第三章

境界線の調査開始

 三日目の朝を迎えた。

 シャッ——と、カーテンを開けると、陽光が薄暗い寝室を明るく照らす。天気は今日も快晴で、数日間に及ぶこの暑さで身体も徐々に慣れていた。茅乃の話ではただ単に晴れの日が続いているだけらしく、雨や曇りの日もあるとのことだ。


 この日は茅乃よりも早く目が覚めた。茅乃は「久しぶりにぐっすり眠れたかも」と心做しか体調もすぐれているようだった。


 食卓には、昨日と変わらず茅乃の作った朝食が並ぶ。

 今日は洋風のテイストだ。食事に関してはその都度、茅乃が腕を振るってくれる。近所のスーパーで買い足した食材がどれも新鮮なのは、裏でニヒルが管理をしているからだ。


「あのさ、茅乃。ちょっと疑問に思ったことがあるんだけど、この世界はあまりにも居心地が良すぎる気がしないか?」


 俺は洗い物の最中にずっと前から考えていたことを話すことにした。


「——んー、たしかに?」


 最初は『優しい世界』なんて言葉を使ったが、実際のところどうだろうか。


 衣食住に加えて、様々な娯楽施設や電気まで使える。茅乃によれば手の届かない額のレストランにだって行けるらしい。ある程度制限はあれど、広い範囲を行動できるし、体型等の身体的な特徴は変化しない。


 一般的に考えても、文句無くしばらくは不自由なく暮らせるほどの環境だ。今朝だって、こんな日々が毎日続いて欲しいと心のどこかで願っている自分がいた。

 何かに追われる忙しない日々に嫌気が差しているのであれば、元の世界へ戻るよりも、ここで過ごしていく方が賢明なのではないか。

 危うい考えが芽生えてしまいそうで、なんだか怖くなるほどだ。


「改めて訊くことでもないんだけど、茅乃は現実世界に帰りたいと思うか?」

「それは、うん。もちろん帰りたい。本当の家に帰って、また友達とだって遊びたいし」

「ああ。だからこそ、この世界に居続けてもいいと思うことが危険なことは分かるはず。この生活に慣れてきたら、元の世界へ帰ろうといった考えが風化するかもしれない」


 俺は語りながら考える。きっとこの胸に灯る使命感さえなければ、こんな世界でもいいと思っていたかもしれない。記憶がないからこそ元の世界へ戻ることへの執着は薄い。

 この異様なまでの居心地のよさに溺れて、元の世界に帰ることを諦めること、それこそが一番の懸念だった。


「——上手な表現が見つからないけどさ。なんかアヤセくんって凄いね」


 話を聞いた茅乃はその表情に驚きを覗かせながら口を開く。


「なんのことだ?」

「そうやって、冷静でしっかりと物事を判断できるとこだよ。それはきっと、一朝一夕でできることじゃないと思う。きっと記憶を失う前の君もそんな風だったんじゃないかな?」

「記憶を失う前か、どうだろ」


 記憶をなくす前については、考えたこともないことだった。いや、考えるべきところをなるべくそうしないようにしているのかもしれない。写真のフォルダに映し出された響谷アヤセを見ても、どうも実感が伴わなかった。


 冷静で物事を判断できる。茅乃はそんなことを言ってくれるけれど、実際のところは極悪人だったかもしれない。茅乃が思っているよりも、賢くなかったかもしれない。いや、ヤメだ。

 余計なことを考えたところで、どうにかなるわけじゃない。


「んーーっ!! 終わったぁ〜!」


 食器を洗い終えた茅乃は大きく背伸びをして、台所を手すりのようにして寄りかかっている。すると何かを思い出したようで、部屋から消えるとあるものを持って来てくれた。


「はい、アヤセくん。範囲は広いかもだけど、この辺の地図だよ。こんな感じで大丈夫そう?」

「完璧だよ。これがあれば、いろいろとできそうだ」


 俺は湿った手をタオルで拭うと、作戦会議をするためさっきまでの食卓にこの周辺の地図を広げた。茅乃の見つけてくれたこの地図は茅乃の家にあったもので東京の千代田区周辺がおよそ記されていた。


