。
しかし、茅乃の口から半ば無理やり訊きだすのはしたくない。かと言って、他にして欲しいことと言えば、胸中にある茅乃に対しての想いを叶えてもらうことくらいだが、ここに権利を使うのはお門違いだ。
「そのことだけど——今は保留するってことで、いいか?」
「むむ、考えたね。保留にしとけば、いつでも好きな時に私に言うことを聞かせられると」
謎に勘を働かせながら納得したように頷く、茅乃。
「ただ思いつかなかっただけ、なんだけどな」
「んー。まぁいいよ、認めてあげる」
「どうも」
見上げた夕空は、ゆっくりと夜の闇に侵食されるように色を変えていて、ふと視線を下げた先に、校舎内で一人、残り続けているニヒルを捉えた。
きっと、生徒のニヒルだろう。こちらの様子を眺めている生徒のニヒル。
——あれ、また。アイツだ。
アイツとは、さっきも教室からこちらを見ていた個体のことだ。何故だか俺はそのニヒルが先ほどのものと同じであると捉えていた。
どう考えても根拠はない。表情も、顔も、識別する方法も存在しない。
俺は、気にしないように目線を逸らした。だが、校舎に佇むそのニヒルの影を、見てから心臓を直で撫でられたような緊張が全身に走っていた。
いつもであれば割り切ることもできただろうが、今回はどうしてか妙な胸騒ぎが治ってくれなかった。
「ところでさ、帰りに——」
「ごめん、茅乃。ちょっと、待っててくれないか?」
俺の口は無意識下で、そう発していた。
「え、えッ!?」
素っ頓狂な声を上げて動揺する茅乃にボトルを預け、俺はそのまま渡り廊下の扉から校舎の二階へと駆け上る。逃さないと心で唱えて、ニヒルの姿が消えてしまう前にその場所へ向かっていた。
二年C組の教室。
中庭から校舎を見上げたとき、ニヒルの姿は二階にあった。
昇降口から二つほど離れた教室にその影はあったため、目の前にあるC組の教室にそのニヒルはいるはずだ。
教室背後の引き戸の凹みに指を掛けて、呼吸を整えると慎重に扉を開けた。
西日の差し込む放課後の教室。縦横に均等に並んだ机と椅子。その窓際、最後尾の前で、どこか寂しげに憂愁を纏うようなシルエットがあった。
半透明の姿は今にも闇に隠れてしまいそうな夕空の濃い紫紺を浴びて、待っていた、と。そう告げるように光って見えた。
「————誰だ? お前」
言葉を喋らない無機質なニヒルに向かって、話しかけても意味がないことくらい分かっていたつもりだが、そう訊かずにはいられなかった。
俺の問いにニヒルが微かに動いた。
ミラーボールのように拡散させた赫々たる光の帯に、反射的に瞳を閉じた。
『なぁ、文世。お前は進路どうするんだ? 数学得意だしやっぱり理系か?』
瞼の裏の真っ暗な景色が終わる頃、懐かしさを感じさせる声が聞こえた。
快活な声とともに男は身体を捩って背後にあった机に丸太のように逞しい前腕を乗っける。手元には、若干皺の入った進路相談の用紙が握られていた。
『どうだろう、やりたいこともないし。お前はどうする?』
何時しか空には雲が掛かり、灰色の暗雲が立ち込めていた。
窓際の一番後ろに座る文世と呼ばれた少年は、覇気のない声色で返事をする。
『俺は経営学部とかそこら辺かなぁ、何となく稼げそうだし。そんで証券会社とか金融系の仕事に就いて、モデルと付き合う』
『いい夢だな。ってか、バスケはもうしないのか? 俺程度の実力ならともかく、ショウならその道も行けるだろ。小学校からやってるんだし』
『いや、無理だな。この間、高校バスケのインハイ準優勝チームの試合を見たけど、俺より上手いやつがごろごろ居たからな。ベンチに入れるかすら怪しい』
『ショウでそれなら、俺はモップ役がいいとこだ』
稲沢祥真、通称——ショウ。小学校から地域のバスケチームに所属している文武両道な俺の幼馴染みで、豚骨や赤味噌のような濃口にさっぱりとまろやかな味わいが足された、鶏白湯のようなイケメンだ。
学力ならまだしも、総合力では圧倒的にショウの方が優れている。
『来年には大学生か。なんか俺たちも大人になっちまったな』
なんの脈略もなく、ただそう感じたからという理由だけで、放たれたショウの言葉に『そう、だね』と少年は無愛想に返事をした。
人は成長する。
赤児から始まるその過程は、初等から中等教育を経て、大人への階段を昇っていく。常識が身につき、学力が身につき、礼儀が身につき、社会性が身につく。
人は大人になる過程のほとんどを学校で過ごすこととなり、そこで社会というものを学んでいく。
『ま、でもいつまでも子供でいられないし仕方ないよな。あぁ、早く大人になって結婚して、可愛い嫁さんと子供と一緒にグランピングしてぇ!』
『なんで、グランピング』
『いや良くね!? めっちゃ幸せだろ、知らんけど』
きっと、この先もショウは上手い立ち回りをしていけるんだろう。
なら俺は、どうだろうか。
「——っ」
息を飲むと元の西日に染まる教室に戻っていた。
先ほどまでのニヒル。ソイツは、近くのテーブルに手をついており「なにやってんだ」と呆れたように笑った気がした。違う。気のせいだってことは分かっている。だけど、なんだかそれは、ショウの笑顔に重なるようで、
「そこの机、それは俺の————」
手を伸ばす。ニヒルに向けられた指先が月を掴むようにニヒルに触れそうになった直後のこと、耳鳴りがした。苦しいと、もがくことも許されないほどの頭痛に自然と体勢は崩れ、膝を突いていた。
赤。赤。赤。
噎せ返るような血の匂い。ぬるっと暖かい鮮血にコンクリートが染まる、そんな追憶。
初めは、誰の記憶か分からなかった。
耳鳴りと一緒に鳴り止まないトラックのクラクションが聞こえた。
暑い、冷たい、暖かい。冷たい。熱い熱い熱い熱い。
ガードレールに滴り落ちる、身体からの赫い液体は、命の炎を感じさせ、苦しさや痛みはあれど、何よりも恐怖が凡ゆる感情を支配した。
死ぬという動詞が鮮明に、脳裏に浮かび上がる。
シャーっと砂嵐のように走るノイズに全身が眩んで、五感だけでなく平衡感覚すら奪われる。
息もできずもがき苦しみ、神経の一つすらまともに機能しない。
まさにこの世の終わりと呼べるような状態。しかし、最後の数秒、懸命に最後の力を込めて、財布の中に入れられたあるものを握りしめた。
直後、意識が刈られて元の教室の風景に戻る。
「ハァッ——ァツ!! なんだよ、今のは」
やがて、ハッキリと回復していく全身の感覚に溜まった汗がタイル床に吸い込まれるように落下した。
暫くして、分かった。これは、響谷文世の失われた記憶だ。
俺の——記憶だった。
この日、この瞬間。俺は、失われていたすべてを思い出していた。
家族のこと、友達のこと、自分自身のこと。
夕陽の差し込む閑静な教室、
乱れた呼吸の音だけが誰の耳にも届かずに残り続けていた。
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