「それで、アヤセくんはこの地図でなにをするの?」


 茅乃は少しだけ興味深そうに俺の話を聞く姿勢を作る。とはいえ畏まった体勢になるわけではなく、目線と耳をこっちに向けるくらいだ。


「主には、この世界を取り囲む境界線の位置を把握するためかな」

「きょうかいせん? ——って、あの見えない壁のことだよね」


 俺は首肯しながら、地図に目線を下ろした。

 境界線とは、この世界を区切り分断する透明な壁のことだ。ここら周辺にはその壁があり、移動範囲を制限している。調べる価値は十分にあるはずだ。


「ペンを使って、実際の境界線をこの地図に書き込む。何か法則があるかもしれないし、小さなことでも、やらないよりはマシだからさ」

「——そうだね」


 茅乃は一拍置いたのち、頷いた。


「茅乃はどうする? 昨日の疲れもあるだろうし、一人でもやるつもりだけど」

「え、アヤセくん。私を置いていくつもりだったの? 私も一緒に行くって」


 朗らかな返答を聞いて、尋ねるまでもなかったと思い直した。


「それにしても、どうしたの? なんだか昨日までとは気合の入れ方が違うね」


 数歩前に足を進めて、茅乃はそんなことを言った。俺は台所に身体を向けているため、ちょうど背中合わせになる形になる。

 そのせいもあり、茅乃の表情は見ることはできない。


「まぁな。なんていうか、やらなきゃいけないことをちゃんと把握できたのかも。やっぱりこのままじゃダメな気がするんだ」

「やらなきゃいけないことってのは?」

「ああ、俺たちはたった二日間でこの世界に順応しつつある。だが、やっぱりこの世界は異常だ」

「————ん、そっか。やっぱり、異常だよね」


 茅乃は沈黙ののち、ゆっくりと口を開いた。


「ああ。だから、元の世界に帰ろう。そして、そのためにもこの世界が抱える謎を究明することが必要なことなんだ」


 振り返ってみると、茅乃もこっちを見つめていた。


「そうだよね。うん、私もそれに賛成だよ!」


 茅乃は笑っていた。

 だけど、茅乃が一瞬、寂しそうな顔をしたのを俺の眼は見逃さなかった。


   ꕤ


 俺と茅乃は一度、準備のために部屋へ戻っていた。今は新品の洋服に袖を通して、木目ベージュの廊下で茅乃のことを待っている最中だ。


「アヤセくん、お待たせ」


 ごくりと、俺は茅乃の姿を前に静かに息を呑んだ。

 白の夏服をベージュのワイドパンツにタッグインしたシンプルな服装。髪は編み込みがされていて、後頭部で一つに結われていることもあり、首筋がどの角度からも見えるようになっていた。

 前髪は瞳に被さらず、重くなりすぎないよう整えられており、顳顬の辺りから垂れる触覚は、手の加えられていない草原のように自然な感じで流れていた。

 それに見惚れて黙り込む俺を茅乃は笑いながら先導する。


「じゃあ行こっか、この世界の謎を解き明かしに——」


 茅乃はどこか大袈裟なフレーズに合わせて、扉を開ける。

 扉の隙間から差し込んだ陽光が玄関先を照らして、俺はその眩い光に引き寄せられるように歩き始めた。


「ああ、そうだな。行こうか」


 この世界を解き明かして、茅乃を助けるために——。


 外には夏の風物詩と名高い蝉の声が響いていた。暗い室内で目を慣らしたせいで、外の風景が白んで映る。耳の最奥に残り続ける鳴き声から意識を逸らしつつ、ふと空を見上げた。


 青天白日。よく晴れていて、それを遠目に俺は胸中に湧き上がる、使命感ではない、もう一つの感情は何かと考えていた。

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